本当に怖いのは幽霊ではなく人

「まさか、本物の、幽霊なの……」


 あたしの頭は完全に混乱していた。空中に浮いているんだから人のはずがない。幽霊だ。きっとこっちが本物の悲恋女子生徒なんだろう。そして欅の木の下にいる先生も女子生徒たちも、あたしではなくこの幽霊を見て驚いたんだ。

 じゃあ、あたしは何の幽霊なの。幽霊のあたしに幽霊が見えているのなら、この幽霊にあたしは見えているの?


「えいっ!」


 殴りかかる。見えているのなら避ける動作をするはずだ。しかし本物の幽霊はまったく動じない。空を切るあたしの拳。やっぱりあたしの姿は幽霊にさえ見えていないのね。

 きっとあたしの幽霊レベルが低いせいだわ。どれくらいレベルを上げれば幽霊にも人にも認知してもらえる優秀な幽霊になれるんだろう。


「ここに集いし女子たちよ。我の言葉に従え。さすれば呪いを受けることはないであろう」

「で、出たー!」


 悲鳴を上げて真っ先に走り出したのは数学の先生だ。情けない。教壇ではあんなに威張っているくせに女子生徒を放って逃げ出すなんて。


「きゃー!」


 それに釣られて他の女子生徒も逃げ出した。無理もないわ。だってこの幽霊、すごく怖い姿をしているんだもん。

 顔は前髪に覆われてほとんど見えないんだけど、充血した右目が月の光を反射して怪しく光っている。黒髪は扇形に広がって一本一本が蛇のようにうごめている。

 実はあたしもさっきから存在しないはずの両膝がガクガク震えているの。もしあたしが幽霊でなかったらとっくに逃げ出していると思うわ。


「あ、あなた何者なの。お、降りて来なさいよ」


 おお、全員逃げてしまったと思ったらひとりだけ残っていた。優子さんだ。さすがでかい口を叩くだけのことはある。


「進学するのはやめろ。女に学問は不要だ」

「口を慎みなさい。あなたにそんなことを言われる筋合いはありません」


 さっきから説教がましいな、この幽霊。帰らぬ婚約者を待っている悲恋の女子生徒というイメージからはかなりかけ離れているし、何か変じゃない。


「卒業したら嫁に行け。それこそが女の幸せだ」

「自分が嫁に行けなかったからって、他人に結婚を押し付けるのはやめてちょうだい。それよりも早く降りて来なさい。いつまで幽霊の真似事をしているつもりなの」


 この状況でもまだ相手が幽霊だとは思っていないのね。優子さんって本当に頑固。


「そうか、ならば」


 幽霊は右腕を上げると拳を優子さんに突き出した。


「口で言ってもダメならこうだ」

「きゃっ!」


 胸を押さえて小さな悲鳴を上げる優子さん。えっ、撃たれたの? でも銃声なんてしなかったわよ。優子さんは胸を押さえているけどちゃんと立っている。撃たれたわけではないみたい。


「どうだ。私の言うことを聞く気になったか」

「あ、あなた、何者なの、何が目的なの。教えてくれなければこっちだって聞く耳持たないわ」

「それは……」


 不意に強い風が吹いた。幽霊の前髪があおられて顔が露わになった。


「ええっ!」


 信じられなかった。信じたくなかった。それは冷子さんだった。あまりの驚きにあたしの頭の中は真っ白になってしまった。


「ふふふ、ははは」


 優子さんが笑い出した。気でもおかしくなったのかと思うような笑い方だ。


「お笑いだわ。自作自演の幽霊騒動。ひょっとしてあたしに首席の座を奪われるのが嫌でこんなことを仕出かしたのかしら。それなら心配ご無用。あなたには逆立ちしたって敵いっこないから。無駄骨だったわね」

「そうではありません。言いましたよね、進学して欲しくないって。優子さんには医者の道を諦めてほしいのです」

「そんなことできるわけないでしょう。私は代々続く医者の家系の娘なのよ。親の期待に背くようなことはできないわ」

「どうしてもできませんか」

「できないって言っているでしょう!」

「そう、残念です。さようなら」


 冷子さんの手元が微かに光ったような気がした。それは彼女の言葉同様氷のように冷たい輝きだった。


「うっ……」


 胸を押さえる優子さん。無言のまま体が傾くと鈍い音を立てて地面に倒れた。微動だにしない。眠りよりも深い静寂が優子さんの体を包んでいる。まるで悪夢を見ているような気がした。


「ウソでしょ。どうして冷子さん、どうしてこんなことを!」


 あたしは宙に浮いている冷子さんにつかみかかった。空振りするあたしの両手。前髪を風に揺らしたまま冷子さんの姿が薄くなっていく。


「終わった。やっと帰れる。これで何もかもうまく行っているはず……」


 それがあたしの耳に届いた冷子さんの最後の言葉。その姿が幽霊のように消えてしまうと遠くから女子生徒たちの声が聞こえてきた。


「優子さん、優子さん、どうしたの。しっかりして」


 きっと遠巻きにしてふたりを見つめていたんでしょうね。14人全員が欅の木の下に駆け寄ってきた。そして寄宿舎からも女子生徒たちが出てきた。彼女たちもまた部屋の窓からふたりの成り行きを見つめていたんでしょうね。


「冷子さん、あなたは何者だったの」


 あたしにはわからなかった。どうしてこんなことになったのか。どうして冷子さんは人なのに浮いていたのか、どうして幽霊のように消えてしまったのか、何もわからなかった。ただわかっているのは冷子さんが優子さんの命を奪った、それだけだった。


