幽霊だって学園生活を楽しまなくちゃ
幽霊になって3カ月経った。まだ女学校の敷地の外へは出られない。
まるで籠の中に閉じ込められた鳥みたいな生活だけど、見たり聞いたり遊んだりしているうちに、名前しか覚えていなかったあたしの頭の中には様々な知識が詰め込まれていった。と言うより思い出していったと言ったほうが正しいんでしょうね。あたしを取り巻く状況をかなり正確に把握できるようになってきた。
「次はどの教室を見学しようかなあ」
あたしは女子生徒としての日々を満喫していた。この女学校はすごくちんまりとしている。修業年限は5年で1学年は30人くらい。ちょっと少なく感じる。
この時代に高等女学校に進学できる女子って限られているんだよね。みんなお嬢様ばかり。旧公家や旧大名家のような華族、豪商や実業家みたいなお金持ち。ほとんどがそんな恵まれた家の娘たちで、よほど優秀でなければ庶民の娘は進学できないみたい。
それに在学中でも縁談が決まるとその時点で退学してしまうので、上の学年に行くにつれて生徒の数が減っていくのよね。
授業は月曜から土曜まで毎日5時間。科目は修身、国語、外国語、歴史、地理、数学、理科、家事、裁縫、習字、図画、音楽、体操。内容は結構高度。それでもすんなり理解できるのは、それらの知識を知らないのではなく忘れているだけだからだと思う。やっぱりあたしこの女学校の生徒だったんだろうな。
「よろしい。大変よく読めましたね。では続きを次の方、お願いします」
「はい。大内良雄赤穂の城を退きて後、
今あたしは1年生の教室の隅で読本の授業を見学中。生徒たちの年齢は数えで14才くらいかな。1年生はまだまだお子様って感じ。筆記具はさすがお嬢様だけあって紙と鉛筆。尋常小学校で使う石盤や石筆は誰も使っていない。
「みんな大人しくて真面目な娘ばかりね」
きちんと着席して先生の話に耳を傾ける生徒たちを尻目に、あたしは校舎の中を自由に動き回る。何をしても怒られないって本当に気分爽快。寝転がっても居眠りしても壁をすり抜けて退室しても全然平気。先生に当てられませんようにと顔を伏せてお祈りする必要もなし。誰からも認識されない生活ほどお気楽なものはないわね。
今度は5年生の教室へ行ってみようっと。最高学年は数えで19才、満年齢なら17才くらいだからもう立派な淑女って感じなのよね。それに何だか親近感があるの。きっと幽霊になる前のあたしは5年生だったんだと思う。
「この程度のこともわからぬとは実に嘆かわしい。座りなさい」
「……はい」
うなだれて生徒が着席する。教室中が張り詰めた雰囲気になる。
「あーあ、このおじさん、いっつも威張っていて嫌い」
ここでは数学の授業中。この先生はあんまり好きじゃない。
生徒が理解できないのは教え方が悪いからだ。そんな単純なことにも気付かず生徒を責めるんだもん。あたしだったらもっとわかりやすく教えられる自信がある。
「もっと丁寧に教えてあげなさいよ、えいっ、えいっ!」
あたしは教壇に立っている先生に近付くと、頭を叩き、足を蹴とばし、お腹に頭突きを食らわせてやった。食らわせてやったと言っても存在しない手と足と頭ではむなしく空振りするだけなんだけど、それでも少しはスッキリする。
「仇は取ってあげたからね。頑張りなさい」
質問に答えられなかった生徒に耳打ちする。聞こえていないのはわかっているけど少し元気になってくれたような気がする。
「正解だ。その調子で励みなさい」
「はい。ありがとうございます」
教室のあちこちからため息が聞こえる。あっさりと数学の難問を解いたのは全生徒の憧れの的である
頭脳明晰なだけではなく容姿端麗、品行方正、文武両道、博識多才と非の打ち所がない女子生徒。しかも冷子さんの筆記具は鉛筆ではなくインクを使ったペン。米国留学の話も出ている正真正銘の才媛。
