第2話 up! up! my Friend ⑯
次の日、朝のホームルームから放課後までの号令はすべて俺が行った。
クラスメートの一部には怪訝な顔をされる場面もあったが、2、3限目になるとまるで何事もなかったかのように受け入れられ、担任からも特にこれといった指摘を受けることはなかった。
号令が変わったところで誰にも気付かれない。学校内での俺たちへの関心はその程度だった。
だがそれで良い。
陽当たりの良い場所だけが心地良いとは限らない。
日陰者にだって居場所はあるのだ。
「小早川、今日の俺の号令見ててどう思った?」
「えっと……ちゃんと、みんなに聞こえてたと思う」
下校中、俺と小早川は河川敷を歩いていた。
これから、もう一度特訓をするためだった。
入学式の日に満開咲いていた桜は少しずつ散り始め、足元に落ちた花びらがアスファルトを彩っている。
小早川はそんな足元を見つめたまま浮かない表情をしていた。
「そうだな。それで、その中で小早川じゃなくて俺が号令したことに対して、誰か何か言ったか?」
「ううん」
「だろ? ってことはさ、小早川が思ってるほど、みんなは俺や小早川のことを見てないんだよ。号令なんて、俺たち以外でも誰がやったって誰も興味がないし、気付かれない。チャイムと同じ日常の時報みたいなもんだ。まずはそれを覚えておこう」
「……うん」
「それと、小早川は『見られてる』って意識したら緊張するだろ? だったら、『見る』ことに意識を集中させてみるといい。何を見るっていうと、例えばそうだな……小早川にとって身近な人。みずほ姉ちゃんだ。誰に見られてるかなんて意識しないで、みずほ姉ちゃんの背中だけ見て、他の視線なんて無視すればいい」
「無視……できるかな」
「『無視しよう』って思ったらとそれに意識が引っ張られるから、慣れるまでは視線をみずほ姉ちゃんに向けた方がいいな。知ってるか? みずほ姉ちゃん女子力高くてさ、結構可愛い髪留めとかペンとか使ってるんだよ」
「そうなの? 気付かなかった……どんなのだろ」
「号令のときに確認してみるといい。でも、そればっかり見てて号令忘れるなよ?」
おどけて肩をすくめると、小早川はくすっと微笑んだ。これから小早川にとってきつい負担を強いることになるので、この調子で気持ちを軽くさせなければならない。
「でもってさ、号令かけるときも、2階にいるウルを呼ぶときみたいに、3組にいるウルに聞こえるような音量で言えばいいんだよ。そうすればクラスのみんなにだって余裕で伝わる」
「……教室でできるかな、そうやって」
「できると思うぞ。こないだ、商店街で詐欺の女に向かって啖呵切ったときなんて、小早川ビシッと言ってたし」
「あ、あの時は必死だったから……」
「昨夜、ウルを呼んだときは必死だったか?」
「あ……ううん」
思っていた通り、自分が普通に声を出せていることに気付いていなかったようだ。小早川は、小早川も人並みに声を出せる。だが、トラウマになった出来事を思い出してしまうせいで、自分は出来ないと思い込んでいるだけなのだ。
「あとこれは、一番大事なことなんだけど」
「……うん」
「失敗してもいい」
「……!」
「失敗しても、俺がなんとかしてやる。だから安心していい」
一つずつ、硬く結ばれた紐をほどくように、俺は言葉を続けていく。
「だから、諦めるな」
「うん……うん……!」
ポケットの中からピコン、と通知が鳴った。
見なくても誰からの連絡かわかる。
俺はその送り主──みずほ姉ちゃんのいる方を指さして、小早川に言う。
「3人とも、もう来たみたいだ」
「え……え? みんな、どうして?」
「小早川の特訓に付き合ってもらいたくて、内緒で呼んだんだ」
小早川は、河川敷の対岸にいるみずほ姉ちゃんと美珠姉妹と俺の顔を交互に見ながら動揺しだした。
「えぇ……」
「本番はもっと大勢のやつら相手に号令かけなきゃいけないんだ。こっちの方が気持ちは楽だろ」
