第3話 ひとりぼっちのカンタータ ②


 嫌な匂いがする。

 ケーキ屋のドアを開けたときに漂ってくるような、甘く柔らかいバニラエッセンスの香り。

 懐かしくて、胸がざわつき、焦燥感を駆り立てる。

 あの女の匂いだ。

 

「──それで、そのすごい一年生っていうのが、陸上部の誰よりも足が速くて、バレー部のエースの子よりもずっと高くジャンプできて、体力測定の結果も軒並み新記録だったとか……とにかく、それがいろんな部の中で噂になってたみたいなんだよね」


 四月も中旬に差し掛かる頃。

 今やすっかり馴染みの光景となった我らが伊藤下宿の朝食の時間、美珠潤花(みたまうるか)はいつものように活気に満ちた声を弾ませていた。枝毛一つない艶やかな長髪に目鼻立ちが整った顔の造形は誰がどう見ても美人で、そのはつらつとした表情は晴れた日の朝のように輝いていた。

 

「それ、潤花のことじゃないの?」


「私も……そう思った」


 テーブル向かいで相槌を打っている二人は、みずほ姉ちゃんこと伊藤みずほと小早川真由だ。

 みずほ姉ちゃんはウェーブがかった栗色の髪を揺らしながら身を乗り出して潤花の話を聞き、短めの黒髪を二つに結び瓶底眼鏡をかけている小早川はマグカップを両手に持ちながら興味深そうに潤花を見つめている。穏やかで柔和な雰囲気の二人が並ぶと草食系の動物が並んでいるようで見ていて和む。


「やっぱり二人もそう思った? 同じこと、クラスメートのマキにも言われたんだよね。でもさ、普通に考えてそんな出来過ぎた話ないでしょ? ずっと長い間その競技を練習してきた子たちより私の方が運動できるなんて、さすがにないよってマキに言ったの。そしたら愛羅(あいら)が──あ、愛羅って言葉の通じない外人にナンパされて一日中ジェスチャーだけでデート乗り切ったっていうギャルね。愛羅が──」


「待って潤花。お姉ちゃん、その話より愛羅ちゃんの方が気になる」


「あとでね。で、その愛羅がさ……」


「ひどーい! 妹が放置プレイー!」


 不満の声を上げながら隣の席の潤花の腕を揺さぶっているのは、潤花の姉である優希先輩だ。

 つぶらな瞳とコロコロ変わる表情が愛らしい美少女だが、下手をすれば小学生と間違えられそうなほど顔立ちが幼いおかげで、初見で優希先輩の方が潤花の姉であることを見抜ける人はまずいないだろう。

 妹も妹で姉を子供扱いしているのか、潤花は口を尖らせながら遺憾の意を表明する姉を見向きもせずによしよしと頭を撫でているだけで、まるで意に介していなかった。


「あれ? 衣彦、どこまで話たっけ」


「……ウルが噂を否定して、ギャルが何かしようとしてた」


「そうだ、思い出した。で、元彼が親父狩りで逮捕されたギャルの愛羅が、『とりま探してみよーよ、その一年生』って言ったから、なるほどと思って、みんなで探すことになったんだよね」

 

「うんうん」


「どんな子なんだろ……」


 二人とも愛羅ちゃんの件(くだり)はスルー⁉ 

 そう言わんばかりに、先輩はぎょっとした表情で二人の顔を交互に見た。

 気持ちはわかる。俺も同じく、愛羅の存在感が強過ぎて続きが頭に入ってこない。


「最初、クラスの子に聞いてみたんだけど手掛かりなしでさ。じゃあ体育の先生に聞いてみるかーってなって職員室に行こうとしたら、廊下にたまたま陸上部の人たちがいたんだよね。そしたらマキが『ちょうどいいからあの人たちにも聞いてみるか』って言って近付いたら、その人たちがいきなり『いたー!』って叫んだの。私たちもびっくりして探すじゃん? え、どこどこ? って。それでその人たちが指さしてる方を見たら……」


 そこまで話してはぁ……と、深いため息を吐いた潤花は、大げさに肩をすくめて手のひらを天井に向けた。


「私だったわ」


「やっぱりーー‼」


 みずほ姉ちゃんと小早川は手を叩いたりお腹を押さえたりして大笑い。優希先輩はやれやれと言った表情で、何故かドヤ顔。

 俺は思った。

 うぜぇ……!


