【3章 - 7】失われた過去を想って


 出迎えの準備のために、佐藤は一足早く自宅に戻った。

 紅が群青に塗りつぶされた十七時頃、ようやく海場と山田がやってきた。暖色の照明が彩る店内にカウベルが軽やかに響く。

「いらっしゃい」と、佐藤はキッチンから声をかけた。

「お邪魔しまーす。わぁ、おもむきのある喫茶店だね」

 長髪女子姿の海場が店内を見回しながら言う。毛先が右に左にと揺れて、本当に一介の女子高生がはしゃぐ姿そのものだ。

 後に続く茶色ショートヘアの山田も少し顔を上げて視線を巡らせ、しかしすぐに伏せてしまう。借りてきた獅子も、もしかしたら初めのうちはこんな姿を見せるのかもしれない。

「二人ともお疲れー」

 カウンター席にいた糀谷が振り向いて挨拶した。ユキが気づいて、小さく手を振る。

「萌美ちゃんも来てたんだ」

「そ。部長の秘密が明かされるから来いって」糀谷が肩をすくめる。「なんか良いように使われてるよ、わたし。一緒にストーカーを追ったと思ったら、今日のお昼は『この動画を友人に見せてこい』って不思議なダンス動画のURL送りつけられてさ」

「うるさい」と佐藤が口を挟んだ。「まぁ、ユキも部長もどうぞ」

 佐藤に促され、二人もカウンター席に着いた。キッチンの側より見て、左から糀谷・海場・山田の順。海場が糀谷の前にあるカップに気づいて、「もう頂いたの?」と尋ねる。

「こいつが淹れたセイロンティー。どうせティーバッグだけど」

「それしか教わってないだけだ」と佐藤。「それでもちゃんとやればおいしく仕上がるんだよ」

「じゃぁ、せっかくだから佐藤くんの淹れた紅茶が飲みたいな。大丈夫?」

 佐藤は任せろと腕まくりし、やかんに勢いよく水を注ぎだした。

 湯を火にかけている間に、四つのティーバッグを箱から出し、カップの傍らに置く。

「ティーバッグは、後からお湯に浸した方が良いんだ」

 佐藤の説明に、頷いたのは海場だけだった。糀谷は一杯目の紅茶を飲み干し、山田はカウンターテーブルの上に置いた手の指先を組んだり解いたりしている。

 妙な沈黙が場に広がる。時計が一つ針を進め、家鳴りのような音が小さく響いた。

 佐藤は、あえて自分からは話を切り出さないと決めていた。本当なら真っ先に口を出したいのだが、糀谷にストップをかけられているのだ。あんまり暴走するな、と。

 だから、お湯がボコボコと音を立てて沸き、それをカップに注いでティーバッグを沈めるまで、ずっとそれらの作業に集中していた。

 一度沈んだティーバッグが浮かんできたところで、受け皿を使って蓋をし、二分の砂時計を返す。こうして蒸らすのがコツだと説くと、海場がひとしきり頷いていた。

「ユキは紅茶とか、家で飲むのか?」と佐藤は尋ねた。

「嗜好品自体あんまり口にはしないけど、どちらかといえば紅茶派かな。寒い日とか風邪ひいたときとか、よくお母さんがチャイを作ってくれたよ」

「チャイって?」糀谷が首を傾げた。

「ミルクティーみたいなもんだ」と佐藤。「水とミルクで茶葉を煮出すのが特徴で、本場のインドではスパイスを入れたりなんかもする。うちもそろそろ季節限定メニューで出すぞ」