「そうかもしれないけど……」
「真由ちゃーーーーん! 応援に来たよーーー!」
「やっほーーー!」
「衣彦ーーーーー! 聞こえるーーーー⁉」
「聞こえなーーーーい!」
「ウソつきーーーーー!」
女三人寄れば姦(かしま)しいというかなんというか。三人とも教育番組の歌のお姉さんと遜色ないレベルでテンションが高い。しかし普段はうるさく感じるほどのそのにぎやかさは、今まさに小早川の号令の後押しになると考えれば頼もしかった。
「みんなー! 今から! 小早川が号令かけるから! 聞こえたら合図してくれー‼」
「オッケー!」
「よっしゃー! バッチコーイ!」
「真由―! がんばってー!」
手で大きく丸を描く3人。対して、小早川の表情はまだ少し緊張で強張っていた。
「心の準備、できそうか?」
「緊張、してる。けど──がんばる」
小早川は目を閉じて、深呼吸をした。
静かになったその一瞬で、風が吹く。少し肌寒い4月の春風は、小早川の長い前髪をなびかせた。
小早川はゆっくり息を吸った。
「き──きりーつっ。れいっ」
対岸の3人の判定は、全員が手を交差して×を示している。
「きりーつ! れいっ!」
引き続き、美珠姉妹は手を交差させ、みずほ姉ちゃんは中途半端に丸を作ったかと思いきや、肘を曲げている。おそらく三角のつもりだろう。
「き、きりぃつ!」
4、5回目からだろうか。
小早川の声が震え出した。
最初は笑顔だった3人の表情に、少しずつ不安の色が見えてきた。当然の反応だ。明らかに小早川の声は小さくなっており、次第に息が上がってきた。疲れたからじゃない。うまく声が届かないことに対して心が折れそうになっているのだ。
「れぃっ!」
依然として3人の判定は覆らないまま、小早川の震える声だけがむなしく虚空に溶けていく。
そんな小早川の姿を見ていられなかったのか、みずほ姉ちゃんが先輩と潤花に向かって何か訴えるように視線を向けるが、先輩が毅然とした態度で首を振っているのが見えた。危なかった。それを見ていなかったら、俺が先に小早川を止めているところだった。
「……ちょっと、休憩するか」
小早川に声をかけた。
もう何回目かは数えていない。一度仕切り直して、悪循環に陥っている気持ちを立て直す必要がある。
『たったこれだけのことなのに』
俺が止めたことで、小早川はそう自分を責めているかもしれない。
何か、言わなければ。
俺は予想し得る最悪のリアクションを想定して、小早川の返事を待った。
すると、
「真由ー!」
「がんばってーー!」
「もう少し! あと少しだよーっ!」
対岸の向こうで、3人が叫んでいた。
「……衣彦くん」
小早川はゆっくりと眼鏡を外し、俺と目を合わせた。
「『起立、礼』……じゃなくても、いいかな」
目と目が合う。
ぞっとするほど美しい横顔だった。
その表情に絶望も恐怖もない。
迷いのない眼差しだった。
「あぁ」
俺はすぐに答えた。
「小早川の思う通りに、伝えればいい」
「ありがとう」
小早川は眼鏡を胸に抱き、再び前を向いた。
きっともう、心配する必要はない。
小早川の横顔は、憑き物が落ちたように晴れやかで、まるで別人のように感じた。
もう一度、小早川が大きく胸を反らす。
「み……みんな……!」
綺麗事だけで、人は簡単には変われない。
できないやつは、同じ間違いを何度も繰り返す。
「ごっ……め……ごめ……ごめんなさい……!」
こんなことをしたって何にもならないかもしれない。
「わ、わた──私……! 自分のことを、好きになれないの……!」
明日も同じ失敗をして笑われるかもしれない。
「何もできなくて……っ! 失敗ばっかりで……号令だって、ちゃんとできない……でも!」
だが──
「そんな自分が、嫌だから……変わりたかったの!」
そんなことは、小早川が諦める理由にはならなかったのだ。