「は~、冷子さん、素敵」
実はあたしも彼女には一目置いている。幽霊なんかじゃなかったら絶対お友達になって毎日楽しくお喋りするんだけどなあ。残念。あっ、鐘の音が聞こえてきた。
「今日はここまで」
授業が終わった。昼休みだ。生徒たちの顔がほころぶ。まだまだ食べ盛りの娘たちですからね。
みんなが手を洗いに廊下へ出ると用務員さんが入ってきた。お茶を入れたヤカンを持って来てくれたのだ。各自自分の湯呑にお茶を注いでお弁当をいただく。
「あー、羨ましい!」
楽しさ満点の学園生活の中で唯一つらいのがこの時間。だってあたしは食べられないんだもの。
生徒たちのほとんどはおにぎりと漬物、たまに果物が添えられるくらいの簡素なものなんだけど、みんな本当に美味しそうに食べるのよ。そんな風景を指をくわえて眺めているだけ。こんなにつらいことが他にあると思う? これはもう拷問って言ってもいいと思う。
「お腹空いたなあ」
暑さ寒さを感じないんだから空腹だって感じないはず。そもそもお腹が存在していないんだから空くという感覚なんか発生するわけがないのに、幽霊って不思議よねえ。食べたいなあって思っちゃうのよ。
「冷子さま、今日の具材いつもとは違うように思われるのですが」
「あら、よく気が付きましたね。ハムの代わりにカツレツを挟んでもらいましたの。サクサクして大変美味しゅうございましてよ」
「うう、美味しそう、じゅる」
と、存在しないヨダレを垂らしながらつぶやいたのはあたし。冷子さんが食べているのはサンドイッチ。パンに様々な具材を挟んだ洋風の食べ物。冷子さんの昼食はほとんどがこれ。お屋敷には西欧から呼び寄せた料理人がいて毎日作ってもらっているらしい。
「冷子さまは立派なお屋敷に住んでいらっしゃるのでしょう。羨ましいですわ」
「どんなにお屋敷が立派でも、所詮わたくしは居候の身。肩身が狭いのですよ」
「あっ、そうでしたね。余計なことを言ってしまいました。お詫び申し上げます」
「いいえ。気にしておりませんわ」
そうなのよねえ。冷子さんって謎が多いのよ。
実家から通えない生徒は寄宿舎に入るんだけど、冷子さんは近くに住む華族のお屋敷に住まわせてもらっているの。それが親類でも知人でもないお家だそうで、生徒たちだけでなく女学校の先生たちも冷子さんの実家はどこなのか知らないの。
しかもこの女学校へは途中編入。あたしが幽霊になってからこの教室へ来たんだよね。まだ2カ月半ほどしか通っていないのに優秀な成績。背が高く、外国語が堪能で、10代とは思えないほど大人びているので、ひょっとしたらお忍びでこの国へ来た外国の貴族かも……そんな憶測が飛び交うくらい、冷子さんはミステリアスなのよね。
「はあ~、それにしても美味しそうだなあ、えい!」
冷子さんが持っているサンドイッチにかぶりつくあたし。もちろん何の歯ごたえもなくサンドイッチは口の中をすり抜けていくだけ。幽霊レベルが上がったら最初にしたいのは何かを味わうことね。神様仏様、頼むわよ。
「さあ、そろそろ片付けて教室を移動しましょう」
お弁当の時間が終わった。用務員さんがお茶のやかんを持って行く。
午後からは図画、裁縫、体育といった実技の科目が多い。昼食の後に座ってお話を聞くだけではみんなお昼寝しちゃうもんね。それを防ぐ意味もあるのかな。
「それでは始めてください。針の取り扱いにはくれぐれも注意してください」
「はい!」
今日の午後は裁縫。畳敷きの部屋に裁縫机を並べ正座して針を動かす。縫っているのはおむつ。完成品は希望するご婦人方に無料で差し上げているのよ。赤ちゃんがいるお家ならどれだけあっても困らない品だもんね。ただ布は結構貴重品なのでおむつの材料は使い古しの着物や手拭い。練習用ならそれで十分。