「へぇ、そうなんだ。わたしは紅茶そんなに飲まないからなぁ」

「じゃぁ、萌美ちゃんはコーヒー派?」

「家族は断然コーヒー派だし、わたしも少しは。でもカフェインは結局体を冷やすことになるから、あまり好みじゃないのよね。部長は?」

 糀谷が身を乗り出すようにして、海場の向こうにいる山田に質問を投げた。しかし、山田は答えることをしなかった。またも、沈黙が場を覆う。

 その間に砂時計がすべての砂を落としきった。佐藤は受け皿を取って、それぞれのティーバッグを掬い上げた。カップをソーサーに乗せて、砂糖とミルクと一緒に供する。

「はい、お待ちどうさま」

「わぁ、良い香り」

 またしても海場が素直な感想を口にする。いちいち反応がかわいい。

 海場はストレートのまま静かに口へ運んだ。糀谷は、砂糖とミルクを注いだ。佐藤もそのふくよかな香味だけをとりあえず楽しむ。

「……はぁ、すっきり飲みやすいね」と海場。「なんだか落ち着く」

「雑味の少ないのがセイロンの特徴だからな」

 そうなんだ、と海場がカップを静かにソーサーに戻した。

「……マドレーヌはないのか?」

 唐突に、それまで黙り込んでいた山田が呟いた。

 三人同時に視線を転じる。山田はその目を湯気立ち上がる琥珀色の水面に向けている。

「人に過去の記憶を語らせようというのに、紅茶にマドレーヌを添えぬとは、興が冷める」

「出そうと思えば、出せますけど」と佐藤は戸棚に手を伸ばす。

「……気にするな、ただの戯言だ」

 山田が静かにカップを持ち上げる。味わうためのなのか口を湿らすためなのか、ほんの少し傾けるだけですぐにカップを置いた。

「それで、何を聞きたいんだ?」

 山田が上目遣いで佐藤を睨んでくる。形ばかりは強いのに、弱さを覚える視線だった。

 佐藤も近くのスツールを引き寄せてきて、腰を落ち着ける。そして視線を正面に受け止めた。

「……なぜハロウィンに、過去と同じタトゥーをデザインしたのか。なぜ五年前から髪型を変えてこなかったのか。過去を知られたくないというのに、それはおかしなことです」

 三人の視線は、すべて山田一人に向かっている。山田の目が再び伏せられた。

「ですが、そこに本心が隠れているのだとしたら? そうする理由があるのだとしたら?」

 部長、と呼びかけ、つばを呑む。

「……本当はずっと、気づいて欲しかったんじゃ無いんですか? 自分の居場所を、自分がここにいるということを」

 だれに、とはあえて言わない。佐藤は口をつぐんだ。

 海場が肩をすぼめる。糀谷は右の上腕に左手を添える。

 吊り照明が空調の風を受けてわずかに揺らぎ、光が瞬いた。

 山田が長く息を吐きだす。琥珀色の水面が揺れた。

「……そういえば、今日は誕生日だったか」

「えっ、そうなんですか?」

 海場が頓狂な声を上げた。慌てた様子で「おめでとうございます」と付け加える。

「てっきり春頃の生まれなんだと思ってました」と糀谷も目を丸くしている。佐藤も「け、ケーキなんかあったか?」と冷蔵庫の扉を慌てて開けた。

「気にするな。何もいらない」山田が三人に流し目を向ける。「それに、誤解も慣れている。だれにも知られ愛される存在でいてほしいとか、そんな理由だけでこの名を持たされた宿命だ。もっとも今は、無難なこの名前も悪くはない」

 山田は視線をテーブルのほうに戻し、カップを両手で包み込んだ。佐藤は冷蔵庫を閉める。

「この十八年、何もかもを他人に決められてきた。……母の夢を押しつけられ、仕事をさせられ、そして父の決めつけで東京を去った。何一つとして、あたし自身の出る幕は無かった」

 だけれども、と山田はゆっくりとその語を発音した。

「あの人への想いだけは、間違いなくあたし自身のものだった。新しい世界を教えてくれたうれしさも、時折見せる疲れた表情への愛おしさも、本当はいけないはずだっていう後ろめたさも、それでも抑えることの出来ない恋しさも、全部……」

