第2話 up! up! my Friend ②

重い瞼(まぶた)を開くと、カーテンの隙間から漏れる柔らかい陽が視界に入り、起き抜けに穏やかな春の訪れを感じた。

 枕元のスマホを手に取り、目をこする。予定の起床時間より少し早い。このまま二度寝を決め込もうかと一瞬迷ったが、これから人生年表に載る大事なイベントが控えていたことを思い出してその選択を捨てた。

この伊藤下宿に住むようになってからはや数日目。

いよいよ今日は、高校の入学式だ。

 

「よし……」


起き上がり、ぐっと身体を伸ばす。先日転んで負ったあちこちのすり傷がまだヒリヒリ痛むが、体調は悪くない。

ふとベッドの脇に、大量の本が積まれていることに気付く。

そうだ、昨夜、教科書をしまうスペースを作るために本棚の整理をしたまま寝てしまったんだ。 

まだおぼろげな意識のままその中の一冊を何気なく手に取ると、そこからはらりと一枚のしおりが落ちた。


「……っと」 


拾ってみると、そのしおりにはボールペンで文字が書かれている。

なんだ? しおりに何かを書いた覚えなんかないぞ。

訝(いぶか)しく思いその文字を読んでみると、


『本ばっかり読んでたら可愛い彼女が寂しがるぞー♡』

 

 元カノの落書きだった。


「あのクソ女……!」


 俺はしおりをビリビリ破いて叩きつけるように紙片をゴミ箱に捨てた。

怒りによって眠気が吹っ飛んだ。

よく見ると、俺が手に取ったのは高校受験の合間に読んでいた小説だった。塾でいつも隣の席だったあいつに、いつのまにか落書きをされていたらしい。

 

「裏でコソコソ男に会いに行ってたくせに、何が可愛い彼女だ……」


うららかな空気とは対照的に、予期せぬ地雷を踏んで朝から血圧が急上昇した。まったくイライラする……高校デビューしたら女にうつつを抜かさないであいつを見返すための自分磨きに励むことにしよう。


「そうだ、それどころじゃない」


 はっとして、この新生活で出会った新顔の友人のことを思い出す。

部屋のカラーボックスの上に置かれた2つのプラスチックケース。

一方のケースには、床材と紙製の卵トレーが詰め込まれたエサ用のミルワーム。

そしてもう一方には、一目では姿が見えないが、その中には世界三大奇虫の一匹、ヒヨケムシのキタローがいる。


「よう、朝ごはんの時間だぞ」


 この虫達を譲ってくれた下宿の先輩兼奇虫マニアの優希先輩の話によると、キタローの種類はイエロージャイアントヒヨケムシという種類で、比較的ポピュラーなヒヨケムシらしい。

 ヒヨケムシは、未だに飼育体系が確立していないほど育てるのが難しいらしく、1年も持たず死んでしまうことも珍しくないそうだ。

 それでも最長2年半の飼育に成功したという先輩の指導のもと、俺はほとんど成り行きと意地でヒヨケムシの育成に挑戦した次第だったが……出だしから心が折れそうになったことがある。

 給餌(きゅうじ)だ。


「やるか……」


 俺は棚の上のプラスチックケースからエサ用のミルワームを1匹ピンセットでつまみ、隣にあるヒヨケムシの入ったケースを開けた。木のような土のような、独特の臭いが漂う。

 ヒヨケムシは動くものにしか反応しない習性があるので、生餌を直接与えないとちゃんと食べてくれない。つまり、生きた虫を直接食べさせないとならないのだ。

食物連鎖の摂理とはいえ、愛玩動物を生かすためにこの手で生き物を殺すのも、その光景を目の当たりにするのもなかなかしんどいものがある。泣き言を言いまくってエサを推奨されているゴキブリではなくミルワームにしたものの、今もウネウネと動くミルワームをつまむピンセットが緊張と抵抗感で震えている。


「……恨まないでくれよ」 


 勢いで決意したとはいえ、俺もキタローを養っていく覚悟を決めたからには、これ以上の妥協は許されない。

 俺は心の中でミルワームの冥福を祈りながら深呼吸をする。そして、体をよじらせてピンセットから逃れようするミルワームをヒヨケムシのケースの真ん中に突っ込んでから数秒──弾丸のような勢いでヒヨケムシが砂の中から飛び出した。


「おぉ……」


 ヒヨケムシは一瞬でミルワームに掴みかかり、前顎のハサミで器用にその身体を刻み出した。

 眠気など一発で吹き飛ぶような、強烈な光景だ。

すげぇ。むしゃむしゃ食べる。超食べる。


「なんつーか……生きてんだな、必死に」

 