「でもこれって、不公平だよね」
女子も男子と同じく尋常小学校から先に進学できるのはいいけど、裁縫なんて科目は男子にはない。そもそも小学校から女子は裁縫が必須ってどうなのよ。みんな全然疑問に思っていないみたいだけど何かもやもやするんだよなあ。幽霊になると男女平等の意識に目覚めるのかな。冷子さんはどう思っているんだろう。
「本日はここまでです。それでは皆さま、ごきげんよう」
授業が終わった。挨拶をして生徒たちが教室を出ていく。あたしも冷子さんの後に付いて行く。廊下を歩き校庭を横切り校門を出ると、そこには迎えの人力車が待っている。
「お嬢様、どうぞ」
「ありがとう」
冷子さんが去って行く。あたしは校門の内側でそれを見送る。決して校門の外には出られない。一日で一番寂しい瞬間。
「あーあ、いつまでこの中で暮らさなくちゃいけないんだろう」
特定の土地に縛られている幽霊ってのもあるらしい。柳の下とか池の辺りに出る類のもの。あたしもそれなのかな。女学校に縛られた幽霊って何それ? 笑っちゃう。
「さあて今夜もいつもの場所へ行きますか」
幸いなことに寄宿舎は女学校の敷地内にある。放課後は毎日そこで過ごすことにしているんだ。
寄宿舎での私生活を覗き見るのはちょっとだけ罪悪感がある。入浴シーンとかも見ちゃったりするから。まあ女同士なんだから構わないでしょ。
それにあたし物体をすり抜けられるから、顔を衣服の内側に潜り込ませると裸体が見えちゃうのよ。さらに皮膚の内側に潜り込ませると内臓まで見えちゃう。気持ちが悪いからそんなことは絶対にしないけどね。
「やっぱり教室と違ってみんな伸び伸びしているわね」
生徒たちがお喋りしたり復習予習をしたり差し入れのお菓子を食べたりするのを眺めながら、夕暮れの時を過ごし、消灯になれば一緒に寝る。あたしの1日はこうして終わる。こんな日々を3カ月過ごしてきた。
「でもあたしに関する手掛かりは全然ない。あたしって本当に女子生徒なのかな」
幽霊になってから今日まで、どれだけ生徒たちや先生たちの話に耳を傾けてもあたしが誰かを特定するような話題は一切出て来なかった。もしあたしがこの女学校の生徒で、何らかの事故か病気で亡くなったために幽霊になったのなら、少しくらい誰かがそのことを口にするはずだ。しかしそんな話はまったくなかった。
「それらしい記録すらないのよね」
職員室に忍び込んで在籍者の名簿を調べたりもした。1枚ずつ顔を透過させていくのがすごく面倒だったけど頑張って目を通した。でもあたしと思われるような生徒は見付からなかった。
「ちょっと待てよ。ひとつだけあったっけ」
3日前に「明日は曾祖母の百箇日法要ですので」と言って欠席した生徒がいた。享年95才だったそうだ。
「えっ、あたし97日前に95才で死んだの?」
と思ったんだけど、いくら何でもそれは違うでしょ。95才の老婆がサンドイッチにかぶりつこうなんて思わないだろうし、老衰で亡くなったのならこの世に未練なんかないだろうから幽霊にはならないだろうし。だからこれはあたしとは無関係だと結論付けた。
「まあ別にわからなくてもいいか。あたしが誰か判明したところでどうなるものでもないし」
このまま成仏できずにこの世に留まるのも悪くないかも。だって楽しいんだもん。誰にも気兼ねせず自分の思うままに振る舞えるんだから。
明日もまた笑って過ごせる日でありますように、そう思いながらあたしは眠る。幽霊だって眠れるのだ。
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