管理された学園生活
あたしは校門の内側に立っている。仮想世界に入り込む時は必ずここに飛ばされるのよね。
「今日も人影なしか」
学校開門のチャイムが鳴ればいつでもログイン可能なんだけど、そんなに早く登校してくる生徒はまずいない。昔はチャイムと同時にクラブ活動の朝練に励む生徒たちが出現したものだけど、今は別の施設を使っているのでそれもなくなっちゃった。
「早く誰か来ないかなあ」
待つこと小1時間。授業開始の予鈴が鳴るとようやく校門に生徒たちの姿が出現し始めた。
「おはよう」
「おはよう。今日も快晴だね。次回の雨天は何日後の設定だっけ」
「9日後ぐらいじゃなかったかな」
生徒たちの会話も仮想空間ならではね。
この世界の天気は基本的に晴れ。人工知能がそのように管理している。その結果、体育の授業や遠足、文化祭などの行事はお天気の心配をしなくて済む。便利よね。
だけど晴れの日ばかりじゃ情操教育上良くないので、たまに雨だったり曇りだったり雪だったり嵐だったりすることもあるんだ。
「雨が降っても濡れないし、風が吹いても何も感じないんだけどね」
感じさせようとすればできないこともないけど、そこまでリアルを追及しても意味がないと判断しているみたい。だから雨の中でもみんな傘を差さずに登校してくるし、夏の強烈な日差しの中でも額に脂汗が滲み出るなんてことはない。
「ここではみんなあたしと同じ、幽霊みたいな存在よねえ」
だって雨にも濡れないし風も感じないんだもん。現実世界のあたしと同じでしょ。とは言え無効化されているのは環境による感触だけ。運動によって生じる発汗や全力疾走で風を切る感触はリアルに再現されているみたい。そこが幽霊のあたしとは違うところ。高度に発達した科学技術で幽霊にも五感を持たせてくれないかなあ。
「あれ、髪型変えた?」
「えっ、あっそうか。今日は更新日だった」
これも仮想空間ならではの会話。
生徒たちの容姿は現実の容姿を元にして再現されている。だから今見ている姿は現実の姿とほぼ同じと考えて間違いないんだけど、常時現在の容姿を読み込んで更新しているわけじゃないんだよね。
理由はさっきと同じ。システムに余計な負荷をかけてまで実行する事柄ではないという判断。で、容姿は14日に1度更新して、あとはそのデータを元にして表示しているらしい。
「これって身だしなみを整えなくていいから便利なんだよねえ」
髪に寝癖が付いていても、起きたばかりでショボショボの目でも、口にご飯粒が付いていても全然気にする必要なし。更新日の姿さえきちんとしていれば14日間はその状態が維持されるから。
「考えてみれば、今あたしが見ている生徒たちの体って実物じゃないんだよなあ。ただの映像なんだもん。あたしも映像でいいから体が欲しいなあ」
とこれまで何度思ったことだろう。まあ映像を作ってもらうにしても元になる体がないからどうしようもないんだけどね。非現実の世界でも幽霊は幽霊のままだなんて本当に損な役回りだと思う。
あっ、本鈴のチャイムだ。今日はどこの教室へ行こうかな。
「でありますから、あれがこうなりまして、それがああなるのです」
現在あたしは高等部3年の教室で数学の先生のお話に耳を傾けている。傾けている耳にはタコができちゃった。だって350年も授業を受けているんだもん。聞き飽きたよ。
特にうんざりなのが理系の科目。文系に比べると授業内容がほとんど変わらない。そもそも数学なんて紀元前に論じられた定理を学んでいるわけでしょ。どんだけ昔の話を教えているんだよって感じ。まあ基礎が大切なのはわかるけど。
「えっと、わかりません」
「どこがわかりませんか?」
「その、どこがわからないかもよくわからなくて」
「はあ? なんだ、そ……そんな答え方では困りますね。それでは着席してしばらく考えてください。それでもわからなければ後ほど職員室へ来てください」
「はい」
ああ、また発動したみたいね。秩序維持システム。この先生の授業では頻繁に発生する。
「初めて聞いた時はびっくりしたなあ。いきなり話し方が変わるんだから」
当初は何が起きているのかよくわからなかった。あっ先生が怒りだした、と思った瞬間に丁寧な口調に戻るんだもん。
あちこち聞きまわって情報を集めた結果、乱暴な口調を許さないシステムが作動しているからなんだって。
「喋り方まで管理されているなんて、ここは本当に窮屈な世界!」
言葉は人を喜ばせるけど逆に人を傷つけることもある。
この仮想世界では発せられた言葉が相手に心理的負担を与える可能性があると判断されると、自動的に穏当な言葉へ変換されるんだって。
さっきの先生も現実では汚い罵倒を浴びせていたんだろうけど、この世界では普通の言葉に置き換えられてしまうんだよね。
これは先生に限らず生徒同士でも同じ。「ケチ」とか「グズ」とか「デブ」とかいう言葉は「質素は美徳ね」とか「おっとりしている」とか「ふくよかな方」みたいな言葉に自動的に変換されちゃうの。
おかげで言葉によるイジメは根絶してしまったんだけど、言葉への信頼性は著しく低下してしまった。その言葉が本当に現実世界で喋った言葉なのかどうか、この世界では判断できないんだもん。
「まさに上辺だけの付き合いよね。でも現実世界でも心にもない追従やお世辞を言ったりするし、結局本音なんて誰にもわからないものなんでしょうね」
突然、生徒のひとりが立ち上がった。
「先生、トイレに行ってきます」