 グロテスクな絵面とは裏腹に、その旺盛な食欲は見る者の興味を惹きつけてやまない謎の魅力があった。

俺は何かに取り憑かれるようにスマホを構え、ミルワームを貪(むさぼ)るヒヨケムシの様子を録画する。目の前で行われる弱肉強食の現実。俺たち人間にとっての食事は日常の1コマに過ぎなくても、やはりこういう小さな生き物たちにとっては生きる手段そのものなのだろう。

そして俺はこの生き物を養っていく限り、その命の責任を負い続けることになる。

……メンタルが鍛えられるな。

そんな感傷的な物思いに耽(ふけ)る俺のことなどつゆ知らず、プラスチックケースの中のヒヨケムシは、ただ本能に従うまま、食事に夢中だった。

ややしばらくして、ベッドの上に放置していたスマホがピコンとなった。見ると、今日から同じ高校に通う幼馴染みの木下(きのした)直(すなお)からのメッセージだった。


『はよ。清祥(せいしょう)って髪染めんのダメなんだっけ?』


『おは。ダメか良いかでいったらぶっちぎりでダメだし、今日確認することじゃないと思う』


『やっぱな。了解。みずほはもう大丈夫そうか?』


『もう完全復帰してる。元気だよ』


『おけ。おかんがみんなの顔見たがってるから時間あったら龍(りゅう)も呼んで写真撮ろうぜ』


『うい。みずほ姉ちゃんにも言っておく』


 淡々とメッセージのラインを済ましてから、ふと思い立ってヒヨケムシが捕食しているシーンの動画を送ってみる。


『何これ? キモ』


 キモいとはなんだ失礼な。俺はふてくされながらスマホをベッドに放り投げる。まぁ頼まれてもいない奇虫の捕食動画を勝手に送り付ける俺も大概なんだが。

 スマホの画面に映る時刻は6時30分。まだ時間はある。とりあえずトイレにでも行くか。


「きゃっ」


「おわっ」


 ドアを開けると、制服にエプロン姿のみずほ姉ちゃんがいた。しかも、何故か手にはスマホが握られている。


「お……おはよう」


「う、うん……おはよ」


「…………」


「…………」


 何故か、しばらく見つめ合う。

 ウェーブがかった栗色の髪にぱっちりとした二重瞼。本人はコンプレックスに感じている濃いめの眉も薄いそばかすも、俺にとっては親しみのあるチャームポイントだ。

 そんなみずほ姉ちゃんと目が合うこと数秒。


「え、何か用事あったんじゃないの?」


「違うの!」


「何が⁉」


「私はただ衣彦がちゃんと起きてられるか心配だっただけ! やましいことなんて何もないから! このスマホは、アラーム! そう! アラームを鳴らして起こしてあげようとか、起きなかったら寝顔取っちゃうぞとかそういう目的だったりするわけで……って何言ってんだろ私! これじゃ変態──」


「待って、落ち着いて。まず心配してくれてありがとう。でも俺、もう起きてるから大丈夫。ほら、この通り」


「そ、そうだね! 起きてる! よかったぁ! あははは……はは……」


「そうだ、今ちょうど直から連絡あってさ、後で龍兄(りゅうにい)も呼んでみんなで写真撮ろうだって」


「あ、いいねいいね! 久しぶりに集合写真。私もその写真欲しいから撮ろうね」


「ってかそのエプロン、誕生日プレゼントであげたやつだよね? まだ着てくれてるんだ」


「あ……これ、覚えてるの?」


「そりゃもちろん。良いじゃん。かわいい」


「か、かわ……!」


「みずほ姉ちゃん花好きだから、その柄のやつ結構探したんだよな……うん、やっぱ似合ってる」


「え……えへへへへ。ありがとう。今でもお気に入りだから、洗ったら絶対アイロンかけてるんだ」


「えっ、そんなに大事にしてくれてんの? あげた甲斐あって嬉しいわ」


「わ、私の方が嬉しいんだからね⁉」


「何で半ギレなの⁉」


「何でもない! 私、下でご飯の支度してくる!」


 軽快なステップで降りるみずほ姉ちゃん。降りた先でゴツッと音がして「いったぁー!」と悲鳴が聞こえた。いつものように壁に足の小指でもぶつけたのだろうか。

 

「大丈夫ー?」


「大丈夫、痛くない……! こんな痛みでさえ私、幸せ……!」


「……お大事に」


 打ち所が悪かったらしい。

 朝っぱらから情緒が不安定な幼馴染みの無事を祈りつつ、俺はそっとドアを閉じた。




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