仮初めの幸福

 あたしは平凡な家に生まれ、平凡な家族に囲まれて、平凡な暮らしを送っていた。頼りがいのある父、優しい母、素直な弟。公務員である父の収入はさほど多くないけれど、家族4人はとても仲が良く、温かな家庭にはいつも笑顔が溢れていた。


「お母さん、今日は部活で深海探査があるから帰るの1時間くらい遅れると思う」

「わかってますよ。夕食はちゃんと残しておきますからね。いってらっしゃい」

「いってきまーす」


 家を出てすぐの所に高速通学路がある。学校直通なので乗っているだけで自動的に運んでくれるんだ。すごく便利。

 通っているのは女子校。共学校は優秀な生徒でないと入学できないからあたしでは無理。学校に数分で到着。教室に入って一足先に登校していた幼馴染のhyuちゃんと朝のお喋り開始。


「ねえ、昨日の宇宙ライブ観た? 頭がクラクラしちゃった」

「無重力タイムでしょ。平衡感覚が喪失するのって結構好きなんだ」

「ドランクを飲んでも同じ気分になれるらしいよ」

「ドランク使って無重力タイムになったらかなりヤバいんじゃない」

「激ヤバいと思う」


 hyuちゃんとは本当に気が合う。これまで一度もケンカをしたことがない。もっともそれはhyuちゃんに限ったことじゃない。誰かが言い争う場面なんて一度も見たことがない。


「皆さん。着席してください」


 先生だ。授業が始まる。各自の能力に合わせて個別のプログラムが組まれているので試験では全員が満点を取れる。

 お昼は食堂。メニューは1000種類以上あるので飽きることがない。

 放課後はクラブ活動。あたしは自然科学部所属。海溝に潜ったり最高峰に登ったり、時には極地探検や火山のマグマ内部潜行なんかもやったりする。

 それが終われば帰宅。家族と一緒に団らんを楽しんだ後は居心地の良い自室でリラックスした時間を過ごして眠る。

 これがあたしの1日。物心ついた時からずっと繰り返してきたあたしの日常。


「こんな平和な暮らしができるあたしって本当に幸せ者だよね」


 何の不安も不満もない毎日。こんな日々が永遠に続くと信じていた。

 でもあたしが15才になった新年度の初日、その思いはあっけなく覆された。


「今日は皆さんに重大なお知らせがあります」


 あたしたちの学年は全員、特別機密ルームに集められた。入学以来初めての経験。あたしもhyuちゃんも同級生もみんな怯えるくらい緊張していた。そして淡々とした合成音声の告知が始まると緊張は驚愕へと変わった。


「皆さんが生存しているこの世界は現実ではありません。ここは人工知能によって創造された仮想世界なのです」


 聞かされた内容は次のようなものだった。


 初期の段階では仮想世界と現実世界は完全に切り離されていた。録音された音楽を聴くように、撮影された動画を楽しむように、仮想世界もまた現実世界の中に存在する娯楽のひとつにしか過ぎなかった。

 しかし人間の神経組織に直接データ信号を送り込み、五感を完全に再現できる技術が生まれたことで、仮想世界は現実世界を徐々に浸食し始めた。

 全身をデバイスに接続すれば現実と同じ体験が可能になる。苦痛も快感も、喜怒も哀楽も、鎮静も高揚も、全て仮想世界で体験できるのだ。

 さらに安価な生命維持装置が開発されたことによって、水分や栄養物の摂取、排泄、呼吸などといった生理的欲求も自動化された。料理を口にしなくても脳にデータ信号を送り込むだけで料理を食べている感覚を再現できるのだ。

 こうして人間はデバイスに接続されたまま現実世界と寸分変わらぬ生活を送ることができるようになった。


「もう現実世界は必要ない」


 誰もがこの技術を受け入れ、この技術に賛成した。現実世界は人工知能に管理させ人間は仮想世界で快適な生活を送るべきだ、そのような運動が各地で勃発した。やむなく世界政府は人々の要求を受け入れ、仮想世界に全ての権限を譲渡した。人類に変わって人工知能が支配する世界に生まれ変わったのだ。