先生は何も言わない。立ち上がった生徒は滑るように教室を出ていった。これもこの世界特有の現象。
本当にトイレに行きたいんじゃないのよ。ほら、やむを得ずログアウトしなきゃならない時ってあるじゃない。
たとえば現実世界で火事が発生したとか、家族が突然デバイスを外して行方不明になったとか、ネット回線が遮断したとか、そんな事態が起きた場合、いきなりログアウトして教室から姿が消えると不気味でしょ。
そこで突発的にログアウトした場合はその瞬間に生徒は本人そっくりのNPCに置き換えられ「先生、トイレに行ってきます」の言葉を残してトイレに行き、そこで姿を消すというシステムが発動するように設定されているんだって。まあ確かに何も言わずにいきなり消えたら幽霊よりも不気味だものね。
「またあの子よ」
「回線の調子が悪いんだって」
あちこちで生徒たちのささやきが聞こえ始めた。授業中の私語は大目に見られているみたい。相談し合って問題を解決するのは悪くないからって理由らしい。
「皆さん、そのような私語はお行儀が悪いですよ」
おっと、ここで
「確かに優秀なんだけどなあ」
あたしはどうも好きになれない。人間離れしすぎている感じがするのよね。現実の幽子さんに会えば違うのかもしれないけど。あっ、チャイムだ。
「今日はここまでにします」
起立、礼を済ませて退出する先生。休憩時間はトイレに行く生徒が多い。デバイスの接続を切って現実世界でお茶を飲んだり、本当に用を足したりするためだと思う。
もちろん接続したままの生徒もいる。中には携帯端末でゲームをして遊んでいる子もいる。仮想世界で仮想ゲーム、ネット依存もここまで来ると重症ね。
「おっと、危なかった」
生徒のひとりがつまずいて転んだ、と思ったけど転ばなかった。顔が床から15センチほどの高さまで接近したところで生徒の体は静止してしまったのだ。幽子さんが右腕をつかんで引っ張り上げる。
「急ぎ過ぎですよ。ケガしないとわかっていても慎重にね」
「はい」
成績優秀なだけでなくこんな気配りができる点も、幽子さんに人気があるひとつの理由かもしれないわね。
「ははは、これ何度やっても面白い」
今度は別の生徒が窓から身を乗り出している。体の大部分は外に出て教室に残っているのは膝から下の部分だけ。どう考えても落下は避けられない姿勢なんだけど、そのままの状態で静止している。
「また空中浮遊ごっごですか それは小学校で卒業するものですよ」
「卒業できなかったあ。楽しいから」
今度は両手で生徒の両肩をつかみ教室に引き戻す幽子さん。転ばないのも落ちないのも「言語置き換え」と並ぶもうひとつの秩序維持システム「無傷保持」によるものだ。
「この世界ではケガとは無縁なのよね」
心理的負担を与える言葉を排除するように、身体的負担を与える現象もまた排除されている。
この教室は4階。窓から落ちれば大ケガは確実。もちろんそれは仮想世界での話で現実の体は無傷のままなんだけど、だからと言って4階から落ちているのに骨折も流血もしないんじゃ不自然過ぎるでしょ。
だから傷を負うような事態を招きかねない行動には制限が加えられているの。転びそうになっても転ばないし、屋上から身投げしようとしても身を乗り出した時点で停止するし、誰かが誰かの頭を殴ろうとしても頭に当たる寸前で動きが止まってしまうってわけ。
「しかも行動制限はケガだけじゃないんだよなあ」
誰かが誰かの上履きを隠そうとすると、全身の動きが停止して上履きを手放すまで硬直したままになるし、こっそり財布を盗もうとしても盗めないし、スカートをめくろうとしてもめくれない。相手を不快にする言葉も行動も強制的に禁止されてしまうの。それがこの仮想世界の秩序維持システム。
「平和だなあ」
幽霊になって350年。ずっと学校の中で暮らしてきたわけだけど、これほど波風立たない学園生活は初めて。
だけど時々気持ち悪くなるんだ。映像はリアルなのに言葉も行動も不自然過ぎるんだもん。生徒や先生たちは人の形をしているけど人じゃないように思えてくる。お化け屋敷に迷い込んだような感じ。
「そしてあたしにはこのシステムは働かないのよね」
あたしは悪口言い放題。殴ったり蹴ったりも好き勝手にできる。と言っても誰にも聞こえないし、手も足も空振りするから全然意味がないんだけど、むしろ自分の方がよっぽど人らしいと思える時もあるんだ。
「さようなら。また明日」
今日の授業が終わった。生徒たちは教室を出ていく。あたしも出る。校舎を出て校庭を歩き校門を出た瞬間、生徒の姿は消える。全ての生徒がそうだ。ログアウトして現実世界に戻ったのだ。そしてこの仮想世界は無人になる。
「出ろ!」
あたしはどこからでも外に出られる。戻る場所は入った時と同じ、中央管理室のディスプレイの前。センターの壁をすり抜けて外へ出ると西の空が夕焼けに染まり始めていた。どんなに人間社会が変わってもこの夕焼けだけは変わらない。350年間、ずっと同じだ。
「現実の生徒たちに会ってみたいなあ」
それはもう叶わぬ夢だ。生徒は登校して来ない。生徒どころか人に会うことすらめったにないのだ。物流が高度に発展した結果、ほとんどの用事は在宅のままで済ませられる。道路を走るのは無人の配達車ばかり。あたしは欅の木の切り株に身を寄せる。
「おまえが残っていてくれてよかったよ。今晩も一緒に寝よう」
そしてあたしの1日が終わるのだ。
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