お気楽幽霊Yu.Reikoのまったりスローライフ

沢田和早

 

第1話 学びの園にも出るらしい

あたしは幽霊

 あたしは幽霊なんだけど、どうやって幽霊になったのか覚えてないのよね。幽霊になる前の記憶が全然ないの。


 でもそれは不思議でも何でもない。どうやって人になったのか覚えている人なんていないし、人になる前の記憶を持っている人もいないでしょう。覚えているのはある程度の年齢まで育ってからの記憶だけ、それも全部じゃなくて断片的でしかない。


 あたしもそう。幽霊として生まれた瞬間の記憶はない。気が付いたら幽霊だったのよ。

 唯一覚えていたことと言ったら、

「あたしの名前はYu.Reikoである」

 それだけだったの。


 今あたしは地上3mの空中をプカプカ浮きながら鉛色の雲に覆われた空を見上げている。一雨来そうだなあ。


「本日は晴天なり、本日は晴天なり」


 これはマイクテストの決まり文句。決まり文句なので本日が雨模様でも晴天なりって言わないといけないのよね。

 こんなつぶやきが出るんだから幽霊になる前は放送部に所属していたのかも、なんて考えることもあったんだけどそれは即座に否定された。あたしが幽霊になった頃には放送部は無かったから。っていうかマイク自体が無かったのよね。


「幽霊にしては少し長生きし過ぎちゃったかなあ」


 幽霊なのに長生きって表現はどうかなあと思うんだけど、この世に存在しているんだから生きているとしか言いようがないよね。

 人の死も幽霊の死もこの世を離れてあの世へ行くことだとすれば、まだこの世に留まっているあたしは死んでいない、つまり生きているって言ってもいいんじゃないかなあ。


「我思うゆえに我あり。あたしは今思っている。だからあたしは存在している。うん、全然おかしくない」


 ただちょっと長く存在し過ぎのような気はする。なかなか成仏できないのよ。だいたい1000年くらいこの世をさまよっている。

 もちろんその間の出来事を全部覚えているわけじゃないわよ。幽霊になり立ての頃は毎日が楽しくて結構充実した日々を送っていたんだけど、そのうち幽霊ライフにも飽きてきちゃった。幽霊としてできることなんてすごく限定的なんだもん。

 そうなるともう寝るしかない。という訳で眠っている時間がだんだん長くなっていった。今は500年振りくらいに目を覚ましたところ。さすがに寝過ぎちゃったとちょっと反省中。


「昔を思い出すなあ」


 幽霊になり立ての頃は今とは全然違っていた。ここは学校だったんだよね。しかも設立して10年くらいの高等女学校。

 それまで女子が高等教育を受けられる学校なんてなかったんだけど、あたしが幽霊になる少し前にこの国を統治していた将軍様が権力の座から降りて武士の世が終わり、女子が学べる学校が新設されたらしいの。


「皆様、おはようございます」


 それがあたしの記憶に残っている最初に聞こえた音。そう、言葉じゃなく音だった。でもすぐ言葉だとわかった。意味もわかった。わかったというより思い出したと言ったほうが正しいのかもしれない。

 だって全然知らない言葉を一言聞いただけで理解できるなんてあり得ないことだもの。あたしはこの言葉を知っていたけど忘れていただけ、そう考えたほうが自然でしょ。


「おはようございます。今日は良き日和ですこと」

「でも暑くなりそうですわ。汗は大嫌い」


 矢絣やがすりの小振袖に海老茶色の袴。足元の黒革靴は勇ましいけれど髪に結んだリボンを見ればやっぱり女子生徒。みんな明るい声で楽しくお喋りしながら校門を入って来る。それがあたしの記憶に残っている最初に見た光景。男子生徒はひとりもいないから、ここが女学校であることはすぐわかった。


「あ、お、おはようございます」


 女子生徒たちの集団に頭を下げて挨拶した。覚えているのは自分の名前だけだったけど、きっと自分も彼女たちと同じ女子生徒なんだと思った。そうでなきゃこんな場所に突っ立っているはずがないものね。


「あらお久しぶり。もうお体の調子は良くて?」

「えっ?」


 あたし、体の調子が悪かったのかな。何て返事をすればいいんだろう。口籠っていると別の女子生徒の声が聞こえてきた。


「はい。すっかり元気になりましたわ。ご心配をおかけしてすみません」


 なあんだ、あたしの挨拶に応えてくれたんじゃなかったんだ。みんな冷たいなあ。言葉だけでなく視線さえも誰一人あたしに向けようとしてくれない。


「あのう、おはようございます」


 もう一度言った。やはり誰も答えてくれない。まるであたしが見えていないかのように無視して歩いていく。


「ええっと、どうして返事をしてくれないの?」


 今度は問い掛けてみた。同じだ。誰も答えてくれない。次第に腹が立ってきた。いくらなんでもここまで無視することはないんじゃない。

 ちょうどこちらに向かって歩いて来る女子生徒がいる。思い切って両手を広げ立ち塞がってやった。


「待って、あたしの話を聞いて」


 その子は止まらない。どんどん近付いて来る。避けようともしない。こうなったら意地の張り合いだ。あたしだって避けない。体がぶつかったって構わない。さあ来なさい。


「えっ?」


 ぶつかったという感覚もないまま女子生徒の姿が消えた。振り向くと何事もなかったかのように後姿が遠ざかっていく。まるであたしの体をすり抜けでもしたかのように平然と歩いていく。


