第3話 ひとりぼっちのカンタータ ④

 コツコツとリノリウムの床を叩く踵(かかと)のリズムが、放課後の静けさに溶けていく。

 昼間は生徒達の声でにぎわっているこの三階の廊下も、今はすっかり人気がない。

 まるで世界の終わりだ。

 図書室の蔵書を物色していたせいで感受性が高まったのか、そんなポエミィな情緒に思いを馳せながら歩いていると、廊下の奥の方に四人の人影を見つけた。一人は眼鏡をかけた長い三つ編みの女子生徒で、廊下の窓を開けて中庭を見下ろしている。残りの三人はにぎやかに声を弾ませながら、こちら側に向かって歩いていた。


「そろそろ被害者の会ができそうだね。例のスーパー新入生の」


「クラスもその話題で持ち切りでした。学年総代の子は、運動神経もすごいって」


「格の違いを見せつけられましたもんねー」


「そうだね。でも、さすがに心折れたなぁ……初心者の子にあそこまでやられるとは思わなかった」


「仕方ないですよ、美珠さんは特別ですから。私も、美珠さんを見てたら今まで私が必死にがんばってきたことは何だっただろうって、努力を否定された気持ちになりました」


「チアキはネガティブ過ぎない? 私は良いなって思ったけどな。顔も頭も良くて、あれだけいろんなことができるなんて芸能人みたいじゃん。今のうちサインもらっておこうかな」


