第3話 ひとりぼっちのカンタータ ⑥
結論から言うと、昨日姉ちゃんがくれた羊羹は下宿生に好評だった。
もっともそれは、スライスした羊羹をバタートーストの上に乗せて食べるというみずほ姉ちゃんの天才的アレンジのおかげでもあるのだが、それでも和気藹々(わきあいあい)と羊羹に舌鼓を打つ下宿生たちの顔を見ると姉ちゃんの渋いセンスがみんなにも受け入れられたような気がして俺も嬉しかった。
二限目の休み時間。俺と小早川はそんな裏話をしながら渡り廊下を歩いていた。
折板屋根と手すりだけの簡易的な構造の廊下は吹き抜ける風のせいで寒い上にやけに薄暗い。
小早川と話しているおかげでそこまで気にならなかったが、寒がりな俺が一人で歩いていたら通るたびに憂鬱な気分になっていただろう。
ダーン、ダーン……
……行った行った! そっち!
……待って! 無理!
キュッ、キュッ……
つきあたりにある体育館の扉の奥から、様々な雑音が響いてくる。
次の授業は移動教室の書道で、その教室へ向かうためには体育館を経由する必要があった。
「私も会ってみたかったな、衣彦くんのお姉ちゃん」
「見た目はクールだけど面白いぞ、天然で」
「衣彦くんに似てるんだね」
「そう言われると確かに俺もクールキャラかもしれないな」
「ううん、そっちの方は全然、ちっともそんなことないんだけど……」
「そんな念入りに否定する?」
「ち、違うの、衣彦くんは話しかけやすい人って意味で……!」
弁明の途中で俺が失望したようにかぶりを振ると、小早川は肩を震わせて笑った。
他愛もない会話をしながら俺たちは扉を開けて体育館へと入る。
艶々とした光沢を放つフローリングの床が眩しいその空間には、大勢の生徒がいた。授業の人数にしては多過ぎるし、いずれの生徒も制服姿の割合が高い。
そしてその視線のほとんどは、ひとつのコートに集中していた。
何事かとその視線の先を追うと、そこには見慣れた人物がいた。
「……? あそこにいるのってウルか?」
「あ、ほんとだ……潤花ちゃんだ」
ダーン、ダーン、ダーン……
キュッ、キュッ──キュッ
体育館の奥でボールと上靴の鳴く音を響かせていたのは、潤花を含めた女子の集団だった。
よく見ると、潤花が一人で三人を相手にしている1on3のバスケだ。
ジャージを着た相手の女子三人は動きからして経験者で、対する潤花はなんと、シャツとスカート姿のまま。しかも、スカートの下にジャージを履いているだけのすさまじく野暮ったい恰好だった。
「潤花さーん! がんばってくださーい!」
「頼むよ潤花! 昼ご飯かかってるからね!」
「やばい! 潤花めっちゃ映える! スカートの下ジャージなのに、めっちゃ映える! やばいウケんだけど!」
ステージにも制服姿の三人組がいて、彼女たちはスマホで撮影しながら潤花のことを応援していた。おそらく先日話していた潤花の友達グループだと思われるが、見たこともないはずの愛羅が誰なのかだけは一発でわかった。
「すごいね潤花ちゃん……みんな見てる」
「そうだな……」
体育館のギャラリーには人だかりができていた。
成績トップの学年総代、道場破り紛いの体験入部、それに加えてモデル並のルックスで瞬く間に時の人となっていた潤花を一目見ようと、みんな興味津々なのだろう。
運動部らしき風貌の生徒が六割、アイドルを見に来たようなノリで黄色い声を上げる女子や品定めするように見ているチャラそうな男子が三割。残り一割にいたっては個性がさまざまで、プロバスケチームのユニフォームを着ながらニヒルな笑みを浮かべている不審者までいる。
しかし当の潤花はそんな観衆には目もくれず、悠然とドリブルをしながら真剣な表情で三人と対峙していた。
キュッ──と、潤花の足が一瞬止まる。
それを見たジャージの三人はビクッと揃って身構え、潤花の正面にいた女子が少しずつ距離を詰め始める。
その刹那、
ダンッ!