 一つ一つ、かみしめながら山田は語る。感情のそれぞれに間違いのない名を与えるように。

「全部、……そう、あたしだって」

 カップをぎゅっと握りこむ。


「あたしだって、津久井さんに本気だった!」


 悲壮の色濃い声の響きが、それぞれの耳と木目調の店内へと浸透する。

 その激白は、どちらかと言えば懺悔であるように、佐藤には聞こえた。

 山田は一つ二つ呼吸をしてから、紅茶をまた口に運ぶ。

「……だけど、それがスキャンダルだって騒がれたとき、津久井さんだけが加害者にされた。津久井さんだけが一方的に罪をかぶせられ、あたしには何のとがめも無かった。ただ、父に連れられて、東京から逃げ出しただけだった」

 山田の声が潤む。家の木材が、またもきしんだ。

「あたしのせいでって、ずっと罪悪感を抱いてきた。あたしのせいで、津久井さんは仕事を失った。あたしこそ罪をかぶるべきなんだって……。それからは、これ以上津久井さんに迷惑をかけるわけにはいかない、スキャンダルのことを知られるわけには、って思い続けていた」

「……だから、変装して、本当の自分を隠そうとしたんですね」

 海場がやわらかな声音で問うた。山田が小さく頷く。

「……素顔を変えなかったのは」と糀谷。「時間が過ぎても、会いたいって思ってたから?」

 もう一度、山田は頷く。手の中の紅茶が、その水面をわずかに揺らした。

「会って、謝りたかった。それで済むなんて思ってないけど、それでも謝りたかった……。今でも、謝りたいって思ってる」

 だけど、と山田が佐藤の顔色を窺うように目線だけを上げた。

「もう、帰っちゃったんだよな、東京に」

 佐藤がどうとも反応せぬ間に、山田は再び俯いてしまう。小さく自嘲が聞こえた。

「何やってんだろうな。いざってなったら、のうのうとしてる自分を恥じて、怖じ気づいて。謝りたいのに、会いたいのに、面と向かいあうのが、申し訳なくて、怖くて……」

 山田の肩が震える。他の三人は互いに顔を見合わせる。

 静かな空間に、何の物音も――

 直後、ガララッと開扉の音。山田が顔を上げる。

 縄暖簾の向こうから現れた男は、そのままホールの方にやってきた。

 そして、山田の前に立つ。

「……さくらさん」

「っ!」

 山田が息を呑む。目を見開く。

 唇の間から、男の名が漏れ出る。

「つ、津久井、さん……」



 しばらく、二人して見つめあっていた。それを三人も後ろから見ている。

「……な、なんでここにいるんですか?」と山田が声を震わせながら訊く。「今日中には、東京に帰らなきゃいけないって、言ってたんじゃ……」

「あれは俺の誤解です」口を挟んだのは佐藤だ。「確かに昨日『明日には東京へ帰る』って言われて、俺は『明日』のうちに東京に着かなきゃいけないって思ってましたけど」

「本当は違ったんだよね」と糀谷。「『明日』のうちに東京へ向けて出発すれば良いってこと。別に今日の昼中のうちに帰京してなきゃいけないんじゃなかったの」

「つまりね」と海場。「例えば、最終の新幹線で帰るのとかでも問題なかったってことなんだ」

 答える三人に、山田は順に視線を巡らせた。次第に顔が赤くなり、目尻も吊り上がっていく。

「お、お前ら、揃ってあたしを騙したんだな……!」

「だってぇ、さとーくんが黙ってろってゆーからぁ」

「お前も共犯だろうが!」

 佐藤の苦言に、糀谷が「てへ★」と舌を出す。海場が一人真面目に手を合わせて「ゴメンね」と謝っている。山田は口を開けてあれやこれやと動かす。何か罵声でも発しようとするかのようだが、結局声は出てこない。

