【1章 - 4】これが、この世界の必勝法


 翌朝、午前八時の定例チャイムが校内に響き渡る頃に、佐藤竹寿は一年四組の教室についた。カーテンが揺らめく室内に、人影はまだ少ない。

 そんな中、関西弁の挨拶あいさつが耳に入った。

「あ、早いなー佐藤くん」

 見れば、金子が廊下側の席でノートと電子辞書を広げている。

 昨日の今日だ、少なからず胸がざわつく。それでも顔には平静を保って、尋ねた。

「お前、何やってるんだ? そこは糀谷の席だろ?」

「何て、英文法の授業で当たるとこの日本語訳に決まっとるやん、なぁ読者のみんな!」

「……どっち向いてるんだ金子。そっちは外だぞ」

 佐藤のツッコミにも金子は特に意に介さず、佐藤を見返した。

「ほんまは昨日やるつもりやったや。けど家ん鍵忘れてもてな。おまけに夜遅うに家入ったら、東くんとLINEして、そのまま寝落ちしてもたんや、自分アホやわぁ」

「……なるほど」

 道理で、あんな時間でもスタバにいたわけだ。何をしていたかまでは知れないが。

「やけど、もえちゃんに教えてもらおう思とったのに、今日はお休みらしいんや。残念やな」

「へぇ、糀谷が休み?」と佐藤は背中のバッグを背負いなおす。「最近やけに休むな」

「せやなー、夏休み明けくらいからやろか」と金子も少し首をひねった。「毎日塾で忙しい言うとったし、疲れてるんとちゃう? 知らんけど」

「知らないのに言うなよ」佐藤は肩をすくめる。

「せやっ、代わりに佐藤くん勉強教えてーな」

「俺は糀谷の代わりか」佐藤は首を横に振る。「教わってばっかじゃ身につかないぞ」

「むぅ、佐藤くんのケチ」金子が唇をとがらせる。「そんなやから、うちにフラれるんやで」

「いつの話だよ、二年半前のことをいきなり持ち出してくんな」

 佐藤はげんなりして、金子に背を向けた。

「ほんま、あんときはおもろかったわ」と金子は一人勝手に続ける。「中二で転校したその日にコクってくんねんもん。そのくせ、ウチやなくて、ウチのあの長々しかった髪のほうに目が行ってるんやもんな。一目でこれはおかしい思たわ。ほんで、いったん返事保留にして、帰る脚でそのまま髪バッサリしてきたら、次の日、案の定動揺しとるんやもんなぁ」

「おい、皆まで語んなよ」

 佐藤は自席にどっかと腰を下ろした。まったく、聞けば笑い話でも、当事者には一・二を争う黒歴史なのだ。おかげで当時から同級だった中谷優などからは、今も忌避される始末だ。

「ま、過去の話はそんくらいにしてや」と金子。見れば、二枚貝のアクセサリーが付いたシャーペンを構えていた。「勉強教えてくれへんのやったら、別のこと教えてーや」

「別のことって、何だ?」

「東くんのことやんか、当たり前やろ」

「当たり前じゃねぇよな。てか、付き合ってんなら本人に聞けよ」

「やって、東くんってあんまり自分のことんなるとしゃべりたがらんのよ。うちは、あの陽気でおもしろくってかわいい趣味を持ってる東くんのこと知りたい思て、コクったのになぁ」

 こっちもこっちで惚気かと、佐藤はげんなりする。

 だが、無視しても絡み方が面倒なものになるだけなのは、二年半前の教訓だ。

「……俺もあいつのことはそんなに知ってるわけじゃないぜ。小学校と、あと地元の剣道クラブで一緒だったけど、学校のクラスは違うことが多かった。それに中学は別々だったし」