潤花が爆発的なスピードで走りだし、ものの数秒でディフェンスを置き去りにした。
速いってもんじゃない。たった数歩で何メートル走ったんだ。
「はやっ──!」
まさかそこまでの勢いで突っ込んでくるとは思わなかったのだろう。気を張って警戒していたはずの二人目の女子生徒は慌てた様子で潤花の進路を遮ろうとするも、たったのワンフェイントで抜かれてしまう。
あと一人。
怒涛の猛スピードでゴール下へ向かう潤花の前に、最後の一人がディフェンスに入った。相手は腰を深く落とし、今度こそ動線上を塞いでいる。さすがの潤花もここで足が止まるか──と思いきや、潤花はそのまま、跳んだ。
ドツッ……ダーン……!
バックボードに当たり、リングから落ちたボールが転々と跳ねて転がっていく。
おぉぉぉ……!
会場が湧いた。
万雷の拍手と歓声が潤花を讃えている。
無理もない。潤花がシュート体勢に入ったのはペイントエリアよりもまだ手前。潤花は、そこで跳びながら相手をかわしてシュートを決めたのだ。こんな芸当、プロの動画くらいでしか見たことがない。
「潤花さーーーーーん‼ 素敵ーーーーー‼」
「やばいんだけどマジ! 潤花めっちゃやば‼」
「よっしゃーー! スタミナランチゲットォ‼」
黄色い声援が遠くにいるこっちにまで響く。
潤花は走りながら次々と三人とハイタッチをしている。
友達の声援に応えるように、爽やかな笑顔だ。
そこに、先日垣間見たような陰りはない。
「潤花ちゃん、すごい……!」
「……あぁ、すごいな」
俺たちは足を止めて潤花の活躍に釘付けになっていた。
いや、俺たちだけじゃない。
ここにいる誰もが、あいつに注目している。
そんな視線の中で、潤花は友達に囃し立てられながら笑っている。
……でも、何だろう。
当たり前といえば当たり前だが、下宿にいるときとはまた違う雰囲気だ。
「古賀くーん! 真由ちゃーん!」
ぼんやりと潤花の様子を眺めていた俺たちの元へと駆け寄ってきたのは、今まさに注目の的となっているスーパー新入生の姉、優希先輩だった。
「あ、優希ちゃん……」
「いぇーい、真由ちゃんもハイタッチー」
何でだよ、という突っ込む間もなくパチンと可愛らしい音を立てて両手を合わせる先輩と小早川。太陽のごとく明るい先輩の笑顔にあてられたせいか、小早川も嬉しそうに微笑んでいた。
「すごいでしょ。あれ、うちの妹」
「うん、潤花ちゃん、すごかった」
「先輩もドヤ顔は負けてないですよ」
「まーね! 潤花にドヤ顔を教えたのは私だから」
「すげぇ師匠ヅラ」
そこですかさずエッヘンと先輩が胸を張ると、隣にいる小早川がたまらず噴き出した。
「二人も潤花のおっかけで来たの?」
「いえ、妹さんには一ミリも興味ないんですけど、次の授業、あっちの教室なんで」
「古賀くんってばまーたそんなこと言って。素直じゃないんだからもぉ~」
「痛っ。ちょ……叩く力が意外と強っ。痛っ」
「優希ちゃんは潤花ちゃんの応援?」
「そうそう、潤花がバスケットやってるって友達に教えてもらったから、応援に来たの。古賀くん、潤花すごかったでしょ?」
「まぁ、そうですね」
「でしょ? あとで褒めてあげてね、潤花のこと」
「こんなに褒められてるんですからもう充分じゃないですか」
「かー! わかってないなぁこの鈍感! おたんちん! 古賀くんはもっとうちの可愛い妹のこと勉強して!」
「俺、何でこんな怒られてんの?」
「潤花ちゃん、きっと古賀くんに褒められるのと他の人に褒められるのとじゃ違うんだよ」
ぷりぷりと口を尖らせる先輩を尻目に小早川に相談してみるが、いまいちその答えもピンとこない。乙女心、謎過ぎる。
……謎と言えば、そうだ。ひとつ気になることがあった。
「そういえば先輩。ウルのやつ、最近何であんなことしてるんですか?」
「あんなこと?」
「体験入部のことですよ。いろんな部活に顔出してすごい活躍したみたいなのに、昨日本人に聞いたらただの興味本位だから最初から部活に入る気はないって言うんですよ」
