時間はどんどん過ぎていく。ミエちゃんは、なにも言わずに立ちつくしている。

 スマホを持つ手が、汗ばんでくる。

 横にいる伊勢くんの顔を見た。今はもう、笑ってはいなかった。

「一分。ミエちゃん。あと、一分よ」

 本当に、別の世界から来た子だった。

 あたしたちが知らない、遠い、不思議な世界で育った子だった。

 そやけどね……。ミエちゃん。あなたが生まれたのは、この世界やったんやて。

 太陽と月があって、赤い夕日が美しく見える、この世界が、あなたのふるさとやったんよ。

「……あたし、泣きそう」

 伊勢くんの手が、あたしの背中にふれるのを感じた。ぐっと力がこめられて、くずれそうな体を支えてくれた。

「決めるのは、ミエちゃんや。おれらは、黙って見守ってやらな」

「ミエちゃん! もう、三十秒しか」

「帰らないでいす!」

「ミエちゃん……。うれしいけど、それ、本当に本気で?」

「本気でいす。向こうでは、誰も、わたしを待っていないのでいす」

「ミエちゃん。やけになったら、あかんで」

「伊勢くんの言うとおりよ。よーく考えた方が、ええんちゃう?」

「イセ。トバ。ありがとう。でもですねい、ほんとは、考えるまでもなかったのでいす。

 わたしは、親に捨てられたんでいす……」

「ええっ?!」

 あたしと伊勢くんの声が、かぶった。

「わたしが、まだ赤ちゃんだったころのことでいす……。金髪の女の人が、ニポン村にやってきました。そして、村長にわたしを預けて、去っていったのでいす。

 事情は知りません。でも、大きくなってから、村長から話を聞いたわたしは、その女の人が、わたしのお母さんだと思いました。

 その日から、長い苦しみが始まったのでいす……。どうしてわたしを捨てたのかと、お母さんを恨みました。ずっと憎んでいました。

 だから、金髪の人たちが話す言葉だけは、ぜったいに学ばないと、心に誓ったのでいす……!」

「そやから、英語やフランス語がしゃべられんかったんやな! 納得したわ!」

「ミエちゃんの話は、本当なん? あなたは、わかっとるはず」

「おおむね合っているが。かんじんなところが抜けているな」

「どういうことや?」

「この娘の母親が、なぜ、わしに我が子を預けたのかという理由だ」

「もったいぶるなや。さっさと話さんかい!」

「伊勢くん。言葉が、あれな感じよ」

「……すいません」

「母親は戦火のさなかにいた。敵の進軍に怯えながら、この娘を生んだ。

 そして、神に祈った。この娘を救ってほしいと、強く願った。

 その願いに引かれて、わしは、母親の前に姿を現した。

 無事に逃がしてやることはできるが、二度と会うことはかなわないと伝えた。それでもいいと答えたから、逃がした。それだけのことだ」

「それって、いつの……どこの話や」

「1944年のポーランドだ」

「ひえっ……」

「ななじゅう……七十七才?!」

「彼岸の国では、時の流れが異なる。湿った葉から一粒ずつ落ちる滴のように、ゆっくりと年をとる。

 ここで生きるなら、まっとうに年をとって死ぬ。向こうの方が、ずっと長く生きられる」

「ポーランド……」

 あたしたちをふり返ったミエちゃんは、びっくりしたような顔をしていた。

「それは、この世界にある国なんですかい」

「ある! ある!」

「そうですかい。そしたら……。そしたら、わたしは、ここに残るですよ」

「そうか。向こうには二度と戻れないが、それでいいのか」

「あい。ひとつだけ、質問があります。あの、金髪の女の人は、わたしの……」

「おまえの母親だ。おまえを抱いたままの母親を、向こうに送った。

 わしが一度に送れる命の数には、かぎりがある。赤子を送ることは、めったにないことだ。特例として、おまえの母親を同行させた。

 おまえの母親は、時間が許すかぎり向こうの村を見てまわって、もっとも大切にしてくれると感じた村におまえを預けてから、1944年のワルシャワに戻った」

「第二次大戦中のワルシャワって、ねえ……」

「そのころの日本も、そうとうやばかったやろうけどな。『ワルシャワ蜂起』って、教科書で読んだ気するわ」

「なんですかい? それは」

「待ってね。スマホで調べたげる」

「やめとこうや。鳥羽ちゃん」

「どうして?」

「ミエちゃんは、ポーランド人とはかぎらんやろ。

 あのな……。ミエちゃん。この世界では、大昔から人と人が争ってきたんや。小さいもんから、大きいもんまで、数えきれんほど、たくさんの戦争があった。

 1944年のワルシャワも、戦場やった。ミエちゃんのお母さんが、ミエちゃんの無事を、神さんに祈るしかない状況やったんや。

 それだけ、わかっとってくれたら、ええ」

「そうでしたか……。そうだったんですねい。

 ありがたいこと、だったんですねい……」

 ミエちゃんの大きな目から、涙がぽろっと落ちた。

「お母さんは……お父さんは、わたしを、愛してくれていたんですかねい……」

「愛してたに決まっとるて!

 二度と会えんでも、生きていてくれさえすればええて……。究極の愛や! 本物の親心やで!」

 伊勢くんが叫んだ。ものすごい大声だった。

 ミエちゃんの見ひらいた目から、涙があふれてくるのが見えた。

 伊勢くんが駆けよる前に、あたしの体は動きだしていた。

 なんて、かわいい、かわいそうな、こどもみたいなミエちゃん……。

「おいで。ミエちゃん」

「トバー……」

 ぎゅうっと、抱きしめてあげた。向こうからも手がのびてきて、あたしの腰にまわされる。小さな体だった。

「おかあさーん! うわーん!」

 ミエちゃんは、わあわあ泣いた。

「ここに、いてええんよ……。ミエちゃんなら、ちゃんと、生きていける!」

「そやで! なんたって、ミエちゃんはニポン語とスワヒリ語がわかるんやから!」

「ふ……ふへえ。チュゴク語も、ちょとわかるでいす」

「おっ、ええな!」

 伊勢くんが、あたしの体ごと、ミエちゃんをぎゅうっと抱きしめた。どきっとした。

「うぅー。くるしいでいす」

「ごめんな」

 伊勢くんが腕を離しても、あたしはミエちゃんを抱きしめたままでいた。ミエちゃんも、あたしから離れなかった。

 そのまま、ずっと抱き合っていた。下の方から、すんすんと鼻をならす音が聞こえた。

 ミエちゃんが泣きやんでから、体を離した。

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