「それでもええよ」と金子は無邪気な笑みを崩さない。「佐藤くん的に東くんてどんな人や?」

「よく分からん。話も大して合わなかったしな、趣味が違いすぎた」

「へぇ、どんな趣味やったん? やっぱりそんときからアクセサリーづくり?」

「それは中学からで、従姉に教わったらしいぞ。じゃなくて……」

「おはよう一年四組の諸君!」

 教室に大音声おんじょうの挨拶が響いた。

 二人が同時に見返ると、入口で東が敬礼している。

 そして、すぐさまお付き合いの相手に「おはよう金子ちゃん」ととろけた表情を向ける。

「あ、ちょーどええとこに来たやん、東くん」と金子も体ごと向き直る。「ねぇ、東くんの小さい頃の趣味って何なん? 今その話を佐藤くんに訊いとったんやー」

「えっ、いや、それは……」

 途端、東は表情を固まらせ、返答に窮する。一瞬の沈黙の合間を朝の風が吹きすぎる。

「おはよう」「おはー、みっちゃん」

 古島と中谷が入室してきて、金子が笑顔を東から友人らのほうに向け変えた。

「おはよっ、英文法のやった?」

「あぁ、やってない」「マジで? 早くやんなよ」

 女子三人が欠席の糀谷の席を囲むのを尻目に、東は足音を立てぬように退散してきた。

 即座に、佐藤が歩み寄り、その肩をつかむ。

「おい東、金子になにか隠してるだろ?」

「は、いきなりなんの話だ?」

 聞き返してくる東は声は、わざとらしく抑えめだった。それだけで佐藤は確信する。

「金子に言われたぜ、お前はあまり自分のことを話したがらないって」

「だから、なんだよ?」

「お前、鉄道趣味のこと秘密にしてるのか?」

 東が一切の動作を止めた。それから目を伏せる。

 佐藤の知る小学校時代の東翔兵といえば、ことあるごとに鉄道趣味をひけらかしてくるガキだった。こっちが知りもしない知識をさんざん話されるので、心底ウザかった。

「……だってよ」と東はようやく口を開いた。「どうせ佐藤みたいに、だれにも理解されやしないんだ。正直あの頃のことは、今でもトラウマになってるんだぜ」

「その件に関しては、過去の俺から謝罪しておく」肩を掴んでいた手をどける。「けどよ、付き合ってる相手にくらい、ちゃんと教えてやったら良いじゃねぇか」

「佐藤は分かってないな。さすがは、自分の性癖を隠さない男の言うことだ」

「何の話だ?」と佐藤は眉を顰める。「嘘は言ってないだろ」と東はしたり顔。

「あのな佐藤、人間は社会的な生き物さ。うまい具合に自分をつくろって社会に溶け込む、そうしてようやく生きられるんだ。自分に負けて世間に勝つ、これがこの世界の必勝法だぜ」

 例えばこのアクセ、と東は自身のスクールバッグに付けてある星形のキーチェーンを掌に載せる。青や紫、銀色など、複雑な色味の砂やラメが絡み合ってキラキラしている。

「これだって、元をたどれば鉄道模型ジオラマの技術さ、地面に土やバラストや草の色の砂を撒く方法を応用した。それだけでも女の子との話のきっかけになったし、現にあんなかわいい女の子から付き合ってなんて言ってもらえたんだ。いやぁ、あのときは冗談かと思ったが……」

「あーはいはい、分かった分かった」

 東が惚気に走りかけたので、佐藤は早々に背を向けた。気づけば予鈴も鳴りそうな時間だ。

「そういうわけだからな」と東は勝手に後を追ってきて続ける。「間違ってもスマホにきれいな髪の子の隠し撮りなんか残してるんじゃねぇぞ、湯島先輩みたいに」

「隠し撮るくらいなら、土下座して頼み込むわ。……って、先輩がどうかしたのか?」

 振り向いた佐藤に、東は含み笑いとともに身を寄せてくる。制汗剤の臭いが鼻についた。

「最近な、ひそかに噂になってるんだよ。先輩のケーターの待受がすごいって。何でも、たまたま部室で転た寝うたたねしてた先輩の落としたケータイを拾った奴が見ちまったらしい」

「焦らすな」と、東の脇腹を小突く。

「これがな……、こよりちゃんのパジャマ姿なんだとよ」

「は?」

 佐藤は眉を顰める。東はさらに口角を上げた。

「それも、おへそも見えそうな危ういスナップショット」

「なんだそれ……、シスコンかよ」

「まさにそれだぜ。思えば、お前が先輩に嫌われたのも、お前がこよりちゃんに言い寄ったせいなんじゃねぇか? にしても、あの何かとキツい先輩がシスコンなんてな、くく……」