「あの、さくらさん……」

 津久井が声をかける。山田がハッとしたように振り向いて、いすから下り立った。

 二人、視線を重ねる。時計が針を進め、湯気が静かにくゆり立つ。

 そして、津久井が膝を折った。

「さくらさん、本当にすまなかった!」

 突然の、額を床にこすりつけるような土下座に、山田は半歩後ずさる。

「俺が感情を抑えられなかったばっかりに、君をこんなにも苦しめてしまって、素顔も外に出せないようにしてしまった。その責任は僕にあるんだ、本当にすまなかった!」

「い、いえ、そんな……」

 山田の声がうわずり、毛先が跳ねるほどに狼狽えている。こんな姿は初めて見た、と佐藤がふと糀谷を見ると、口元を手で押さえている。

「あっ、あ、あたしこそ!」山田も腰を落として土下座する。「津久井さんに甘えてしまって、そのせいでスキャンダルなんてことになってしまって。も、申し訳ありません!」

「いや、僕のほうこそ本当にすまなかった!」

「いやいや、あたしのほうが!」

「いやいやいや、僕の!」

「違う、あたしの!」

「……ぷっ」

 糀谷が吹き出した。途端に大口開けて笑い始める。

「糀谷」佐藤が眉を顰める。「ここって笑うとこか?」

「ははっ、ゴメンゴメン……。だって土下座なんて、鉄板過ぎるでしょ? あははっ」

「不謹慎だよ、萌美ちゃん……」海場が糀谷の震える背中を撫でてやっている。

 ようやく顔を上げた山田と津久井が、ポカンととした目で三人を見上げる。それから顔を見合わせ、二人も小さく笑った。空間の厳粛だった雰囲気が一気に緩んだ。

「まぁ、せっかくですし」佐藤が四杯目の紅茶を津久井に差し出す。「ここはお二人で、紅茶でも飲みながら、ごゆっくりどうぞ」

「そうね、わたしたちは離れよっか」と糀谷がようやく笑いを収めて、席を立つ。「佐藤くん、ちょっと家にでも上げてよ」

「良かったです、本当に」と海場が目元を指で拭った。「奇跡みたいな誕生日だね、部長さん」

「お、おいちょっと待て。どこに行くつもりだ?」

 山田が慌てたように立ち上がる。津久井も遅れて腰を上げた。

「どこって、まぁ……」佐藤はエプロンを解こうとした手を止めた。「あっ、それこそマドレーヌかケーキでも焼いてきますよ。ここはいったんお二人の貸切ってことに……」

「か、貸切にして何をしろって言うんだ?」

 赤くなった鋭い目で山田は佐藤を睨む。佐藤は返答に窮した。

「ほ、ほら、例えば積もる話とかもあるでしょ? 五年も会えてなかったんだから」

「いや……」と津久井が山田を見下ろす。「そんなつもりはなかったんだけど」

「あたしも」と山田も津久井の方に視線をやる。「今謝ったわけだし、正直謝る以外にない」

「五年も経っちゃったからね。あの頃のような気持ちなんて、今はもうね」

「あの頃ほど互いに寄っかからなくても、なんとか一人で立てるようになってるし」

 佐藤と糀谷は互いに顔を見合わせた。海場が「じゃ、じゃぁ」と口を開く。

「今の心情をたとえるなら、津久井さんは?」

「ロミオ・モンタギューではいられない」

「部長さん?」

「ジュリエット・キャピュレットじゃあるまいし」

 一瞬の間。

「やだぁ、さとーくんったら。恋・愛・脳🖤」

「お前もホイホイ乗っかっただろうが!」

 糀谷の声芸と佐藤のツッコみが木目調の店内に反響する。海場がしきりに頭を下げる。

 山田は苦々しい表情を顔に浮かべ、津久井は頭を掻いた。

「……まぁ、なんですか」

 山田が溜息交じりに津久井へと向き直る。三人も口を閉ざした。

「こんな騒がしいやつらと、変装したり何だかんだやって、それでも、こう、生きてるんです」

 少し額のあたりの髪を分けて、それから津久井の目を見つめた。

「その、なんだ……、あんまり、心配しないでください」

「……そうか」

 津久井は簡潔に応じた。その目もやや赤くなっている。

 それから、あぁそうだ、と言って反転。一度暖簾の陰に引っ込み、何かを持ってくる。

「僕からの誕生日プレゼントと思って、用意してきたんだ」