「どういうこと?」


 あたしは自分の手のひらを上に向けて見下ろした。信じられなかった。そこにあるはずの両手はなく、ただ下の方に黄土色をした校庭の土が見えているだけだった。


「ウソ! 何これ!」


 ないのは手のひらだけではなかった。腕もなかった。足も腹も胸もなかった。あたしの体は完全に透明なのだ。


「見えないだけだよね。本当はあるんだよね」


 見えない手を動かして頭があると思われる部分に触れようとした。何の感触もない。両手で肩や腹や胸や足を触ろうとした。全て空振りに終わった。本当にあたしの手は触っているんだろうか。手が見えないから思った通りに動かせているのかどうかわからない。


「見えない手で触ろうとするからダメなのかも。確実に存在しているもので確かめてみよう」


 校庭の隅に大きなけやきの木が立っている。あの幹にあたしの体をぶつけてみよう。あたしは走り出した、つもりだった。


「何これ、どうなってるの」


 足が地面を蹴る感覚がない。足を動かそうという意識も足が動いているという感じもあるけど足には何の手ごたえもない。

 見えない足では大地に触れることすらできないみたい。きっと今のあたしは地面に立っているのではなく地面に浮いているんでしょうね。

 足が空回りするだけのこんな状態じゃこの場所から移動することもできない。ずっと突っ立ったままでいろっていうの。冗談じゃないわよ。


「あたしの体、動け! えっ!」


 叫んだ途端、あたしは欅の木目掛けて突進を開始した。すごい勢いだ。


「ちょ、早すぎる!」


 と言った途端、散歩しているみたいなのろのろ歩きになった。今度は言葉にせず頭の中で(もう少し急いでもいいよ)と念じた。早歩きくらいになった。どうやら空間移動は体を動かさずとも心に願望を抱くだけで可能になるみたい。


「これってすごい便利じゃん! ラッキー」


 調子に乗ったあたしは(浮け)と念じた。景色が下へ動き始めた。視点がどんどん上昇していく。まるで鳥になったような気分。


「このまま雲の上まで行ってみたいなあ」


 と思ったがそれは無理だった。ある高度まで達するとそれ以上は上昇しないの。浮け、飛べ、跳ねろ、昇れ。あれこれ言葉を変えて念じてもダメ。

 どうしてだろうと周囲を見回すと、あたしが浮いている高さと欅の木のてっぺんの高さが一致している。その欅の木は女学校の敷地にある樹木や建物の中で一番高い。そこより上には行けないってことらしい。


「高さに制限があるってことは水平方向にも制限があるのかな」


 その高度を保ったまま北へ進んだ。ちょうど女学校の塀がある場所で進まなくなった。南も東も西も同じ。塀の外側への空間には移動できない。あたしは学校の敷地内でしか動けないのだ。


「じゃあ下はどうなんだろう。降りろ!」


 あたしの視点が下降を始める。地面を通り過ぎ地中へ入り込む。でもある程度の深さで止まっちゃった。それが建物の基礎の深さなのか、樹木の根の深さなのかわからないけど、やはり制限があるようね。


「あたしの体は存在していないってことか」


 もう欅の木にぶつかる必要はない。土の中にまで透過していくのだから体が透明で見えないのではなく存在していないから見えないと考えるしかない。これじゃ生徒たちに無視されるのも当然ね。


「でも声は? 姿は見えなくても声は聞こえるんじゃ……」


 そこまで喋ってあたしは気付いた。あたしの声は耳で聞いているんじゃない。直接頭に響いているんだ。そもそも口も喉もないのだから声を出せるはずがないし、耳がないのだから聞こえるはずがない。喋ったつもりの言葉を聞いたつもりになっていただけなんだ。


「あたしの姿は見えない、あらゆる物体に接触できない、人と言葉を交わせない。つまり誰かと意思疎通するのは絶対不可能ってことか。あーあ、これじゃまるで幽霊みたい……んっ、幽霊?……そうよ、それよ、あたし幽霊なのよ」


 そんなの何の根拠もない推論に過ぎないのはわかってる。でも「幽霊」という言葉を思い浮かべた瞬間、それ以外に真実はないような気がしてきた。


「そしてきっと女子生徒の幽霊なんだわ」


 それもまた推論に過ぎないのはわかってる。体が見えないのだから男子なのかもしれないし、生徒ではなく教員なのかもしれない。あるいはもっと別の何かなのかもしれない。

 でもあたしの気分は紛れもなく女子。そしてあたしは女学校の敷地に閉じ込められている。ここから外には出られない。だったら幽霊になる前は女子生徒であったと考えるのが自然じゃない。


「うん、もうそれでいいや。どうせ考えたってわからないんだし。ハッキリするまであたしは女子生徒の幽霊ってことにしておこう」


 女子生徒たちが校舎に入っていく。あたしは欅の木を見上げた。葉が揺れている。きっと風が吹いているのね。もちろんその風を感じることはできない。風もまたあたしの体をすり抜けていっちゃうから。


「今日は暑くなりそうって言ってったっけ」


 日なたに出て日光を浴びる。もちろんその温もりを感じることはできない。きっと寒いという感覚も抱くことはないんでしょうね。


「でも不思議。見ることと聞くことはできるんだから。目と耳がないのにどうして可能なんだろう。光で見ているのではなく、空気の振動で聞いているのでもない、ってことなのかな」


 視覚と聴覚、今備わっている能力はこのふたつだけ。もしかして幽霊としてのレベルが低いから? レベルを上げれば嗅覚や触覚や味覚といった能力も身につけられるのかな。じゃあレベルを上げるには何をすればいいの? 花嫁修業みたいに幽霊修業に励むとか?


「ぷぷっ、幽霊修業って何よ。あたしもバカなこと考えてるなあ」


 用務員さんの鳴らす鐘の音が聞こえる。そろそろ授業が始まるみたい。あたしは欅の木を離れると校舎に向かって宙を滑った。幽霊だけと女子生徒、授業はきちんと受けなきゃね。


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