「ミオのそういう能天気なところは良いなって思うよ」


「バカにしてる⁉ ねぇ! それ絶対バカにしてるよね⁉ 今日の練習、ボッコボコにしてやるから‼」


「はいはい、二人とも仲良くね」


 すれ違いざま、三人はきゃはははと楽しそうに笑い声を響かせながら去っていった。

話し声が遠くなっていき、静寂が戻った廊下には、物憂げな表情で佇む三つ編みの女子生徒と俺だけが残った。


「…………」


 俺は周囲に人がいないことを確認してから、そいつのすぐ近くまで歩み寄り、一緒に窓の外を見た。

 植え桝(ます)の中で新緑が青々と繁(しげ)った樹が目を引く、なんの変哲もない中庭だった。

 それ以外には何もない。

 かすかに鼻孔をくすぐる、甘い香水の匂いを除いて。


「今日は体験入部に行かないのか? スーパー新入生」


 俺の呼びかけに三つ編みの生徒はぴくりと反応し、その横顔をゆっくりとこちら側へ向けた。

 きつく結ばれた長い三つ編みが静かに揺れる。

 黒縁のメガネをかけた潤花は、どんな恰好をしていても綺麗だった。


「……いつから気付いてた?」


 にひひ、といたずらっぽい笑みを浮かべるその表情は、いつもの見慣れた笑顔だった。

 当然今の三人の話を聞いていたはずだが、それを気にした素振りも見せない。


「昼休み、みずほ姉ちゃんと小早川の悲鳴を聞いてすごい勢いで俺らのクラスに来ただろ。すぐにわかったよ。二人の悲鳴に誰よりも速く反応してたしな」


「あぁ、あの時……変装は完璧だと思ったんだけどなぁ」


 思惑が外れて残念そうな潤花に対し、俺は得意になってふんと鼻を鳴らした。

 表には出さなかったが、噂のスーパー新入生の変装を見破ったことで俺は内心ドヤ顔だった。


「残念だったな。お前がどんな恰好していようと、俺にはすぐわかるんだよ。長くて綺麗な髪も、しゅっとした佇まいも、他のやつには絶対に真似できないからな」


「あ、ありがと……」


 おっと、調子に乗ってつい早口になってしまった。テンションが上がるとすぐ早口になってしまうのはオタクの悪い癖だ。自重せねば。


「それと、その香水の匂い。朝からずっと気になってた。その匂い、腹立つから俺のいる前でつけるな」


「えぇ? 何で腹立つの?」


「嫌いな女がつけてた香水と同じだからだ」


「ふーん、元カノか」


「は? ちが……いや違くないけど、何でわかるんだよ」


「匂いがするほど近くにいたってことだから、そういうことかなって」


「たまたま席が近かっただけの可能性もあるだろ」


「今このタイミングで言ったってことは、他のみんなに聞かれたくない話だったんだろうなって思うのが自然じゃない?」


「お前……鋭いな」


「……あんまり当たって欲しくなかったけどね」


「何だって?」


「べっつにぃー」


 わざとらしく唇を尖らせた潤花は、おどけたように肩をすくませた。


「さっきの話だけど、今日は体験入部いかないよ。なんか、疲れちゃった」


「精神的に?」


「そ。私もウブで繊細なお人形系女子だからね。知らない人からグイグイ話しかけられたら恥ずかしくて──待って。何その顔。十メートル助走してからぶん殴っていい?」


「今のはツッコミ待ちだったろ⁉ 構えるのやめろ!」


 戦闘態勢に入りかける潤花に腕を上げて身構えると、潤花が「お」と嬉しそうに呟く。


「衣彦も空手やってたんだ」


「昔ちょっと齧(かじ)ってただけだ」


「何でやめちゃったの?」


「嫌な思いしたことの方が多かったからな。空手自体は嫌いじゃなかったけど」


「そっか。楽しいかどうかは環境によるもんね」


「それと、才能もな」


 俺がそう言うと、潤花はふっと寂しそうに笑い、構えを解いた。そのときにまたチラリと中庭の方を見ていたが、相変わらずそこに何かがあるようには見えなかった。

 一瞬気に障ったのかと思ったが、怒っている様子ではない。俺はなんとなくばつが悪くなったので、話題を切り替えることにした。


「結局、部活はどこにも入らないのか?」


「うん。最初から入る気なんてなかったからね」


「何で行ったんだよ」


「普通の高校生ってみんなどんなことしてるんだろっていう、ただの好奇心」


「まるで自分が普通じゃないみたいに言うんだな」


「だって、こんなのが普通に見える?」


 さっきすれ違った女子たちの会話が脳裏を過ぎる。

 俺は答えずに、ただ眉をひそめた。

 潤花はそんな俺に何を思ったのか、静かに笑いながら眼鏡を外し、何も言わず三つ編みを解いていった。


「私、センスや才能って、人が産まれてくる前に神様からプレゼントされるものだと思うんだよね。天国の工場みたいなところで、神様がコンベアに流れてくる人間の魂ひとつひとつに『この子には料理の才能をあげよう』とか、『この子は人に愛される才能をあげよう』とか、いろんな種類の才能を、いろんな人に配りながら地上に送り出すの。もちろん、本人の努力次第でその芽が咲かないこともあったりしてさ」


 同じことを、俺も思ったことがある。

 脳裏に浮かぶのは、ごく身近な顔ぶれだった。

神童と謳われた鋼鉄の才女。徳をカンストした聖人。万年美男子。立志伝中の挑戦者。常勝無敗の野生児。

 それらを表には出さず黙って話を聞く。


「私はきっと、神様にその種の量を間違えられたんだと思う。『入れ過ぎたけど、まぁいっか』って、そのまま出荷されちゃったんだね。おかげで見た目を褒められることも多いし、勉強や運動でも何でも、みんなが一生懸命やってもできないことでも簡単にできる。でも、結局は失敗作だから、その才能のほとんどは、これからもきっと芽を咲かせられない」


「それのどこが失敗作なんだよ」


「失敗作だよ」


 間髪入れず、潤花が言った。


「人の気持ちがわからないもん」


 笑っていた。

 自嘲気味に。非対称な表情で。

 下手くそな作り笑いで。


「こんなこと言ったら嫌味だけど、やり直せるならやり直したいなー、人生。そうしたら、次はもうちょっとうまく生きられると思うんだよね」


「……お前にだってできないことはあるだろ」


「思いつかないから教えてよ」


「甘えんな。それくらい自分で探せ」


「ちぇー、ケチ」


「何か、趣味とかはないのか? 興味はあるけど、なんとなく手を付けてないこととか」


「興味のあること……あ」


「なんだ?」


「衣彦はさ、どうして真由と仲良くなれたの?」


「は?」


 趣味に全然関係のない話だった。


「だって、真由と衣彦、すぐに仲良くなったじゃん。学校でも、最初はみんなの前で全然話せなかったのに、衣彦のおかげで委員長の仕事もできるようになったって、みーちゃん言ってたよ」


