怪しい人影

 夕暮れの闇が濃くなってきた。

 下校時刻はとっくに過ぎて校庭にも校舎にも人影はない。寄宿舎から漏れる灯りだけが人の存在を感じさせてくれる。

 今、あたしは校庭の隅にある欅の木の根元にいる。この女学校の敷地の中で一番の高さを誇る欅の木。


「初めてつかんだあたしの手掛かり、絶対ものにしてやる」


 こんなに意気込んでいるのは幽霊になって初めてだろう。でもそれは仕方ない。情報を集める手段は見ることと聞くことだけ。見られるものはほとんど見ちゃったし、あたしの声は聞こえないから誰かに質問もできない。こんな状態に置かれたら誰だって怠惰な日々を送っちゃうに決まっているよね。


「でも、ようやく時が来たって感じがする。ちょっと気になる点はあるけど、あのウワサは間違いなくあたしに関するものだわ」


 事の起こりは2週間ほど前に起きた寄宿生の申告だった。夜半過ぎに校庭で不審な影を見たんだって。窓ガラス越しで、なおかつ曇天だったため月明かりもなく、人か草木か動物かさえもはっきりしないのだけど、欅の木の下で何かが動いているように見えたのだそうだ。


「ねえ、お聞きになりましたか。寄宿舎の1年生が見たとかいう怪しい影」


 この話はたちまち学校中に広まった。授業の合間も昼休みもこの話で持ち切りになった。


「正体がわからないなんて気味が悪いですね」

「きっと野良犬か何かでしょう。時々門扉の柵をすり抜けて入り込むことがありますから。気にするほどのことではありませんわ」

「そうですわね。慣れない寄宿生活で心が疲れてしまって、何でもないものが怪しく見えてしまったのでしょう。1年生には特に優しく接してあげなくてはいけませんわね」


 最初はその程度だった。だからあたしも全然気にしなかった。

 でもそれから1週間後、別の寄宿生から同じ申告があった。しかも今度はその人影は女性だったと断言したのだ。あっちこっちのお喋りを聞きまくって集めた情報によればこんな感じ。


「夜中に近い頃、用を足したくなって寄宿舎の外に出たのです。何気なく校庭に目をやると月明かりの下に欅の木が見えました。そしてその幹に寄り添うように人が立っていたのです。小振袖に女袴。長い髪が風に揺れていました。門限に遅れてしまった寄宿生かと思ったので『どうしたの』と声を掛けると、陽炎のように消えてしまったのです」


 こうなると話は前回とは違ってくる。一瞬で消えてしまう女子生徒、それは幽霊に違いない、誰もがそう思い始めた。そしてあたしもそう思った。


「寄宿生が見たのは幽霊。あたしは幽霊。つまり寄宿生はあたしを見たんだ!」


 かなり論理が飛躍しているような気はするけど考えられなくはない。

 確かに1週間前も今回も、姿が見られた時刻にあたしは欅の木の下にはいなかった。夜は寄宿舎のどこかで眠ることにしているから。

 だけど眠っている間に欅の木の下に移動しちゃったってことはないだろうか。あたしは手や足を使わなくても移動できる。動きたいと思うだけで動けるのだ。もし夢の中で走ったり歩いたり飛んだりしていたら、その意思があたしの体に反映されて無意識のうちに移動している可能性だってある。


「そうよ。そして眠ったまま欅の木の下へ移動してしまい、その結果、あたしの姿が寄宿生たちに見えてしまったんだわ」


 でも不思議なのはどうして欅の木の下でしか見えないのか、だ。あの欅の木に何か特別な意味でもあるのだろうか。


「欅の木かあ。何だろうなあ、うーん、うーん」


 存在しない脳みそを絞って考えた。そしてひとつの仮説を思い付いた。

 特定の場所に縛られた幽霊はその場所にしか現れない。あたしは女学校の敷地内に縛られている。その敷地の中であたしという幽霊が一番濃い密度で存在できる場所、それがあの欅の木の下なんじゃないだろうか、という仮説。

 だって欅の木から一番離れた塀の辺りではすごく希薄な気分になるんだもん。空を飛んだりした時も同じ。高くなるにつれて意識がぼんやりとしてくる。欅の木から遠ざかるにしたがってあたしの存在密度は小さくなるのよ、きっと。


「だけどちょっと待って。あたしこれまで何度も欅の木の下に立っているじゃない。それなのにあたしの姿は見えなかった。どうしてかな」


 これは考えるまでもなかった。あたしが欅の木に近付いたのは昼間だけだったからだ。空の星は昼間でも輝いている。でも夜にならないと見えない。太陽が明るすぎて星の光がかき消されてしまうからだ。それと同じ。たとえどんなにあたしの存在密度が大きくなっても昼間では姿が見えないんだ。


「あの欅の木、きっとあたしにとって特別な存在なのね」


 その理由は全然わからない。でもあたしが何者なのかを知るための重大な手掛かりを与えてくれそうな気がする。


「よし、今晩は寄宿舎には行かない。欅の木の下で一晩過ごそう」


 とまあこんな成り行きで、今、あたしはこうして欅の木の下に立っているわけなのよね。


「そろそろ見えてきてもいいんじゃないかなあ」


 闇がだいぶ濃くなってきた。おまけに雨まで降ってきた。降られたところで濡れもしないし冷たくもないんだけど気分は濡れて冷たくなる。


「まだ見えてこないなあ」


 さっきからずっと両手を胸の前に掲げているんだけど何も見えない。足も腹も見えない。やっぱり闇が一番濃くなる午前零時頃にならないと見えないのかな。


「それもたぶんほんの一瞬なんでしょうね。目撃した寄宿生も『陽炎みたいに消えてしまった』って言っていたしなあ」


 それでも見えるものなら見てみたい。人の目に見えるのならあたしの目にだって見えるはずだ。ああ、あたしはどんな姿をしているのかしら。小振袖に女袴、長い髪。わかっているのはこれだけだけど、これはもう女子生徒と考えて間違いなしね。


