第1話 伊藤下宿の住人達⑧ 完


「ごめんね真由。起こしちゃった?」


「ううん。トイレに行ったら声が聞こえたから……気になって」


 現れたのは小早川だった。寝間着姿で眼鏡を外しているため、昼間とは印象が違ってラフな感じがした。


「そっか。体調は大丈夫? 疲れてない?」


「うん……ちょっと、疲れたかも」


「真由、今日は頑張ったもんね」


「本当だよ。俺らがもっと上手くやってれば感謝状もらえたのにな」


「ち、違うの、その……」


 俺達の言葉に対して小早川の表情はやけに暗い。

 どうしたものかと続きを待つと、小早川は深々と頭を下げ、消え入りそうな声で言った。


「ごめんなさい……」


 思いがけない謝罪。鈴が弱々しく揺れているような声色だった。


「私のせいで、みんなに迷惑かけたから……みんなを巻き込んで、危ない目に遭わせちゃったから。一歩間違えたら、大変なことになってたかもしれないのに……」


 小早川は、拳を震わせながら振り絞るように言葉を紡いだ。ただでさえ小柄な体格が余計に小さく見える。

 俺とみずほ姉ちゃんは一瞬だけ目を合わせた。


「真由、こっちおいで」


「え……」


「そんなこともう気にすんなって。みんな無事だったんだから」


「はいこれ、まゆの分。多かったら残して良いからね」


「え、あの……うん」


 小早川はみずほ姉ちゃんに促されるがまま、遠慮がちに食卓の席に着いた。

 