 思い出し笑いに口角を震わせる東。

 だが、佐藤は笑うことが出来なかった。

 奥歯をかみしめる。腹の底から、感情が沸き上がってくる。

 湧き上がると呼ぶにふさわしい勢いを、佐藤は確かに感じたのだ。

 名を与えるなら――それは、憤り。

 自分を変態だと断じた、自身も大概な変態だろう先輩に対する、苛立たしき感情。

「……アンフェアだぜ」

 佐藤の呟きが、予鈴のチャイムと重なった。

 


 放課となった瞬間、佐藤は今日一日で何十とダメにしてきたシャー芯をすべて床にまき散らかして、席を立った。結局、金子に見とがめられて床掃除をさせられる羽目にはなったが、それも手早く済ませて教室を飛び出した。

 そして、天文観測室までを一気に駆け抜けて、勢いそのままにドアも暗幕も開け放った。

「きゃっ!」

 短い悲鳴が耳に刺さり、佐藤の勢いが止まる。

 見れば、上半身裸の海場之也が半身でこちらに振り向いている。日焼けはおろか血色すら感じさせない白い肌に、さらに純白のブラジャーをつけた姿はどこか神々しい。

 が、首から上は、スキンヘッドすらも赤くなりそうなくらいの羞恥の表情を浮かべている。

「い、今ね、みんな着替え中なの。だから、外で待ってて……」

「お、おう、すまん!」

 佐藤は慌てて後退し、暗幕とドアを閉じた。

 心臓が嫌に高鳴っている。剣道部の男どもとはまるで違うのだ。

 佐藤は天文観測室を背に腰を下ろした。正面にはさっき上がってきた階段とエレベーターが目に入る。だれが何を運んでいるのか、階数表示のランプが一階と二階の間を往復している。

 それを見るとも無しに見ている内に、一瞬だけ忘れていた感情の沸騰を再び思い出した。別の意味で拍動が激しく時を刻み、階下から聞こえてくるティンパニとシンクロする。

 そう、佐藤はこの煮えたぎるような憤懣をどう処するかについて、今日丸々考え続けてきた。

 こっちは髪フェチの変態と指さされて、結果、部活を去った身である。ならば相手だって、変態たる証拠をひけらかされて笑われるくらいのことがなければ、いかにもアンフェアだ。

 だが、湯島先輩は他人に厳しいだけに、自分の持ち物についても管理は徹底している。鍵付きのロッカーを愛用しているし、部室の施錠も怠らない。証拠が手に入る偶然を期待しても、時の流れを待つ余裕は今の佐藤にはない。

 ならば待つことなどしない。こちらから突き進むだけだ。それでこそ佐藤竹寿というものだ。

 とはいえ人の着替えばかりは待つほかない。そのくらいの常識は持ち合わせているつもりだ。

 数十分ほどしてエレベーターが動かなくなる頃、天文観測室のドアがゆっくりと開けられた。

「お待たせ、入って良いよ」

 振り向くと、華奢きゃしゃな体つきの少女がドア口から身を乗り出している。肩にリボンのあしらわれたキャミワンピースがいかにもフェミニンだ。存分に露出している肩や腕も、陶器のようにすべすべとした肌が健康的に目に映る。

 さらには、顔の輪郭に沿って丸みを描いているボブカットの髪。光を受けて、虹色にきらめいているようだ。少女がこくんと首を傾げるのにあわせて、左半分が重力に引かれ下へ流れる。さらさらと、せせらぎのような音すら聞こえた気がした。