 翌日から休校になった。警察の実況検分、目撃者全員の聞き取り、保護者への説明、女学校はいつにも増して騒がしかった。あたしは誰もいないガランとした教室でぼんやりと浮いていた。


「優子さん、幽霊にならないかなあ」


 不謹慎だとはわかっているけど、ひとりぼっちの教室でそんなことを考えていた。志半ばで命を絶たれた優子さん。きっとこの世に未練を残しているに違いない。それなら幽霊になってもおかしくないでしょう。


「優子さん、優子さーん」


 優子さんの幽霊を探して校内を漂い回る日々が続いた。でも優子さんの幽霊は見付からなかった。無事にあの世へ行けたのか、幽霊になるまでには時間がかかるのか、幽霊のあたしには幽霊の優子さんが見えないのか、理由はわからないが探しても無駄なような気がした。


「寝るか」


 そうなるともう寝る以外にやることはない。なんだか妙に眠いのだ。あんなことが起きて心がずっとざわついているのに眠たくて仕方がない。どんなに眠っても眠り足りない気分なのよね。


「冷子さん、今頃どうしているんだろう」


 授業の再会は来週の月曜日からと決まった。冷子さんも警察から事情を聞かれているんだろうか。自分がやったと白状しているんだろうか。

 女学校の敷地を出て冷子さんのお屋敷へ行きたいがそれはできない。来週の月曜日まで待つしかない。果報は寝て待てと言うし、やっぱり寝るか。


「掲示板、ご覧になりましたか。あの方、辞職されたそうですよ」

「当然ですわ。あんな醜態を晒して威張っていられるはずがありませんもの」


 寝ていたら月曜日はすぐやって来た。学校が始まって真っ先に話題になったのは数学の先生の辞職だ。そりゃそうよね。あの逃げっぷりは見ていて情けなくなるくらいだったもの。まあ四捨五入すれば還暦だし、隠居するにはいい機会だったんじゃないかな。


「それよりも冷子さん、どうしたんだろう」


 5年生の教室の中でひとつだけ空席がある。冷子さんの席だ。遅刻? それとも病欠? これまで無遅刻無欠席だった彼女にしては珍しい。女子生徒たちも気になるのだろう、少しずつざわめきが大きくなっていく。やがて担任の先生がやって来た。


「皆さんにお知らせがあります」


 朝の挨拶の後、先生は一番に切り出した。


「冷子さんは中退されました。予定を早めて卒業前に米国への留学が決まったためです」


 どよめきが起きる。でもあたしにはそれほどの驚きはなかった。あれだけ用意周到な人なんだもの。こうなることを見越してあらかじめ手を打ってあったに違いない。そしてこの事件の結末も冷子さんの思い通りになった。事件ではなく事故として処理されたのだ。


『幽霊なる現象が発生したのは多くの生徒たちの証言によって明らかである。多くの生徒は逃げ出したが優子なる生徒は欅の木の下に留まった。口論の末、激昂した優子は突然倒れ死去した。死体に外傷は一切なく、恐らくは興奮状態によって引き起こされた心臓発作が死因と思われる』


 遠巻きにしていた女子生徒にはふたりの口論の内容までは聞こえず、また冷子さんの顔もはっきりとは見えなかったらしい。結果、冷子さんはこの件には無関係と判断され何の取り調べも受けることなく屋敷を後にしたそうだ。本当に抜け目のない人だなあ、冷子さんは。


『なお、多数の者が目撃した女子生徒の幽霊であるが、欅の木の枝、葉、幹などが重なり、夜の闇と月明かりによって人の形に見えたものと思われる。実際、欅の木には人型に類似する部位があると指摘されている。死亡した女子生徒は幻覚と幻聴に襲われていたものと思われる。ただし該当する人物がいた可能性も捨てきれないため、しばらくは女学校周辺の聞き込みと警戒を継続する』


 これが警察の出した結論。もちろん該当する人物は見付かっていない。そりゃそうよね。その人物って、もうここにはいない冷子さんなんだもん。


「なんだか疲れちゃったな」


 結局わかったことは何ひとつない。夜、欅の木の下にいてもあたしの姿は出現しないし、あたしが悲恋女子生徒の幽霊なのかも定かではない。冷子さんが何者なのか、どうしてあんなことをしたのか、それもわからない。


「あ、でもひとつだけわかったことがある」


 それは本当に怖いのは幽霊ではなく人だってこと。どうやって浮いていたのかもどうやって消えたのかもわからないけど、冷子さんは間違いなく幽霊ではなく人だ。賢くて優しくて気品がある女子生徒。

 だけどそれは表の顔に過ぎなかった。裏ではあんなに冷酷なことを企んでいた。そしてその事実を誰ひとり知らない。これほど怖ろしいことがあるだろうか。


「そう考えると幽霊なあたしってすごい幸せ者なんでしょうね」


 だって死なないんだもん。もう死んでるんだから。死ぬ心配をしなくていいってのはすごく気が楽になる。痛みもないし年も取らない。病気にもならないし暑くも寒くもないし飲まず食わずでも平気。これってもう無敵じゃない。だったらあれこれ考えたりせず今の幸福を楽しむべきよね。うん、そうしよう。じゃあ今日はもう眠ろう。なんだかすごく長く眠れるような気がする。次に目覚めた時はどんな世界になっているのかしら。

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