「潤花ちゃん、すごいね……何でもできて」


「いやー、できるにはできるんだけど……ちょっと、なんか違うよなぁって思うよ」


「古賀くん、聞いた? このすごい子ね、私の妹。妹なの」


「めちゃくちゃ古参ファンみたいなマウント取ってくるじゃないですか……」


「でも私、運動神経に恵まれるよりお姉ちゃんみたいに、趣味とかに恵まれたかった」


「潤花のそれは贅沢だよ。私も潤花の運動神経ちょっとでも分けて欲しかったもん。そしたら今頃、体育の授業でずっとバッタ捕まえて先生に怒られたりしてないよ」


「えー? お姉ちゃんの方がすごいじゃん。運動神経なんておばあちゃんになったらいずれ衰えるだけだけど、頭の良い人はずっと頭良いじゃん。そっちの方が羨ましいよ」


「潤花ちゃんも頭良いよ。学年総代、すごいもん」


「あれは珍しくやる気出して勉強したからね。でもね真由、お姉ちゃんは変態なの。やる気出さなくて成績すごいんだから。変態だよ」


「潤花、何度も言ってるけど、変態は生育過程の形態の変化であって、おかしな人のことを指すわけじゃないからねっ」


「はいはい、ごめんごめん」


 言いながら再び先輩の頭を撫でる潤花。

 どうでもいいが、潤花が動くたびにさっきから忌々しい香水の香りが漂ってきて鬱陶しい。

 

「……衣彦? どうしたの? 怖い顔してる」


「別に、なんでもない……」


『隣に浮気して別れた俺の元カノと同じ香水つけている女が悦(えつ)になって自分語りをしているから』なんて、口が裂けても言えなかった。


「あれ? 衣彦、セロリ嫌いなの? すごい避けてるじゃん」


「食べていいぞ。俺はいい」


「え~、なんか残し方が子供みたい。衣彦ってばお子ちゃま~」


 ぷーくすくすとからかうように笑ってくる潤花。その人を小馬鹿にした生意気な態度が本当に腹立たしい。ニヤニヤしやがって、その顔……


「ん~?」


 顔、良いな。

 ……じゃない。違う。危ない。

 その挑発的な微笑みに一瞬見惚れてしまうところだった。

 持って生まれた顔の良さを暴力的に見せつけてきやがって。俺はもう騙されない。  

 女って生き物はこうして男を油断させて無遠慮に心の隙間に入りこんでくる。一度侵入を許したが最後、理性的な思考を奪い冷静な判断力を失わせて心を巣食う。

 俺は元カノの件でメンタルに深手を負ったときの初心に戻り、あえてぶっきらぼうな態度を示すことで潤花に壁を作ることにした。


「別に、大人だって好き嫌いくらいあるだろ」


「でも衣彦以外の人が残しててもなんとも思わないと思う」


「理不尽過ぎんだろ!」


「衣彦くん、嫌いなのトマトだけじゃないんだね」


「衣彦は好き嫌い多いよ。セロリやトマトだけじゃなくてね、納豆に福神漬け……あとレバーも好きじゃないよね?」


 何故かみずほ姉ちゃんが答えた。それも誇らしげに。


「みずほ姉ちゃん、それだけわかっててセロリ入れたのは、俺のこと嫌いだから?」


「『もしかしたら食べられるようになったかも』って期待を込めたんだけど、やっぱりダメだった?」


「なんか舌出してテヘペロって顔してるけど、ダメだよ。可愛くごまかしてもね、それは優しさじゃない。わかる? それ、優しさじゃないからね」


「何で二回言うんだろ」


「古賀くんにとって大事なことなんだよ、多分」


 ヒソヒソと話す美珠姉妹。隠す気がないのか、会話は丸聞こえだった。


「じゃあこうしよ! 私が『あーん』ってしてあげるから、衣彦は我慢して食べる。苦手も克服できるし、こんなに可愛い子から『あーん』もしてもらえるから一石二鳥だよね。それならいいでしょ?」