「かぐやちゃん?」

「……あ、あぁ、ユキか」

 佐藤はようやく我に返って、その正体を見破った。海場之也がうれしそうに頬を緩める。

「今、見とれてたでしょ?」

「いや。だれだこの可愛すぎる子は、だれかの妹か? みたいに思ってた」

「えへへ、それを見とれてるって言うんだ。女装するものにとっては最高のお褒めだね」

 海場がいっそうはにかむ。照れと自信が透いて見える。そういえば、湯島こよりに佐藤が言い寄ったとき、彼女も『この髪、好きなんよ』と言いながら似た表情をしていた。

「……で、いったい何しに来たのかしら、痴漢未遂の佐藤竹寿くん?」

 教室内から、やけに気に障る言い回しが聞こえてきた。佐藤が表情を渋らせて中を覗けば、黒を基調にしたドレス風衣装に眼帯や包帯を装備したツインテール女子が仁王立ちしていた。いかにも佐藤に最後の敷居をまたがせないと言わんばかりの立ち姿だ。

「メ、メアリちゃん」と海場が彼女に呼びかける。「そんな言い方しなくても」

「そうね、言い方を間違えたわ。痴漢現行犯の佐藤くん、が正解ね」

 佐藤は思わずムッとする。どうやらコイツ、昨日の【ゾンビ】であるらしい。黒々としたツインテールは、形としての愛らしさの一方で、どこかおぞましい色彩を放っている。少なからず毛の跳ねや癖が目につくせいで、色艶いろつやが見受けられないせいかもしれない。

「……お前さぁ」佐藤は【メアリ】の、あまり高さの変わらない片目をにらみ返す。「お遣い頼んだくせに、勝手に帰るなよ。二人で手分けして飲んだんだぜ、あのカボチャ」

「だって、バレないんだったら女装させた意味ないじゃん。わらってやることもできないし」

「こいつ……」

「まぁまぁ、二人とも」海場が間に入ってきた。「それにねメアリちゃん、あれはぼくが勝手に飛び出しただけなの。かぐやちゃんは悪くないから、分かってあげて」

「……ま、仕方ないわね、ユキがそう言うんじゃ」と【メアリ】がお手上げのポーズを取る。

「だが、こいつの入部まで認めたわけじゃない」

 唐突に部長の声が割り込んできた。教室の奥、窓辺の椅子に腰掛けて手鏡を見ている。目元を覆うような前髪を持ち上げつつ、自分の肌の様子を確認しているようだ。

「ここは、秘密の変装部だ。誰彼と無く出入りを許可するわけにはいかない。ここはお遊びだけで変装やってる場所じゃない」

「ぶ、部長さん……」

「部長の言う通りね」と【メアリ】も首肯する。「ここにいる三人は、それぞれにちゃんとした目的意識を持って変装をやってるのよ。果たして佐藤くんには、以前の自分を滅してまでやってみたい何かがあるのかしら?」

「メ、メアリちゃんまで……」

 海場が肩を落とし気味に、視線をおどおどさせている。それから、佐藤のほうに不安げな、また申し訳なさそうな目を向けてくる。

 対する佐藤は、むしろ胸を張った。

「やりたいことなら、あるぜ」

「へえ? 何かしら?」と、【メアリ】が左眉だけを器用に上げて問う。

「意趣返しだ」

「意趣返し……仕返しってこと?」海場が首を傾げ、さらさらの髪を揺らす。

 佐藤は湯島先輩のシスコン疑惑について語った。自分を一方的に変態扱いして嫌がらせを生んだその相手も、実は大概な変態であるなんて、いかにもアンフェアな話だ、と。

「ふん、馬鹿馬鹿しい」

 直後に部長がそう吐き捨てる。

「人間だれを好きになろうが、第一自由だろ。同性愛や両性愛の人は少なくないし、新聞の人間相談には担任教師への恋慕を訴える女子学生からの投書もあった。ボヴァリー夫人もアンナ・カレーニナも、人間存在が制度では縛り得ない好例だ」

