静かに広がるウワサ

 夕暮れ迫る空の下、あたしは欅の木に寄り添うように浮いていた。


「絶対そうだ。もう間違いない。ついにあたしが何者なのかはっきりするのね!」


 こんなに興奮するのはすっごく久しぶり。幽霊に成り立ての頃はそれなりにはしゃいでいたような気がするけど、近頃そんな機会はめったにない。半世紀以上もこの世をさまよってあれこれを見聞しているんだもん。多少のことでは心にさざ波すら立たなくなっても当たり前よね。


「でも今回は違う。心にビッグウェーブが到来中!」


 事の起こりはひと月ほど前にさかのぼる。あるウワサが校内に広がり始めたのだ。


「欅の木の下に幽霊が出るらしいよ」


 最初に耳にしたのは中学1年生の教室。あくびが出ちゃった。


「あーあ、またその話か。これで何回目かなあ」


 この学校の敷地内であの欅の木ほど幽霊に結び付けられてきたものはないでしょうね。

 もちろんそれには理由がある。慰霊の対象として扱われてきたから。

 高等女学校時代、欅の木の下で亡くなった女子生徒がいたんだけど、彼女を悼んで木の下に小さなほこらが作られた。それが始まり。

 数十年後、大きな地震が起きた。校舎は崩壊、たくさんの生徒が亡くなった。それを悼んで壊れた祠の代わりに慰霊碑が建てられた。

 そして今回の空襲。慰霊碑はさらに大きな慰霊碑となり遺品を納めた塚も築かれちゃった。今の欅の周囲は近寄りがたい雰囲気が漂いまくっている。

 しかも立っている場所は校庭の隅で塀の近く。周囲には低木の茂みもあるので日当たりが悪くジメジメしている。幽霊のウワサが出て当然の場所ってわけ。


「まだ入学したての1年生だし、あの欅だけ別世界みたいな薄気味悪さだし、首筋を生温い風に撫でられたくらいで幽霊の仕業と勘違いしているんでしょうね、きっと」


 正直なところ幽霊話にはうんざりしていた。これまで似たようなウワサが流れるたびに校内を飛び回って話を聞きまくったり、欅の木の下で何時間も待ってみたりしたけど全て空振り。

 幽霊が現れたことはもちろん、誰かが幽霊に出会って驚いている場面にすら一度も遭遇しなかった。骨折り損のくたびれもうけが半世紀近くも続くといいかげん嫌になる。そろそろ幽霊との御対面は諦めるべきなのかもね。


「人のウワサも七十五日。ひと月もたたないうちに忘れ去られてしまうに決まってる」


 だから今回も最初はその程度にしか思わなかった。でも違った。忘れ去られるどころかどんどん拡大していくのだ。中学1年生から2年生、3年生。そしてすっかり世の中の常識に染まった高校生の間でも幽霊のウワサが口に上るようになった。


「まさか、今度こそ本物なの?」


 これまでは幽霊の話題になるとその場を離れて別のお喋りの場所へ移動していたあたしも、そこかしこでこの話を耳にするようになるとさすがに無視できなくなった。今度こそ与太話なんかじゃなく本当に出るのかもしれない。


「これは本腰を入れて聞き込んでみる必要があるわね」


 その気になればウワサの内容などすぐにつかめる。校内で出回っている幽霊話はおおよそ次のようなものだった。



 高等女学校が設立されたばかりの頃、5年生の女子生徒に縁談がまとまりました。相手は陸軍士官学校の卒業生です。けれども運の悪いことに戦争が始まり婚約者は召集されて大陸へ行くことになったのです。2人は約束をしました。生きて帰って来られたらこの欅の木の下で会おうと。悲しいことに戦争が終わっても婚約者は帰って来ませんでした。戦死したのです。

 でも彼の魂は消えませんでした。もういちど婚約者に会いたい、その想いが彼をこの世に留まらせたのです。長い年月をかけて山を越え海を渡り、ようやく婚約者のいた学校にたどり着いた彼は、今もこの欅の木の下で愛しい彼女を待っているのです。

 毎週水曜日、日が沈んでもまだ明るさが残っている薄明の頃、欅の木の下で問い掛けてみてください。

「あなたは誰ですか?」

 と。もし彼がそこにいるのならこんな返事が聞こえてくるはずです。

そ彼と我をな問ひそ九月ながつきの露に濡れつつ君待つ我そ」

 そして麗しい青年将校が姿を現すでしょう。それが幽霊です。



「うわ~、来たよ、ついに来ちゃったよ、これ!」


 あたし柄にもなく狂喜乱舞しちゃった。だって、これあたしたちの物語じゃない。縁談がまとまった5年生の女子生徒って半世紀前のあたしだし、大陸に渡って戦死したのはあたしの婚約者でしょ。

 まあ正直なところそんな記憶は全然ないんだけど、それは忘れているだけで会えたら思い出すに決まってる。で、その婚約者さんが幽霊になって半世紀もかけて山を越え海を越え学校の塀を越えてついにあたしに会いに来てくれたってことでしょ。


「いや~ん、ロマンチックすぎる!」


 欅の木の下で再会する2人。もちろん彼にはあたしの姿が見えるしあたしにも彼の姿が見える。彼にはあたしの声が聞こえるしあたしにも彼の声が聞こえる。でも愛し合う2人に言葉は要らない。何も言わずに見つめ合い抱き合うだけで心は通じ合うのだから。そして彼の腕に抱かれたままあたしは昇天するの。文字通り天に昇るのよ。