「何で自分が可愛いと思われてることが前提なんだよ。自己肯定感のモンスターか」 


「じゃあ真由に食べさせてもらう方がいい? 最近仲良いし」


『えっ』 

 

 俺たちは同時に声を上げ、目と目を合わせた。

 確かに、小早川とは最近仲が良い。

 自己主張は少ないがひたむきな努力家で、いつも俺のくだらない冗談を楽しそうに聞いてくれる小早川は、今や幼馴染みであるみずほ姉ちゃん以外では一番仲の良い異性といっても過言ではないんじゃないだろうか。

 今でこそ恰好は地味だが、それも世を忍ぶ仮の姿。ひとたび瓶底眼鏡を外して身なりを整えれば双子の妹である『彼女にしたいアイドル』ランキング常連の小早川実由(みゆ)にだってひけを取らない可愛さだ。


「いや、別に誰に食べさせてもらうとかじゃないし……」


「……何顔赤くしてんの?」


「べ、別に赤くなんかないって! みずほ姉ちゃんだって俺に何度もしたことあるだろ⁉ 今さらどうってこと……!」


「衣彦くん、みずほちゃんにそんなに食べさせてもらってたの?」


「待った。違うんだ小早川。今の言い方だと語弊があるんだけど、違うんだ。累計というかなんというか、言うほどしょっちゅうって頻度でもないんだけど……ちょっとだけだぞ? そんな、顔真っ赤にするほどのもんじゃないっていうかなんていうか」


「私には頸動脈(けいどうみゃく)極(き)まってる人みたいに顔赤く見えるけど、お姉ちゃんはどう見える?」


「真っ赤だね。コチニール色素も真っ青なくらい赤いね」


「やっぱり有罪だ!」


「待った! 裁判長、そこの姉妹は共謀して俺をハメようとしてる。なぁ小早川、別に俺、普通だよな?」


「あっ、え、えっと、うん……そうだねっ」


 漫画みたいな汗がぴよぴよ飛んできそうなほど動揺している小早川。目が泳ぎまくっている。


「……っし。これで被告人の無実も証明されたし、これにて閉廷ってことで、ごちそうさま」


「どこが⁉」


 俺は潤花のわめき声を無視して立ち上がった。

 これ以上、朝の貴重な時間をこいつらに割いてられない。

 ウザ絡みの元凶であるセロリの食器を下げて、登校の準備をしなければ。


「セロリ、美味しいのに」


「異世界に転生して食うものに困ったときはちゃんと食べるよ」


 同時に立ち上がったみずほ姉ちゃんは俺が残したセロリの食器に手を伸ばしてきたので、そのまま自然な流れでみずほ姉ちゃんに手渡そうとする。が──

 

