3
時間はどんどん過ぎていく。ミエちゃんは、なにも言わずに立ちつくしている。
スマホを持つ手が、汗ばんでくる。
横にいる伊勢くんの顔を見た。今はもう、笑ってはいなかった。
「一分。ミエちゃん。あと、一分よ」
本当に、別の世界から来た子だった。
あたしたちが知らない、遠い、不思議な世界で育った子だった。
そやけどね……。ミエちゃん。あなたが生まれたのは、この世界やったんやて。
太陽と月があって、赤い夕日が美しく見える、この世界が、あなたのふるさとやったんよ。
「……あたし、泣きそう」
伊勢くんの手が、あたしの背中にふれるのを感じた。ぐっと力がこめられて、くずれそうな体を支えてくれた。
「決めるのは、ミエちゃんや。おれらは、黙って見守ってやらな」
「ミエちゃん! もう、三十秒しか」
「帰らないでいす!」
「ミエちゃん……。うれしいけど、それ、本当に本気で?」
「本気でいす。向こうでは、誰も、わたしを待っていないのでいす」
「ミエちゃん。やけになったら、あかんで」
「伊勢くんの言うとおりよ。よーく考えた方が、ええんちゃう?」
「イセ。トバ。ありがとう。でもですねい、ほんとは、考えるまでもなかったのでいす。
わたしは、親に捨てられたんでいす……」
「ええっ?!」
あたしと伊勢くんの声が、かぶった。
「わたしが、まだ赤ちゃんだったころのことでいす……。金髪の女の人が、ニポン村にやってきました。そして、村長にわたしを預けて、去っていったのでいす。
事情は知りません。でも、大きくなってから、村長から話を聞いたわたしは、その女の人が、わたしのお母さんだと思いました。
その日から、長い苦しみが始まったのでいす……。どうしてわたしを捨てたのかと、お母さんを恨みました。ずっと憎んでいました。
だから、金髪の人たちが話す言葉だけは、ぜったいに学ばないと、心に誓ったのでいす……!」
「そやから、英語やフランス語がしゃべられんかったんやな! 納得したわ!」
「ミエちゃんの話は、本当なん? あなたは、わかっとるはず」
「おおむね合っているが。かんじんなところが抜けているな」
「どういうことや?」
「この娘の母親が、なぜ、わしに我が子を預けたのかという理由だ」
「もったいぶるなや。さっさと話さんかい!」
「伊勢くん。言葉が、あれな感じよ」
「……すいません」
「母親は戦火のさなかにいた。敵の進軍に怯えながら、この娘を生んだ。
そして、神に祈った。この娘を救ってほしいと、強く願った。
その願いに引かれて、わしは、母親の前に姿を現した。
無事に逃がしてやることはできるが、二度と会うことはかなわないと伝えた。それでもいいと答えたから、逃がした。それだけのことだ」
「それって、いつの……どこの話や」
「1944年のポーランドだ」
「ひえっ……」
「ななじゅう……七十七才?!」
「彼岸の国では、時の流れが異なる。湿った葉から一粒ずつ落ちる滴のように、ゆっくりと年をとる。
ここで生きるなら、まっとうに年をとって死ぬ。向こうの方が、ずっと長く生きられる」
「ポーランド……」
あたしたちをふり返ったミエちゃんは、びっくりしたような顔をしていた。
「それは、この世界にある国なんですかい」
「ある! ある!」
「そうですかい。そしたら……。そしたら、わたしは、ここに残るですよ」
「そうか。向こうには二度と戻れないが、それでいいのか」
「あい。ひとつだけ、質問があります。あの、金髪の女の人は、わたしの……」
「おまえの母親だ。おまえを抱いたままの母親を、向こうに送った。
わしが一度に送れる命の数には、かぎりがある。赤子を送ることは、めったにないことだ。特例として、おまえの母親を同行させた。
おまえの母親は、時間が許すかぎり向こうの村を見てまわって、もっとも大切にしてくれると感じた村におまえを預けてから、1944年のワルシャワに戻った」
「第二次大戦中のワルシャワって、ねえ……」
「そのころの日本も、そうとうやばかったやろうけどな。『ワルシャワ蜂起』って、教科書で読んだ気するわ」
「なんですかい? それは」
「待ってね。スマホで調べたげる」
「やめとこうや。鳥羽ちゃん」
「どうして?」
「ミエちゃんは、ポーランド人とはかぎらんやろ。
あのな……。ミエちゃん。この世界では、大昔から人と人が争ってきたんや。小さいもんから、大きいもんまで、数えきれんほど、たくさんの戦争があった。
1944年のワルシャワも、戦場やった。ミエちゃんのお母さんが、ミエちゃんの無事を、神さんに祈るしかない状況やったんや。
それだけ、わかっとってくれたら、ええ」
「そうでしたか……。そうだったんですねい。
ありがたいこと、だったんですねい……」
ミエちゃんの大きな目から、涙がぽろっと落ちた。
「お母さんは……お父さんは、わたしを、愛してくれていたんですかねい……」
「愛してたに決まっとるて!
二度と会えんでも、生きていてくれさえすればええて……。究極の愛や! 本物の親心やで!」
伊勢くんが叫んだ。ものすごい大声だった。
ミエちゃんの見ひらいた目から、涙があふれてくるのが見えた。
伊勢くんが駆けよる前に、あたしの体は動きだしていた。
なんて、かわいい、かわいそうな、こどもみたいなミエちゃん……。
「おいで。ミエちゃん」
「トバー……」
ぎゅうっと、抱きしめてあげた。向こうからも手がのびてきて、あたしの腰にまわされる。小さな体だった。
「おかあさーん! うわーん!」
ミエちゃんは、わあわあ泣いた。
「ここに、いてええんよ……。ミエちゃんなら、ちゃんと、生きていける!」
「そやで! なんたって、ミエちゃんはニポン語とスワヒリ語がわかるんやから!」
「ふ……ふへえ。チュゴク語も、ちょとわかるでいす」
「おっ、ええな!」
伊勢くんが、あたしの体ごと、ミエちゃんをぎゅうっと抱きしめた。どきっとした。
「うぅー。くるしいでいす」
「ごめんな」
伊勢くんが腕を離しても、あたしはミエちゃんを抱きしめたままでいた。ミエちゃんも、あたしから離れなかった。
そのまま、ずっと抱き合っていた。下の方から、すんすんと鼻をならす音が聞こえた。
ミエちゃんが泣きやんでから、体を離した。
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