「絶対そうだ。もう間違いない。ついにあたしが何者なのかはっきりするのね!」


 そんなわけで夕暮れ迫る空の下、あたしに会いに来た婚約者の幽霊にいつ問い掛けようかと思いながら欅の木の横に浮いているのだ。


「あー、この幽霊生活も今日で終わるのね」


 半世紀なんてあっという間だった。ほとんど寝ていたから当然か。いろいろなことがあったなあ。今思うと全てが懐かしく感じる。女子生徒のみんな、元気でね。あたしは婚約者と一緒に天に昇って、一足先に女の幸せをつかませてもらうわ。


 ――ガサッ、ガサッ。


 夢想に浸っていたら思い掛けないことが起きた。茂みをかきわけて女子生徒が欅に近付いてきたのだ。ちっ、とんだ邪魔者が現れたものね。


「あんたなんかお呼びじゃないの。早く消えてちょうだい」


 あたしは猛然と女子生徒に飛び掛かり服を引っ張った。無駄だとわかっていてもそうせずにはいられない。女子生徒は大きく深呼吸すると欅を見上げて言った。


「あなたは誰ですか?」

「ちょっと、それはあたしのセリフでしょ!」


 思いっ切り頭をぶん殴ってやった、空振りだけど。先を越されて頭に血が上っちゃったのよね。これほどの怒りを感じたのは幽霊になって初めてじゃないかな。


「こうしちゃいられない。あたしも言おうっと。あなたは誰……」


 でも最後まで言えなかった。半世紀の間待ち焦がれていた瞬間がついに訪れたからだ。


「誰そ彼と我をな問ひそ九月の露に濡れつつ君待つ我そ」

「で、出たあ。本当にいたのね!」


 万葉の歌を口にしながら現れたのは軍服に身を包んだ美青年だった。軍帽を目深にかぶっているので顔はよくわからないけど、均整の取れた体付き、少し高めで色気のある声、品のある立ち居振る舞い。想像した以上に魅力的なあたしの婚約者だ。


「ようやく会えたのね、嬉しい!」


 あたしは喜びに打ち震えながら彼に抱き着いた。


「ずっと待っていたの。来てくれてありが、えっ!」


 彼はあたしをひしと抱き締めてくれる、はずだったのにあたしの体はいつもと同じようにすり抜けてしまった。その代わりさっきの女子生徒が抱き締められている。


「どうして。これ、どういうこと。あたしの姿が見えていないの」


 彼の前で手を振る。服を引っ張る。女子生徒を引きはがそうとする。大声で喚く。ダメだ。全てがいつもと同じ。あたしの行動は完全に空振っている。


「ああ、間違いない。君こそボクが探し求めていた女性だ。会えて嬉しいよ」

「あたしも嬉しいです」


 女子生徒と婚約者は抱き合いながらこんなことを言っている。冗談じゃないわよ、この泥棒猫が。


「だまされないで。それは偽者。本物はあたし。ねえ、こっち向いて。あたしの声を聞いて」


 そもそもどうして幽霊と人が抱き合えるのよ。幽霊は実体がないんでしょ。おかしいじゃない。


「君に会える日をずっと待っていたんだ。今日やっと願いが叶った」

「あたしも一日千秋の思いで待っておりました」


 あたしを無視して抱き合う2人。うう、悲しくなってきた。どうして気付いてくれないの。あたしを一番思っていてくれるはずの婚約者ですら、あたしを認識できないなんてツラすぎるよ。幽霊レベルが低いから? こんなことなら眠ってばかりいないでレベル上げを頑張ればよかった。って言っても何をすればレベルが上がるのか全然わからなかったしなあ。


「さあ、もうこれくらいでいいかな」

「はい満足です」

「えっと、君は確か2回目だね。じゃあ料金は2倍で」

「はい。ありがとうございます。これを」


 女子生徒は財布から紙幣を取り出すと婚約者に手渡した。ちょっと待ってよ、何してるのこの2人。しかも100円って、高校生が簡単にあげられるような額じゃないでしょ。


「はい確かに。寂しくなったらいつでも来ていいよ」

「もうお小遣いがなくなっちゃったからしばらくは無理です」

「そう、残念だな。また会える日を楽しみにしているよ。さようなら」

「さようなら」


 女子生徒が帰っていく。あたしはようやく冷静さを取り戻した。どう考えてもおかしい。人が幽霊に紙幣を渡すなんてあり得ないでしょ。しかも喜んで渡しているし。幽霊も幽霊だ。お金なんかもらってどうすんのよ。お買い物でもする気。もしかしたら成仏するためにはお金が必要なのかな。地獄の沙汰も金次第って言うしね。


「あなたは誰ですか?」


 うわっ、考え事をしている間に別の女子生徒が欅の木の下に来ていた。


「誰そ彼と我をな問ひそ九月の露に濡れつつ君待つ我そ」


 そこから先はさっきとまったく同じ。抱き合い、語り合い、いちゃつき合う女子生徒とあたしの婚約者。あたしの心はすっかり冷めきっしまった。そんな茶番劇を5回ほど見せられた後でようやくあたしは悟った。あれは幽霊じゃない、人だと。


「やれやれ。今日はこれでお仕舞いかな」


 6回目のイチャイチャが終わったところで軍服姿の美青年が軍帽を取った。月明かりの下で素顔が露わになる。あれ、この顔、どこかで見たような気がする。


「お疲れさん」

「今日はかなり稼げたんじゃない、やったね!」


 茂みをかき分けて出てきたのは勇子さんとユッコだ。いくらあたしがおめでたいからって言っても、この2人の姿を見れば美青年の正体は嫌でもわかる。


「あたしの婚約者の振りなんかして何がしたいのよ、ユウ」

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