「そんなの、小早川ががんばったからだろ」


「衣彦もがんばったでしょ」


「横で偉そうに説教してただけの仕事をがんばったって言うなら、そうかもな」


「そんなことないよ。私知ってるもん。衣彦ががんばってたの」


「何をだよ。見てもいないくせに」


「そうだけど、わかるの」


 やけに食い下がってくるな……こいつに俺の何がわかるっていうんだ。


「学校のテストにもし『優しさ』っていう教科あったら、一番はきっと衣彦だよ」


「はぁ?」


 潤花はじっと俺を見つめている。

 どこか嬉しそうな、何かを訴えるような、そんな眼差しだ。

 いきなり何だよ……俺が優しいわけないだろ。リアクションに困る。俺にどんな答えを求めてるんだ。

 返答に困り、しどろもどろになっていると、


「────!」


 潤花が何かに気付いたように、はっと顔を上げた。

 

「どうした?」


 潤花はおもむろに廊下の窓の鍵を開錠し、キャリキャリキャリと甲高い音を立てる窓を開き、身を乗り出した。


「おい、なんだよ急に」


「ごめん衣彦! 用事思い出したからまたね!」


 そう叫びながら潤花は──窓枠に足をかけていた。


「待っ……! ここ三階──」


 だぞ、と言い終える前に、潤花はぐっと膝に力を込めて──窓の外へ跳んだ。

 潤花の姿が窓の外に吸い込まれるように消えた。

 血の気が引く。

 俺は慌てて潤花の背中を追おうとすると、窓の下からドツッとにぶい着地音がした。


「ウル⁉ おい!」


 窓から下を見下ろすと、潤花は何事もなかったかのようにぱんぱんとスカートを手ではたいていた。


「バカ! 危ないだろ!」


 潤花は目が合うと、にっこり笑った。

 わけがわからなかった。

いきなり三階から飛び降りて、これから遊園地にでも行くかのように爛々(らんらん)と瞳を輝かせている。


「ごめん! でも私、大丈夫だから! ──いろいろと!」


 健在をアピールしたかったのか、潤花はビシッと俺に二本指を突き出してから、軽快な小走りでその場を去っていった。


「大丈夫とか、そういう問題じゃないだろ……」


 結局、あいつのことはわからないままだった。

 マイペースでハイテンション。気まぐれで掴みどころがない。

 なのに、あんな顔をする。

 俺は頭をぐしゃぐしゃ掻いた。

 復讐の計画を練るはずだったのに、台無しだ。中庭を見下ろしている潤花の横顔を見た瞬間、すっかり毒気が抜けてしまった。


「どうすんだよ、これ」

 

 図書室から借りて来た『本当にあったら怖い話』の文庫版に思いを馳せながら嘆息していると、どこからか音が聞こえた。


「……ギター?」


 耳をすまして聞いて見ると、それは弦の音だった。

どこかで聞いたような曲だ。


「この曲、どこかで……」


 何の曲だ?

 絶対に聞いたことがある気がしてきた。

 なのに、メロディがぼんやりと浮かんでは霧散して消えていく。


「くそ、気持ち悪いな」


 思い出したいことが喉まで出かかっているのに出てこない……TOT現象というやつだ。

 こんな豆知識はすらすら出てくるのに、肝心な曲のことはまるで思い出せないのが歯痒い。

 自分の記憶違いだろうか。いや、そんなはずはない。

 疑い始めればきりがない。抜けないトゲのようだった。


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