「私、がんばりたい! みんなのことと同じくらい、自分のことを好きになれるように、がんばりたい!」
がんばれ小早川。
「潤花ちゃんみたいに、強くなりたい‼」
弱い自分に負けるな。
「みずほちゃんみたいに、優しくなりたい‼」
お前の信じる道を行け。
「優希ちゃんみたいに、たくさん笑いたい‼」
雑音だらけのこの場所で、
「だから! これからも、下宿のみんなと一緒にいれるように……がんばるから!」
いつか生まれ変わるために。
「これからも、私のことを見てて! 私と……私と、一緒にいて欲しい‼」
がんばれ、小早川。
がんばれ。
「お願い……っぐ……お願い、しま……す……!」
変わりたいという一心の、心からの叫びだった。
具体性や計画なんて何もない。
言っていることも、ただの願望ばかり。
だが、それでいい。
そんなものがなくたって、小早川は変わっていける。
その強い気持ちは、周りの人間さえ変えることができる確信があった。
その証拠に、
『一緒だよーーーーーーーーっ‼』
対岸の向こうで、丸が3つ並んでいた。
「真由ー! これからは、守るから! 真由が怖い目に遭ったら、私が真由のこと、絶対に守るから! だから、泣かないで!!」
力強く潤花が叫ぶ。
「怖かったよね⁉ 辛かったよね⁉ もう大丈夫だから! たくさん泣いた分、たくさん笑えるように、私もがんばるから! 一緒にがんばろう‼」
みずほ姉ちゃんは泣きじゃくっている。
「もう一人で泣いちゃダメだよー! 今度からは、私たちがいるから、これから先は、みんなで笑おーっ‼」
小さな身体を精一杯伸ばして、優希先輩は手を振っていた。
「あ、あ……ありが……うっ……!」
小早川はこくこくと何度も頷きながら、なおも叫ぼうとしていた。
俺はそんな小早川の肩を叩く。
「もういい」
「まだ……! 私、まだ……っ! うっ……うぅ……ぐす……」
「もう充分、伝わったよ。見てみろよ」
みずほ姉ちゃん、潤花、優希先輩は橋の方に向かって走り出していた。こちら側に来る気だ。
堤防に繋がる陸橋を見ると、直の姿があった。
直は俺と目が合うとにっと笑って手を上げたので、俺も苦笑いして手を上げ返してきた。今回の件は直に協力を仰いでいないが、大方みずほ姉ちゃんあたりから話を聞いたのだろう。
わざわざ様子を見に来たのか。
俺は、直が空手の先輩達に食ってかかったことを思い出した。
「なぁ小早川」
ふわりと風が吹いて、桜の花びらが目の前を横切った。
「小早川が『小早川実由』だったら、今頃そんなに苦しい思いはしてなかったかもしれない」
立ち止まって見なかったら気付かなかった。
通学路の桜並木が、こんなに綺麗だったことを。
「だけどさ、もし小早川が他の誰かだったら、きっとあいつらは、あそこに立ってくれなかったと思うんだ」
「っ……うん」
涙をぬぐいながら、小早川は返事の代わりに首を縦に振る。
「だからもう心配すんな。失敗したって、何度でもこうやって付き合ってやるから。俺は……」
言いかけて目に映ったのは、知り合って間もない同居人のために、恥も外聞も捨ててこちらに走ってくる3人のお人好し達の姿。
「俺たちは、小早川の友達だから」
無意識に、思ってもいない言葉が出た。
まだ決して気を許したわけじゃないし、不毛な執着だとわかってはいても、今だって女子に対する抵抗感は変わってはいない。
この言葉はきっと、一時の気の迷いだ。
俺はこれからも、身内以外の女子に対して心を開くつもりはない。
「あの3人が言ってたことがその何よりの証明だって、俺はそう思ってるよ」
そのつもりだったのに。
「衣彦くん──ありがとう」
雨上がりの空のような小早川の笑顔を見ていたら、凝り固まった自分の意地が、少しだけ解けていくような気がした。
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