「やれやれ降って来やがった」


 おじさんの声がした。蓑笠姿にカンテラをぶら下げてこちらに近付いてくる。退屈していたからちょうどいい。


「見回りご苦労さまです」


 聞こえないとわかっていても声を掛けたくなっちゃう。このおじさんは女学校が雇った警備員さん。2度も不審者の目撃があったので、さすがにこのまま放置してはおけないと協議した結果、夜警を始めることにしたのだ。

 用務員さんは通い勤務のため夜には帰ってしまうので、宿直の先生と新たに雇った警備員さんの2人が交替で夜の校内を見回っているらしい。


「ごめんね、あたしのせいで余計な仕事を増やしちゃって。ところであたしの姿、見えないかなあ。今、あなたの目の前にいるんだけど」


 おじさんの前で手を振ったり、足踏みしたり、カンテラを揺らそうとしたりするけど、当然のことながら全てが空振り。


「欅の木の下の女子生徒か。ただの見間違いじゃないのかねえ、やれやれ」


 おじさんはぶつぶつつぶやきながら行ってしまった。がっかり。でも負けないわよ。夜は長いんだもん。今夜は徹夜で頑張るわ。

 今夜も徹夜で頑張るわ。

 今夜もまた徹夜で頑張るわ。


「ふあー、眠い」


 あたしは教室の隅で欠伸をした。すでに徹夜の頑張りが数日続いている。結果は全敗。あたしの姿は全然見えてこないし誰かに目撃されることもない。


「どうしてかなあ」


 まるでわからなかった。「夜、欅の木の下にいる」これだけではダメなのだろうか。この他にも何か別の条件が必要なのだろうか。う~ん、もっと手掛かりが欲しいなあ。


「冷子様はどう思われますか、夜中の女子生徒。見間違いなのか、それとも本当に存在しているのか」

「さあ、どうでしょう。わたくしが見たのではありませんからね。憶測でものは言えません」

「いるのよ! 見間違いじゃなくて本当にいるのよ!」


 と声を上げても昼食中の彼女たちに聞こえるはずもない。それにしても眠いなあ。昼夜逆転の毎日だから昼間は眠くて眠くて。睡眠不要の幽霊のくせに眠いなんて不思議な気がするけどこれも食欲と同じで気分の問題ね。


「とにかくもうしばらく頑張ってみよう」


 そしてあたしは今晩も欅の木の下に立つ。空は晴れ渡って月が出ている。そう言えば2回目に姿を現したのは月明かりの夜だったっけ。


「今日はあたしの姿が見えるような気がするなあ、ふふふ」


 なんとなく予感がする。あたしの予感って当たるのよ、と思いながら欅の木の下で待つこと数時間。胸の前に掲げた両手はまったく見えてこない。そろそろ夜中かな。


「今晩もダメなのかなあ」

「は~、今宵は明るいねえ」


 警備員のおじさんの見回りだ。いつになく上機嫌ね。もしかして一杯引っ掛けたりしてない? あたしに嗅覚があったらすぐわかるのになあ、残念。あ、でも酒臭くて気持ち悪くなるよりはマシか。


「おじさん、お仕事の最中にお酒はダメでしょう。先生に言い付けますよ」


 怖い顔をして叱ってやった。ついでにおでこを指で弾いてやる。もちろん空振りだけど。


「うえっ!」


 急におじさんが立ち止まった。口をあんぐり開けて両目を大きく見開いている。


「あれ、少しは反省したのかな。それともおでこが痛かった? ってそんなわけないか」

「あ、あんた……」


 様子がおかしい。ぶら下げたカンテラがぶるぶる震えている。右手がゆっくりと上がってあたしを指差した。もしや!


「どうしたの? ひょっとしてあたしの姿が見えるの」

「で、出た! うわああー!」


 逃げるように走り出すおじさん。見えているんだ。ついにあたしの姿が出現したんだ。


「やったー!」


 歓声を上げて両手を見る。何も見えない。


「えっ、どういうこと」


 腹も足も見えない。何も見えていない。ウソ、もう消えちゃったの。出現している時間、短すぎない。いや、ちょっと待って。あたしに見えないだけでおじさんには見えているのかもしれない。


「待って、待ちなさい」


 逃げるおじさんを追い掛け、追い越し、前に立ち塞がる。見えているのなら驚いて立ち止まるはず。さあ、あたしの姿を見てさっきみたいに驚きなさい。


「あらら」


 またも空振りだ。両手を広げて通せんぼしているあたしの体を素通りしておじさんは走って行ってしまった。見えていないのは明らかだ。


「やっぱりおじさんにも見えてないんだ。あたしの姿、一瞬で消えてしまったのかな。それとも、もしかしたら……」


 その先はあまり考えたくなかった。しかし今の状況を考えればそちらの可能性の方が高い。


「おじさんはあたしを見て驚いたんじゃなかったのかもしれない。おじさんが指差したのはあたしではなく欅の木。そしてそこにはあたしとは別の……」


 あたしは欅の木を見た。そこには何も見えなかった。もちろん何も見えないからと言ってそこに何も無いとは限らない。あたしがそうであるように。

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