「部長は言い回しがいちいち大仰ね。まぁ分からなくもないけど」

 そう応じたのは【メアリ】だ。部長は口をつぐみ、傍らの文庫本を手に取った。

「そういうお前はどうなんだ?」

 佐藤は【メアリ】に視線を向け尋ねた。【メアリ】が左目だけで見返してくる。

「そうね、さすがにパジャマ姿のスナップショットとか、なんか気持ち悪いわ。でもそれ使って仕返ししようったって、その写真を手に入れることはできないんでしょ?」

「先輩は厳しい性格だって言ってたよね」と海場が口を挟む。「持ち物管理もうるさいって」

「あぁ、そうだ」と佐藤も首肯。「けどな、俺の経験則から言えば、それっぽいことをちょっと大げさにやっちまえば、後は勝手に尾っぽが付いてくる」

「それを言うなら尾ひれでしょ」と【メアリ】。「ま、大体分かってきたけど、つまり?」

 つまり、と佐藤は一瞬間を持たす。自分でも、口角が緩んでいるのが分かった。

「俺たちが【先輩】に変装して、偽のデート写真をでっち上げる。で、それを部室にばらまく」

 やっぱりねと【メアリ】がつぶやき、海場は数度瞬きした。部長はやはり動きを見せない。

 証拠がないからと機会を待つくらいなら、こっちから証拠を仕立て上げれば良いのだ。それが佐藤の思いついた策だった。幸いに、今の佐藤にはそれができるだけの技量を持った人間が周りにいる。第一、ありもしない証拠を捏造して云々は、昨日こいつらがやったことだ。

「それで、どうだ」と佐藤は目の前の二人に問う。「手伝ってくれるか?」

「あいにくと、あんたのお遊びに付き合ってる暇はないわ」

 【メアリ】は肩をすくめて、そう言い切った。佐藤は思わず眉を顰める。

「……と言いたいけど」彼女が続ける。「さすがにそんな気持ち悪い男には、一女子としておきゅうを据えておかないとね。少しくらいなら、手伝ってもいいわ」

「初めからそう言えよ」

「ついでにタネも割れて、あんたにまで火の粉が降りかかればおんの字ね」

 佐藤は自分の顔がどんな表情をしたか知らないが、【メアリ】はこちらを見て「冗談よ」と澄ましている。まるで冗談に思えないのだが。

「けど、わたしにできるのはメイクくらいよ。もう一つのほうは適任者に頼みなさい」

「分かってるさ」佐藤は視線をもう一人の部員に向ける。「ユキはどうだ、手伝ってくれるか?」

「ぼくは、反対かな」

 海場は佐藤の目をじっと見たまま、そう無表情に口にした。佐藤は小さく息を吸う。

「だって、自分たちの行いで誰かが傷つくことは絶対なんでしょ。それってやっぱり悪いことだし、ぼくはイヤだな。いくら相手が先に悪いことをしたからと言って、それでこっちも悪いことしちゃったら、どっちもどっちになるんじゃない? かぐやちゃんはアンフェアだって憤ってるのかも知れないけど、世の中アンフェアなことばっかりなのが真相だよ」

 正論だな、と佐藤は息を吐く。すべてのアンフェアをアンフェアと糾弾してもキリが無いのは佐藤とて自認している。薄々予感はしていたが、やはりいい子の海場には通じなかったか。

 佐藤は後頭部を掻いて、「そう言われちゃ仕方ないか」と呟く。諦めるには本心が赦さないが、策が潰えた以上何をすることもできない。

「……勘違いしないでほしいな」

 海場の声に、佐藤は視線を戻す。ボブカットの下で不服そうな表情が佐藤を見つめていた。

「確かにやろうとしてることには反対だけど、ぼくはやらないとは一つも言ってないからね」

「え?」

「だって、昨日かぐやちゃんが剣道辞めちゃったって話してたとき、気づいてなかったかもしれないけど、すごく悔しそうな顔してたよ」

 佐藤は思わず自分の顔に手を当てた。今の自分が心外な顔をしているのが知れた。

「人から変だって後ろ指さされて、なのにこっちは我慢して泣き寝入りしろなんて、実際できない。少しくらい指さし返したい、おんなじ傷を負わせてやりたいって、そういうかぐやちゃんの気持ち、ちょっとは分かるよ。ぼくも、こういうなりなわけだしさ」

 海場が肩紐をそっと直して、だから、と小さく笑う。

「微力かも知れないけど、手伝わせてよ。もちろん、ほどほどにだけどね」

「あぁ、分かってるさ」と佐藤も口角を力強く上げる。「ありがとな、恩に着るぜ」

 奥のほうで部長がひとり、長い溜息を漏らした。

 

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