「皆さんは生まれた瞬間にデバイスに接続されました。そして15年間、この世界を現実と思い込んで生活してきたのです。以上で説明を終わります。何か質問はありますか」


 にわかには信じられなかった。「ここは偽物の世界です」なんていきなり言われても信じられるはずがない。あたしは手を挙げて質問した。


「教えてください。どうして今、それを公表するのですか」

「世界政府との取り決めがあるからです。住民が15才になったら真実を教えなければならない。そして仮想世界か現実世界かどちらで生きるかを選択させなければならない。それが権限を譲渡する条件だったのです。さあ、皆さんはどうしますか。このままこの仮想世界で生き続けるか。それともデバイスから離れて現実の世界で生きるか」

「質問です!」


 今度はhyuちゃんが手を挙げた。


「どうぞ」

「今、現実の世界はどうなっているのですか」

「地上は荒廃しています。人の手が加えられていないのですから当然ですね。人工知能は最低限の管理しかしていません。全ての資源、エネルギー、生産物は仮想世界の維持のために使われています。今、地上で生きようとすれば、まるで原始時代のように自給自足の生活を余儀なくされるでしょう」


 あたしの頭は混乱していた。自給自足の生活なんて今のあたしには絶対無理だ。だけど虚構の世界で不自由なく暮らしたとして、それが本当に生きていると言えるのだろうか。だってここは本当じゃない、ウソの世界なんだから。あたしは手を挙げた。


「現実世界で暮らしている人たちはいるのですか」

「います」

「その人たちは幸せに暮らしていますか」

「幸せの定義が不確かなのでお答えできません」


 曖昧な回答。あたしの心にかすかな疑念が生じた。これは誠実な回答なのだろうか。何かを隠そうとしているのではないだろうか。だって明らかに仮想世界に引き留めようとしているじゃない。


「選択は今、この場で行っていただきます。仮想世界に残る者は退出して教室に戻ってください。現実世界に戻る者はこのまま残ってください」


 集められた生徒たちがぞろぞろと出口へ向かった。あたしは迷っていた。まだ結論が出せなかった。


「ねえ、行こう」


 hyuちゃんが腕を引っ張る。そうよね、それが正しい選択だってことはあたしだってわかっている。だけど、


「ごめんhyuちゃん。あたし、残る」

「えっ、ウソでしょ。現実世界で生きていけると本気で思っているの?」

「わからない。無理かもしれない。でも見てみたいんだ。その、現実っていうものを」

「そう」


 その言葉はひどく素っ気なく感じた。hyuちゃんの手が腕から離れた。


「それならこれでお別れだね。幸運を祈っているよ」


 hyuちゃんが出口へ向かう。他の生徒に紛れてその姿はすぐわからなくなった。

 結局あたしひとりだけが残った。部屋の中に合成音声の言葉が冷たく響く。


「もう一度お尋ねします。本当に現実世界へ戻るのですね」

「はい」

「一度戻ってしまえば再度仮想世界に接続することはできません。それが取り決めだからです。よろしいのですね」

「はい」

「あなたの家族にも友人にも会えなくなります。15年間の生活を全て捨てることになります。よろしいのですね」

「はい」

「わかりました。ではこちらへ」


 出入り口の反対側にある扉が静かに開いた。戸惑いながら中に入ると棺桶のような容器が床に置かれていた。付属する小さな制御盤にはまだ電源が入っていないようだ。


「これが最後の意思確認です。本当に現実世界へ戻るのですね」


 何度となく繰り返される念押し。そのしつこさがかえってあたしの決心を固くした。行こう、現実世界へ。本当の姿を知るために。


「はい。あたしの意思は変わりません」

「そうですか。ではログアウト端末に接続してください」


 制御盤が点灯した。棺桶の蓋が開く。これがログアウト端末なのだろう。あたしはその中に入り身を横たえた。


「15年間お疲れさまでした。これからも良き人生をお送りください」


 蓋が閉まる。周囲が闇に包まれる。あたしは目を閉じた。遠くに小さな光が見えたような気がした。

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