「それは私も潤花から聞いてたけど……いろんな部活に興味を持つのは別に変じゃないと思うよ?」
「普通の人ならそれで済むんですけど、ウルがそんなことを言うのは、ちょっと違和感ありませんか? あいつ、自分が何をやらせても他の人よりもうまくやれるって自覚はあるはずなのに、それを誇示しておいて部活には入らない……言ってしまえば、ただの冷やかしじゃないですか」
「…………」
「力試しのつもりって言うならまだわかるんですけど、そうじゃないみたいですし。だから、本当のところはどうなのか、お姉さんとしての見解を聞きたかったんです」
「……どうだろうね。古賀くんの疑問もよくわかるけど、潤花なら本当に言葉通りの理由って可能性も十分あるから、なんとも言えないなぁ。それに、興味本位っていう理由なら、私も関係者のふりして全然知らない人のお葬式に参列したこともあるし、それに比べたらあんまり突飛なこととは思えないんだよね」
「へー、全然知らない人の葬式に出て……はっ⁉ 知らない人の葬し──えっ⁉ なんて⁉」
「全然知らない人のお葬式に参列したの」
「えっ、えっ? 知らない人の? 優希ちゃんが、何で……?」
「うん、他人の。ちょっと気になったから」
ち ょ っ と 気 に な っ た か ら 。
「ちゃんと香典は出したよ」
あっけらかんとした口調で言いながら、真顔でⅤサインをする先輩。
俺は呆然としている小早川の手を引き、先輩から二、三歩離れたところで声をひそめた。
「…………なぁ、もしかしておかしいと思ってる俺がおかしいのか? ちょっと小早川の判断で、俺と先輩、おかしい方と思う方に思いっきり氷水ぶっかけてくれないか?」
「ダ、ダメだよ衣彦くん……そんなことしたら優希ちゃんが風邪引いちゃう……!」
「二人とも、本音がお漏らししてるよ」
「気にしないでください、世界の広さを噛みしめてただけなんで」
「今真由ちゃん使って私に氷水ぶっかけようとしてなかった?」
「ははは、まさか。なぁ小早川」
紳士的に微笑む俺と、慌てた様子でこくこくと頷く小早川。先輩はそんな俺たちに疑いの眼差しを向けていた。
そこへ、俺たちのもとにパタパタと軽やかな足音が近付いてきた。
「ごめーん! もしかして待っててくれた⁉」
俺たちの元に走ってきたのは、みずほ姉ちゃんだった。教科書を持ってくるのを忘れたため、一度教室に戻っていたのだ。
「みーちゃん遅―い!」
「ごめーん……って、別に優希は待ってないでしょ! むしろ何でいるの⁉」
会って早々のノリツッコミをするみずほ姉ちゃんと、舌を出して茶目っ気をアピールする優希先輩がハイタッチをしていた。この女子仕種、やはり流行っているらしい。
「惜しかったねみずほ姉ちゃん。もう少し早く来てたらすごいもの見れたのに」
「えー、何? 虹?」
「ぶー。正解は空中ブランコでした」
「体育館で⁉」
「違うよみーちゃん。カマキリの交尾だよ」
「たっ、体育館で⁉」
「ふ、二人とも違うよ……!」
「え⁉ ちょっとやめてよ! 一瞬信じちゃったでしょ!」
「ごめん。ウソは良くないと思ってるんだけど、みずほ姉ちゃんのリアクションが好きでつい」
「そうだよ。みーちゃんが可愛い過ぎるのが悪いんだから」
「リ、リアクションに困ること言わないでよ……」
「今ね、潤花ちゃんのバスケ見てたの。すごかったよ。三人相手だったのに、潤花ちゃん一人で勝っちゃったの」
「あ、潤花ね! それなら納得! すごいね潤花……それでみんな潤花のところに集まってるんだ」
「今日の夕飯のときにでもまた自慢しそうだな、あいつ」
「ふふっ、子供みたいで可愛いでしょ。私、潤花のそういう無邪気なところ好きだな」
「いやぁ、それほどでも……」
「すげぇ当事者ヅラしますね、姉さん」
「あ……見て。潤花ちゃん手振ってくれてる」
