【4章 - 1】ドッペルゲンガーは生きていく
紅茶をテーブル席の
「……それで先輩」と佐藤、「こよりちゃんが、いなくなったって、どういうことですか?」
湯島宏大は頭を抱えたままで答えない。丸くなった背中がわずかに震えている。
だが、やがてコートの内ポケットからスマートフォンを差し出してきた。ピンクのカバーには、Fの文字の球団ロゴ。見覚えがある、確かこよりが持っていたスマートフォンだ。
「……開いてみろ」と湯島がか細い声で言った。「パスワードは、0819だ」
佐藤はスマホを起動させ、パスワードを解除。ふと、八月十九日が先輩の誕生日であることを思い出す。こよりが部に遊びに来た日でもあり、それを宣伝してはしゃいでいた。
画面が明るくなると同時に、メモアプリが開いた。短く言葉が刻まれている。
『もうわたしはいなくなります
わたしまでお兄ちゃんに迷惑かけられません
ゴメンなさい でも心配しないで
どうしてお兄ちゃんの妹に生まれてきたんだろう?』
ファイルの名前は『遺書』となっていた。
佐藤は顔を上げた。湯島はさっきまでと同じく
「……うちに帰ったら、そのスマホがテーブルにあった」
くぐもった鼻声、嗚咽の気配が混じっている。
「カバンとかファイターズのキャップとか、荷物は全部置いてあった。ただ、靴がなかったから、慌てて探し回って……、でも見つからなかったし、近くの駅の駅員も見てないらしい」
「け、警察には?」
「届は出した、けどそれだけでじっとしていられるわけがない! だって……遺書とか……」
先輩は急に声を大にしたり、次にはまた鼻声になったり。かなり不安定になっているらしい。
しかし、それも仕方ないのかもしれない。佐藤は手元のスマホに目を落とした。『遺書』と名のついたものが残っていて、本人が姿を消してしまったのだから。最悪の事態が頭によぎる。
それにしても、一点気になるところがある。
「……どうして、お兄ちゃんの妹に生まれてきたんだろう? ……どういうことでしょう?」
「それが、こよりの口癖だった」と宏大は小さく答える。「妹にさえ生まれてこなければ、お兄ちゃんと結婚できたのに、とよく言っていた」
佐藤は先輩を見、スマホの文字を見直し、また先輩に目を向けた。
「どういうことです?」
「こよりは、兄である俺のことが好きだったんだ。俺の部屋の片付けもしてくれたし、よく背中も洗ってくれたし、俺の汗の匂いが好きだと言ってくれた。……俺も、妹のこよりが何よりも大切だった。こよりの洗濯物をたたんでやったり、髪を乾かしてあげたり、誕生日に欲しがってた下着をプレゼントしたこともある」
「プ、プレゼントに、下着ですか?」
「あいつは遠慮がちだからな。一人でこっそり買ってきてやった。ずいぶん喜んでくれたよ」
佐藤は、どうリアクションをすれば良いのか分からなかった。笑えば良いのか、ツッコめば良いのか、蔑めば良いのか。
しかし、どんなリアクションも不適切な気がしたし、そんなことは意味を成さないだろうと思った。この兄妹は、大真面目に互いを兄妹以上の感情で愛しあっているのだ。そこにどんな目が注がれても、今さらその感情を覆すことは出来ない。
佐藤の髪フェチと、たぶん、似たようなものだ。
湯島が自嘲的に息を漏らす。
「けれど、この世の中で、俺たちのことを分かってくれる人間は、まずいない」
佐藤は盆を身に引きつけた。
「人に言わせれば、俺たちはシスコンにブラコンの変態だろう。俺たちにだって自覚はあった。だから、なるべくそれを隠してきたつもりだし、まぁ普通の
だがそれが露呈してしまった、と湯島が呟く。佐藤は、その発端が自分にあることを知っている。だが、謝ろうと考えていたことなど、すでに頭から吹き飛んでいた。
「俺は笑われた。それで居づらくなって、剣道は辞めた。まぁ、これだけで済んだとも今なら思える。しかし、こよりは……」
湯島が言葉を切る。刹那の沈黙を時計の針の音が横切った。
「……不気味、気持ち悪い、理解できない、人間としておかしい、付き合ってられない。こよりはLINEで、そしてクラスでも、そんな暴言を浴びせられたようだ」
佐藤はスマホを操作してみた。バックで起動していたLINEを見れば、確かにクラスのものだろうトーク画面にはひどい言葉が多く並んでいる。
「あいつはそれがショックで、けど俺に相談するのも迷惑だと思って、出来なかったんだろう。結果、家を飛び出してったんだ……。あぁ、俺は何やってるんだ、こんなところで!」
宏大がテーブルを拳で叩いた。茶器がガチャッと鳴る。
佐藤は、スマホの画面を見たまま動けなくなっていた。
暴言の数々に驚いていただけではない。
そこにアップロードされている写真のせいだ。
見覚えのある店内、ゲームコーナーの試遊台。【兄妹】の後ろ姿だけだが、身長差をインヒールスニーカーで作り出していることを、佐藤は知っている。
おまけに前後の文脈から、ホテルの方へ歩く【兄妹】の姿も目撃されていたというのだ。
つまり、なんだ?