 津久井がそのものを差し出す。白いマチ付きの封筒だ。下の方に『東京ステージアーツ総合学院』と書かれている。山田はそれを静かに受け取って、字面に目を留めている。

「これはなんですか?」と海場が代わりに訊ねた。

「僕の出身校の学校案内」と津久井。「お芝居とか舞台運営とか、それこそ特殊メイクについても勉強できる。あるいは、今も興味を持っているのなら進学先にどうだろうかと思って」

 それに、と津久井は別のものを胸ポケットから取り出した。佐藤にも渡した名刺だ。それを白い封筒の上に重ねる。

「執行猶予が明けたのを機に、知人の伝手つてでここの関連会社の事務職として働き始めたんだ。あまり表には立てないが、これからも舞台やドラマに近いところで働くことが出来そうだ。……それも、今日はせめて伝えたかった。僕もそれなりにやって行けそうだから」

「……そう」

 山田のリアクションはその呟きで尽きた。封筒と名刺に視線を固定したまま動かない。

 その様に津久井は少し首を傾げ、それから「あぁ、でも」と視線を泳がせる。

「こんなところに君が進学するなどと言ったら、君のお父さんは猛反対するだろうか」

「あぁ、間違いなく言われる」

 ようやく口を開いた山田の返答に、津久井が肩を落とす。三人も顔を見あわせる。

「……でも、あたしはもう小娘じゃない。十八の女だ」

 その声に、佐藤は視線を戻した。

 山田の横顔には、不敵な笑みが浮かんでいる。虎視眈々こしたんたんたる目つきを、手中の封筒から、それを差し出した人物に向けかえた。

「バカの一つ憶えじゃないが、ここからは自分で生きてやる。だれに何と言われてもな」

 津久井の顔にも、初めて笑みが出来た。

「そう言ってくれるなら、光栄だよ。東京で待ってるから」

「えぇ。墓穴はかあなを抜け出せたら、すぐにも行きます」

 どちらからともなく差し出された手を、互いに取り合う。力強い握手が交わされる。

 海場が目頭を押さえ、糀谷は静かにカップを傾ける。

 佐藤は、バカとは何だ、との苦言を飲み込んだ。



 四つのカップとソーサー、その他の洗い物一切を終えて、水道のレバーを下ろす。

 壁掛けの時計は、夜の七時を指そうとしている。窓の外はすっかり闇の色。

 布巾を手に取って、カップの水気を拭いていく。その指先がなんだかそわそわしている。かじかんだのにも似ているが、たぶん違う。緊張とか高揚とか、そういったものだ。

 佐藤は、ほんの一時間ちょっと前のことを回想していた。

 ――津久井は用件を済ますと、早々に喫茶店を後にした。山田は店外まで見送りに出て、最後に二人だけで少しばかり話し込んでいる様子だった。

 戻ってきたとき、山田の顔は少し赤らんでいた。

「良かったですね、部長さん」

 海場の声かけに、山田が小さく頷く。いつになく口元が緩んでいる。普段の鋭さからは想像もつかない、まさに年頃の乙女みたいな表情だった。

 それからきゅっと表情を引き締め、山田は三人に対しても頭を下げた。

「ストーカーに遭ってるとか嘘ついて、逃げるのにお前らを利用した。本当に、すまない」

「良いんすよ」

 おかわりを用意していた佐藤は首を振る。山田は身を起こし、元の席に腰を落ち着けた。

「けどやっぱり謝るのって大事なことだよね」糀谷が頬杖をついたまま悪戯っぽい笑みを浮かべる。「じゃ、せっかくだし謝罪タイムと行こっか、佐藤くん?」

「は、いきなりなんだよ」

「えー、だって謝らなきゃ行けないことがいっぱいあるんじゃないのー?」

「も、萌美ちゃん、ぼくはもう別に……」と海場が両手を振る。

「あら、ユキのことだけじゃないわよ。あたしの秘密を勝手にバラしてくれちゃったこととか、部長の私物を勝手に拝借したこととか、それから……」

「あぁ、分かった分かった。その節はどうも申し訳ございませんでした」

 カウンターに手をついて頭を下げる。ほんとにそう思ってるー? と糀谷がわらい、山田は三度頷く。海場はどうして良いのか分からないようで、「そ、そうだよ」と手を打ち合わせた。