「みーちゃん! 衣彦のこと甘やかしちゃダメだよ! つかまえて!」


 じゃじゃ馬娘が俺からセロリの器を引ったくり、余計なことを叫びやがった。


「えっ、えっ、こう?」


「威嚇するアリクイのポーズ?」


「だ、だって、どうしたらいいかわかんないだもん!」


 大の字に手を広げ、う~っ、と困ったように眉を下げるみずほ姉ちゃん。子供が通せんぼをしているようでどことなく懐かしさを感じた。


「被疑者確保ー!」


「うぉわ!」


 目の前のみずほ姉ちゃんに気を取られていると、優希先輩が背後から勢いよく俺に突進し、右腕に抱きついてきた。

 俺は驚愕する。

 不意をつかれた驚きよりも、一見して慎ましい先輩の胸部にも、ぎゅむっとした確かなおっぱいの感触があることに。


「みーちゃん! そっちの腕押さえて!」


「う、うん!」


 続きざまにぽよん、とした感触が左腕に当たる。

 あれ⁉ みずほ姉ちゃんも、意外とおっぱいある⁉

 知らない間に驚くべき成長を遂げていた幼馴染みに左腕を押さえられた俺は、思わぬサプライズに心臓がドキッと跳ねた。


「は、離せ……!」


 囚われの姫騎士のような弱々しい声で抵抗の意思を示すが、左右の腕はいっそう強く締め付けられ、それが余計に俺の劣情を刺激させる結果となってしまった。

 生命の起源とも言えるこの二房の誘惑に抗えないのは思春期男子の悲しい性(さが)だ。

 下着と思われるやや硬質的な感触と、そのあとに続く枕のように優しい弾力の本丸。

 両腕に可愛い女子二人からぴったりくっつかれている密着感。

 その二つの同位体に挟まれた俺の脳内ではDT(童貞)核融合反応が引き起こされ、その爆心地で悪魔に取り憑かれたおっぱい博士が耳元でこう囁いていた。

 ──時よ止まれ。そなたは柔らかい。


「みーちゃんよく聞いて! 今の古賀くんは怒りで我を忘れてる! 正気を取り戻すためには、セロリに含まれるアピインを摂取してイライラの症状を抑えないと!」


「よくわかんないけど、わかったよ!」


「離せー! 俺のストレスはセロリなんかで抑えられるほどヤワじゃねー!」


 おっぱいには抑えられるけどな。

 両腕の感触に集中し過ぎて思ったことをそのまま口走ってしまいそうになる衝動をぐっと堪える。 


「衣彦、大丈夫だから! 苦いのは最初だけ! ね⁉ ちょっとだけだから!」


「うぇへへへ、兄ちゃん、天井の染み数えてる間に終わらせてやんよぉ~」


「や、やめろー! 女の子みたいな声が出ちゃうー!」


「真由! みーちゃんとお姉ちゃんが衣彦を押さえてるうちに、一緒に食べさせるよ!」


「え、えっと……うん……!」


「小早川! バカな真似はよせ! こんな理不尽なパワハラにも『ノー』と言える主体性を持って生きるって、あの日約束しただろ!」


 ちなみにそんな約束など一度もしたことはないが、俺も魔の手から逃げるためには手段を選んでいる余裕などなかった。こんな魔女裁判、あっていいはずがない。こんなの人権の侵害だ。


「真由!」


「小早川!」


「えっと、衣彦くん……」

 

 次の一言で俺たちの絆が試される。

 ここにきて初めて両腕の感触以外に神経を研ぎ澄ませ、小早川の返答を固唾を飲みながら待つ。

 そして、小早川はおずおずと人差し指を立ててこう言った。


「……一口だけがんばろ?」


「う……ん……?」


「はいー! 今衣彦が『うん』って言ったー!」


「あ、待って、違う。今のは──」


「古賀くん! 往生際が悪いよ! 観念してお縄について!」


「衣彦、がんばって! 応援してるから!」


「ほら衣彦! 早く口開けて! あーん!」


「あ……あーん」


「あ、あ、ちょっと、まっ……あっ……」


 徐々に俺の口元へと近付いてくる二つのセロリ。

 瑞々しくも青臭い、独特の香り。

 頭の中では無意識に某有名サメ映画のBGMが鳴り響いていた。


「んーーー! んーーーーー‼」


 それは一種の拷問だった。

 口いっぱいに詰め込まれるクセのある風味。

 夢心地のような感触に挟まれながら、大嫌いなものを咀嚼しなければならない究極のアメとムチ。

 濁点にまみれた、声にならない悲鳴が食卓に響く。

 ──伊藤下宿の朝は、今日もにぎやかだった。


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