――こよりの失踪もまた、自分たちのせいじゃないか。
呼吸すらままならない。手の内のものを落とさないようにするのが精一杯だ。
あくまでゆっくりとスマホをテーブルに戻す。しかし、最後でゴトッと音が立ってしまった。
先輩は、未だに顔を伏せていた。
「……なぁ佐藤、ドッペルゲンガーって知ってるか?」
「え……、いえ」
佐藤は泳いでいた視線を、かろうじて先輩のほうに留める。
「自分の分身みたいな瓜二つの存在が、あるとき目の前に現れる。それを見たものは、死を迎えるとされている」
「そ、それがどうしたんですか?」
佐藤は背中に冷や汗を感じながら問う。
「……俺な、一回見たんだよ、こよりと自分のドッペルゲンガーを。今思えば、こんな変なことになっていったのは、それからだ」
手が汗ばむ、膝が震える。今の自分が二本脚で立っているのが信じられなくなった。
それでいて、何一つ口から声が出せない。口の中がからからに渇き、ヒリヒリと痛む。
「いつの間に、俺たちは呪われちまったんだろうな……」
宏大がぽつりと呟いた。紅茶の湯気だけが、ゆっくりと立ち上がる。
夜が明けた。天の高いところを、積雲がスピードに乗って飛んでいく。
そんな空模様ほども晴れていない心を引きずって、それでも佐藤は学校へと足を運んだ。
吹奏楽部のロングトーンが始まるのを耳にしながら、天文観測室のドアを開ける。ウィッグとスプレーを持った海場が、そのスキンヘッドを振り向けるとほぼ同時に目を丸くする。
「どうしたの、かぐやちゃん? 目に
「たのしみすぎて寝れなかったのー? かわいーねー、さとーくんって」
糀谷は朝一からアニメ声を出す。ツーサイドアップもいつも通り完全だ。
「何でも良いから顔を洗え。準備を始める」
糀谷の傍らで、山田が腕組みをしてにらみつけてくる。茶髪の鋭さも健在だし、机に並べられた化粧品類からも周到さが目に見える。
佐藤は俯き加減にしばらく固まっていた。呼吸がしづらい。心臓がいつになく重く鳴る。
拳を、ぎゅっと握りこむ。
「……なぁ、こんなことやって、ほんと何になるんだよ」
悲痛めいた言葉は床を這うようにして広がる。震える拳を、自分の股にぶつける。
「こんなことやっても、余計に人を傷つけるだけじゃねぇか? 俺たちがドッペルゲンガーになって、柏原ってやつを何度も殺してるようなもんだろ!」
「いきなり何なの?」糀谷の引きつった声。「ドッペルゲンガー? 殺してる? 何の話よ?」
佐藤は勢いそのままに、湯島兄妹に起こったことを吐きだした。宏大の引退、こよりの失踪、そしてそれらが自分たちの行いのせいで引き起こされたのだということを。
口をついて言葉が出るたびに、怒りがこみ上げてきて、拳が震えた。自らの股を何度も叩く。
吐くものをすべて吐きだしても、三人はすぐには何も言わない、ただ黙りこくっている。
周りの何かを殴りつけたかった。けれど、佐藤の回りには舞い立つ
やがて、「……そ、そんなことが」と、海場がぽつりと呟いた。佐藤はようやく顔を上げる。胸の前で両手を組む海場の姿に、初めて息ができた。
が、糀谷と山田の表情は変わらない。
「……でも、わたしたちがやったことじゃないわ。それは、他の人の勝手と偶然のせいよ」
「それに、あたしたちにすればそれどころじゃない。今は柏原になることの方が重要だ」
二人の言いに、佐藤は再び呼吸を固まらせた。拳がまた震えだす。