「明日の【柏原】当番、どうするの?」

「あれ、決まってなかったのか?」

 佐藤がカップに湯を注ぎつつ問うた。

「もともと部長さんが行く予定だったんだけど」と海場が言う。「部長さんとぼくで地毛の話しに行ったら、先生に『ここのところ休みが多いけど大丈夫?』って訊ねられちゃって」

「さすがに今日の明日で休むのはマズいかもな」山田が前髪を分ける。「しかし、【柏原】にならないわけにもいかない。五限の化学で実験レポートを提出しなきゃいけないんだ。あの化け教師、提出が遅れても他人に預けても怒るんだよ、社会じゃそれは通じないとかなんとか」

 一理あるせいで否定できないのがな、と山田が首を振った。

「……わたしも、ちょっと」糀谷が腕をクロスさせる。「総合の時間、グループワークの発表なの。さすがに休んで迷惑かけられないわ」

「本当なら、ぼくが行ければ良いんだけど」と海場も顔を伏せ気味にしている。「明日は午後から病院に行くことになってるから」

 そうか、と砂時計をひっくり返した佐藤。直後、三人の視線が一斉に向けられた。

「……なんだ?」

「いや、消去法で佐藤くんしか残らないんだけど」

「いちおう変装部員だと言い張ってるしな」

 糀谷と山田の言に、目を瞬かせる佐藤。そして、海場が単刀直入に問うた。

「かぐやちゃん、【柏原】さんになってみる?」

 ――七時を告げる時計の音で、意識が引き戻された。水気の除かれたカップや諸々がキレイに並べられている。佐藤は一つ息を吐きだした。

 明日、佐藤が【柏原】となって二年二組に通うことがこうして決定した。否定するほどの事情もなかった。総合の発表も自分の番ではなく、聞いているだけなら、その場にいなくても構うまい。

 それに、あいつらの自己満足に付き合ったって良いと思うのだ。むしろ、自分の自己満足のためにさんざん付き合わせ、あるいは糀谷や山田の事情に首を突っ込んできたのを考えれば、その分のお返しをしなければアンフェアだ。

「……自己満足、な」

 佐藤は独りごちた。ドアの施錠を確認しにキッチンを出る。

 ――自分が満足するために生きているのだから、人がそれぞれの満足のために生きていくのを妨げてはいけない。

 言うのは単純だが、行うのは容易じゃない。自分の満足のために相手を傷つけてしまうこともある。佐藤にとってすれば、湯島先輩の退部などはその例だ。

 やはり謝罪しておくべきだろう。それも所詮は自己満足に過ぎないだろうが、アンフェアなままよりは、幾分かはまともになるはずだ。秘密の変装部のことは表に出せないが、それでも変な噂を流したのは俺ですとか、そうでも言って頭を下げよう。

 ドアのノブが回らないことを確認し、ふと顔を上げる。

 外の宵闇の世界に、ぼんやり人影がある。

 思わず半歩後ずさる。つばを一つ飲み込む。

 しかし、次には身を立て直し、解錠してドアを開ける。冷たい夜風が足下を過ぎる。

「湯島先輩」その影に呼びかけた。「どうしたんですか、こんなところで?」

 店内から漏れでるわずかな光を受けて、湯島宏大は拳を開き、また握る。

「……こ、こよりが……」

「こよりちゃんが?」

 震える声で、湯島が告げた。


「こよりが、いなくなった……」






【次回更新は、11/23(火)の予定です】

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