「ほんとだ! 潤花ー! 見れなかったけど頑張ったんだねー!」
体育館の隅からこちらに向けてキラキラと輝く笑顔で手を振ってくる潤花。
眩しい。その光は俺のように根暗な人間にとっては目が潰れそうになるほど眩しい。ここにいる三人も潤花に負けないくらいの笑顔で手を振っている。その仲睦まじいやりとりの間に挟まれながら、俺はふっと口角を上げ──かけたところでハッとする。いかん。このままでは俺も初めての授業参観に浮かれる娘を見守る父親のような気持ちが芽生えてしまいそうだ。
俺はまだ下宿生全員に完全に心を許したわけじゃない。
特に潤花はそんな俺の心のバリゲートを易々と破壊して踏み込んでくる無邪気なモンスターだ。そんなやつに篭絡(ろうらく)されてなるものかと、俺はこみ上がる父性に必死で抵抗しながら人差し指で瞼の下を引っ張り、舌を出した。
俗に言う、あっかんべーである。
「……!」
俺の反応を見て一瞬目を丸くした潤花はむぅっとした。そして頬を膨らませ、小指で思いっきり口の両端を引っ張りながら、お返しとばかりにいーっ! と顔をしかめた。
「衣彦のバカーー! もうあーんしてやんないんだからねー‼」
「ばっ……!」
声がでけぇよ……!
思わぬ逆襲に遭い、全身の体温がぶわぁっと上昇する。
潤花が大声で叫んだせいで、潤花を取り囲んでいた女子生徒たち──否、体育館中の視線が一瞬で俺に集中してしまったのだ。
え……何? どういうこと?
あれじゃない? ほら。あの下宿の……
うっそ、美珠さんとそういう関係なの?
あはは、まっさかぁ。
それはないでしょ、だってこないだあの人……
は? キレそう……
何あいつ、調子乗ってね……?
ヒソヒソと好き勝手に囁かれる噂話(ノイズ)が耳に入ってくる。中には殺意に満ちた視線で睨んでくる男連中や般若の形相で威嚇してくる潤花の取り巻きもいて、見渡せば有象無象の生徒たちが俺に目を向けていた。
勘弁してくれ。なんだこの体育館は……ここだけ民度の低いSNSの動物園か? 燻(くす)ぶったフラストレーションを他者への攻撃で昇華しようとする現代人達の縮図なのか?
「いっけない! みんな! もうこんな時間だよ!」
「衣彦、私たちもそろそろ──」
「行かなくちゃ」
「あ……お、おう」
まるで見世物小屋に放り込まれた気分で狼狽していた俺を正気に戻したのは、同時に話しかけてきた優希先輩たちだった。
三人は、同じタイミングで声をかけた偶然にお互い目を合わせて微笑み合い、そして俺の方を見て頷いた。
「あー楽しかった。みんな、潤花の応援にきてくれてありがとう。私、もう行くね」
「うん。私も楽しかった」
「優希、またね。私たちも行こ」
「あ……うん。そうだね」
優希先輩の背中をぼんやり見送りながら、いつのまにか雑音が気にならなくなっていたことに気付いた。
助かった。いや、助けられた
俺はほっとした気持ちで二人の少し後ろを歩く。
「…………」
その後ろ姿を見て、ふと潤花の言葉が脳裏を過ぎった。
『衣彦はさ、どうして真由と仲良くなれたの?』
興味があることを聞いたのに、潤花は何でそんなことを聞いてきたのだろう。
誰かと仲良くなるなんて、あいつなら造作もないはずだ。
周りには、たくさんの人がいるじゃないか。
憧れと羨望の眼差しに囲まれて。大勢の人から評価されて。
それ以上に何を望むんだ。
気になって、一瞬だけ後ろを振り向いた。
いまだに大勢の生徒がこっちを見ている。
笑っているやつ。
睨みつけてくるやつ。
その中心にいる潤花は、口の端をぎゅっと結び、ただ黙ってこっちを見ていた。
言葉の代わりに、すがりつくような視線が、俺達の方を向いていた。
振り向くんじゃなかった。
稀代のスーパー新入生・美珠潤花。
その瞳には、まるで星のない夜の月のように、孤独感が満ちていた。
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