「小早川、ちょっとそのままでいてくれるか?」


「……?」


 俺は身を乗り出して小早川の前髪を指ですくい、その素顔を見つめた。

 陶器のように白く滑らかな肌。人形のように整った顔立ち。黒々とした大きな瞳はわずかに潤んで輝いている。


「やっぱり似てるな」


「うん……改めて見たら本当こばゆそっくり」


「でもこうして見たら小早川の方がこばゆより表情柔らかいっていうか、親しみやすい雰囲気ない?」


「え、いや、そんなことは……!」


「……ここ、不純異性交遊禁止なんだけど」


「待って、俺女子とのキャッキャウフフは宗教上の理由で避けてるから。そうじゃなくて俺が言いたいのは、小早川にはこばゆにない魅力があるよねって話」


「まぁ、それは……確かに」


「そんなことは……ないと思うけど」


「今日のこと思い出してみろよ。小早川、明らかに自分より気の強い相手なのに犯人の女に立ち向かってただろ? あんなこと、男にだってできるやつは少ないぞ」


「そう……なのかな」


「うん、衣彦の言う通りだよ。真由がいなかったら、他の人にも被害が出てたかもしれないし。それを未然に防いだって意味でも、真由はすごいことをしたと思うな」


「そうそう。小早川は自分に自信がないかもしれないけどけど、少なくとも俺は今日『小早川真由』のファンになったよ」


「みずほちゃん、衣彦くん……」


 小早川は小さな声でありがとう、と言った。

 俺とみずほ姉ちゃんはそれを聞いて口元を緩める。

 小早川は自分の気持ちをちゃんと言葉にできるやつだ。その勇気さえあれば、きっとこれからいくらでも変わっていけるだろう。


「あー、やっぱり3人ともいるよお姉ちゃん」


「ちょうど良かった。みんな、プリン食べない? さっき買ってきたの」


 俺達の話し声が聞こえたのか、2階から美珠姉妹が降りてきた。

 潤花は片手にレジ袋を下げており、優希先輩は両手に虫かごと霧吹きを持っている。


「もうみんなとっくに歯磨いてるぞ」


「もう一回磨こ!」


「……って言ってるけど、どうします? 管理人代理」


「んー……この時間だし、ちょっと罪悪感が……」


「みーちゃん、明日良い減量方法教えてあげるから今日のカロリーはもう忘れよ?」


「そうだよ、今日という記念すべき出会いの日はもう二度と帰って来ないんだよ?」


「ん〜〜……じゃあ……許可!」


「さっすがみーちゃん! 日本一!」


「よっ! 女子の鑑!」


「褒め方雑過ぎない?」


「え、えへへ〜、二人とも褒め過ぎ〜」


「チョロ過ぎない!?」


 もちろんみんな俺のツッコミなんか聞いてない。あ、でも小早川はちょっと笑ってる。


「みんな好きなの選んでね。早いもの勝ちだよ」


「そういえばウル……手、大丈夫か?」


「余裕。蚊に刺されたようなもんだよ」


 絆創膏が貼られた手でレジ袋からプリンを取り出している潤花が、事もなげに肩をすくめる。

 話によると、潤花は留学していたニュージーランドで格闘技漬けの毎日を送っていたらしい。

 本人曰く『年齢詐称して出た大会を含めて試合では一度も負けたことはない』そうで、それを聞くと一撃で犯人を悶絶させる芸当をやってのけたことにも少し……ほんの少しだけ納得できた。


「潤花ちゃん、ケガしたの……?」


「ううん、こんなのケガのうちに入んないよ。ほら、痛いの痛いの〜、衣彦にとんでけ〜」


「くっ、右手が……! まさか、“能力(チカラ)”の暴走………!?」


「ってか、真由の方こそ大丈夫? 怖かったでしょ?」


「あの時は、何とかしなきゃって必死だったから……」


「そっか〜、良かった〜」


「おい! 乗っかれや! 『それは痛い子』とか言って突っ込めや!」


「ふっ、ふふっ……!」


 重い空気にさせまいとピエロを演じた俺の渾身のボケを笑ってくれたのはまたしても大天使·小早川だけだった。隣でしれっとした顔のボケ殺し女も小早川のリアクションを100万回見習って欲しい。


「でも真由も大変だよね。間違えられることもあるでしょ?」


「うん。昔はよく妹と間違えられてサインお願いされたり……大変だった」


「真由ちゃんの妹さん、大人気だもんねー。月曜日のおはよう動画でブレイクしたんだっけ? あれ再生数すごいんだよね」


「私それ好き! 毎回シチュエーション違うし、彼女感あって可愛いよね!」


「みーちゃんもああやって毎朝起こしてくれたら遅刻しなくて済むんだけどなぁ」


「無理無理! っていうか潤花、入学前から遅刻前提の話やめてよ!」


「その動画俺も見たけど、みんなちょっとウェカピポのセンターっていうブランドのフィルターかかってない? いや、確かに可愛いけど、そこまで騒ぐほどでもないっていうかさ……」


「じゃあ衣彦、こばゆじゃなくて、真由に同じように起こされても何とも思わないの?」


 想像してみる。

 晴れた日の朝、遠慮がちに顔を覗き込んできた小早川と目が合い、俺以外の誰にもお目にかかることのできない小早川のはにかんだ微笑みを向けられた時の目覚めを。 


「…………別に、何も思わないことはないけど」


「ほら出たー! むっつり!」


「やっぱり不純異性交遊なんだ!?」


「古賀くん、早くも求愛行動〜?」


「なっ! バッ……ちげーし! 求愛行動言うな!」


「あ、そうだ求愛行動で思い出した。みーちゃん、台所借りていい? 洗いものしたいんだ」


「え、いいけど……何洗うの?」


「虫かご!」


「あ、あー、えっと、うん、気を付けて……?」

 

「そういえば先輩、プリンいくらでした?」


「いいよいいよ! 命の恩人からお金もらうなんて! みんなにも心配かけちゃったから、私の奢りにさせて!」


「もう、優希がそんな気遣わなくて良いのに〜」


「それじゃあお言葉に甘えます。ごちそうさまです」


「優希ちゃん、ありがとう……」


「うんうん、真由ちゃんもたくさん食べてゴライアスバードイーターみたいに大きくなるんだよ」


「ゴライアス……?」


「しっ。真由、聞き返しちゃダメ」


 小声で小早川をたしなめるみずほ姉ちゃんを背に台所へ向かった俺は、人数分のスプーンを戸棚から出したついでに先輩の洗いものを覗き込んだ。


「手伝いますか? 早くしないと全部食べられちゃいますよ」


「ううん、すぐ終わるから大丈夫。ありがとう」


「ちなみにそれは何なんですか?」


「虫用の給水器。これの手入れを怠ると寿命に影響するからね。古賀くんも、水皿とかはマメに掃除した方が良いよ」


「へぇ……そうなんですね。俺、そういうの全然わからないんで、ちょっとずつ教えてください」


「もちろん。他にわからないことがあったら、わかるまで何回でも何百回でも聞いて。同じ質問でもいいから。細かく確認して覚えていこ」


 理想の上司か……? 俺が元ブラック企業の契約社員だったら涙を堪えていたかもしれない。


「ねぇ古賀くん。宿題のこと、覚えてる?」


 宿題。それは、俺がヒヨケムシを譲り受けることと引き換えに課された、先輩からの条件だった。


『古賀くんはこれから、きっと一年も生きられない生き物を飼うの。その上で、古賀くんが“放っておけない”っていう気持ちであの子にどう寄り添っていくのか。それを私は知りたい』


 その宿題に、正解はない。

 きっと、採点をすることもできない。


『だから……もしその子が亡くなったら、その時に教えて欲しいの。古賀くんが、どう感じたか。その子の一生に、何を思ったのか』


「……はい」


「楽しみにしてるから」


 微笑んではいるものの、目は真剣そのものだった。

 それなりに考えてヒヨケムシを引き取る決意をしたが、ガチな愛好家からこういった圧をかけられると、万が一の失敗してしまった時の反応が怖い。


「先輩。俺、本当は……」


ハードルを下げるなら今のうちだ。

いっそ打ち明けてしまった方が良い。

先輩の期待に応えられるだけの熱意はないと、予防線を張るなら今しかない。


「昔クワガタ飼ってたって言ってたんですけど……すぐ死なせたんです。世話なんて、適当にエサをあげてたくらいで、虫かごの掃除とか……した記憶もなくて。今思えば、何が原因で死んだのかも、全然わからないままで」


 だが、口から出た言葉はまたしても意思に反していたものだった。 


「それで今日、こんなに虫を大切にしてる人がいるなんて知って、後悔したんです。俺はあの時何をやってたんだろうなって。自分で飼うって決めたことなのに、先輩の言う通り、命を育てる責任なんて何も考えてなかった」


「古賀くん……」


「だから今度こそ、先輩みたいにちゃんと向き合おうと思うんです。クワガタとはだいぶ違いますけど……長生きさせてみせますよ。先輩の言う通り、このままじゃもったいないんで」


「……それじゃあ、期待してるね。古賀くんの成長にも」


「任せて下さい。一皮剥けてみせます」


「あ、脱皮に失敗したらほとんどの場合死んじゃうから気を付けてね」


「それ、俺の話ですか? 虫の話ですか?」


「お姉ちゃん、黒いプリンって何味ー? 」


 思わぬ角度からの忠告に真顔で混乱していると、後ろで潤花が呼びかけてきた。


「えー? そんなの買ってないよー?」


「えぇ? みーちゃん、それどこから持ってきたの?」


「ちょっ、これ……え、え、ウソでしょ!?」


「み、みずほちゃん、それ……!」


 きょとんとした顔のみずほ姉ちゃんの手に持っているもの。それをよく見ると、


「あー! みーちゃんそれ、エサ! エサだよ! タランチュラの!!」


 透明なプリンカップに入ったゴキブリだった。


「嫌ぁっ!!」


「バカ! 投げ──」


 言うが早いが、みずほ姉ちゃんに放り投げられたプリンカップは勢い良く天井に当たり──中身の黒い塊達を、盛大にバラまいた。


『キャーーーーーーー!!!!』


「あーーーーーーーー!!!!」


「離せぇぇぇぇぇぇえええ!!!!」


 耳をつんざくような絶叫が伊藤下宿に響く。

 活きのいいゴキブリ達が床で這い回る地獄絵図。

 俺の両腕を掴み、ゴキブリの生贄に捧げようとする悪魔の女共。 

 少しでも気を許していた俺がバカだった。

 この伊藤下宿の住人達と関わっている限り、俺に心の平穏など永遠に訪れないだろう。

 改めて確信する。


 やっぱり──女なんて、クソだ。

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