「……な、なんだよそれ。お前ら薄情かよっ」
「じゃぁ訊くぞ、情に厚い佐藤竹寿」山田がにらみ返してくる。「今から、その失踪した湯島こよりを、お前は見つけ出すことが出来るのか?」
全身の振動が止まる。
「それが絶対可能だってのなら、あたしたちに構うな、探しに行け。何も化学の課題提出は今日だけじゃないだろうし、最悪あたしが柏原になる。ほら、行って見つけてこいよ」
「……む、無理だ。そんな、どこ行ったか見当もつかねぇのに」
佐藤は俯いて、唇の隙間からそう漏らした。山田がふんと鼻を鳴らす。だが、それ以上は何も続けなかった。
「ねぇ佐藤くん」今度は糀谷が口を開く。「確かに、佐藤くんの罪悪感は分からないわけじゃない。それが連帯責任だって言うのなら、わたしだって関係してたんだし」
だけどね、と糀谷は佐藤の肩に手を置いた。背に流された髪の毛先が、かすかに揺れた。
「部長が行ったとおり、わたしたちにその先輩たちの件はどうにも出来ないわ。それよりもわたしたちには、柏原さんのことの方がより大きいの。情があるのはどっちかって聞かれたら、間違いなく柏原さんのほうを選ぶ。そういうことだから、悪いんだけど……」
糀谷の言葉は半端なところで途切れた。それでも、佐藤はそれにどう返せば良いのか分からなかった。吹奏楽部のロングトーンは、留まるところを知らず続いている。
視線を海場のほうにスライドさせる。海場は、緩やかにその面を上げた。
「……かぐやちゃん。ハロウィンの時に、部長さんが言いかけてたこと、分かる?」
「え、ハロウィン?」唐突な話の振りに面食らう。
「そう。改めて訊くけど、仮装は?」
「仮装? ……あぁ、仮に装うってか」
「そう。じゃぁ、コスプレは?」
「コスチュームで、演じる、だったか?」
「うん。それじゃ、変装は?」
「装いを変える……」
海場が頷き、つまりね、とわずかな笑みを浮かべた。
「変装はね、仮のものではないし、それを演じるためのものでもない。変装したことによって、その人に本当になっちゃって、その人として生きることなんだ」
海場が歩み寄ってきて、佐藤の拳を取った。固く締められた指を一本ずつ開いていって、その中に小さな手を差しこむ。ひんやりとした温度が心地よい。
「さっき、ぼくたちが変装して彼女を殺してるんじゃないかって言ったよね? それはね、全然違うんだ。むしろ、柏原さんとして生きようとしてる。ぼくたちが柏原さんであろうとしつづける限り、柏原さんは絶対に死なない、生きつづけるんだよ」
佐藤は海場の顔に浮かぶ真剣な表情を見つめた。海場もその目を見つめ返しつづける。
「確かにぼくも、こよりさんがいなくなったのは辛いし、傷つけたんだって思うと心も痛む。だけど、だからといって何も出来ないんだったら、彼女のことは警察の人とかにお願いしようよ。そしてぼくたちは、せめて次のだれかを失わないようにしよう」
海場の微笑に痛みや苦しさがよぎる。佐藤はそれを確かに認めた。
冷たい風の匂いが鼻を刺す。季節はすっかり冬になっている。
「……そう、かもしれないな」
佐藤はようやく小さく頷いた。海場も一つ首を頷かせて、佐藤の手を離し一歩下がった。
「すまん」佐藤は頭を下げた。「ちょっと昨日のことに動揺してたみたいだ」
「謝罪会見なんて後で良いから」と糀谷があっけらかんと言う。
「さっさと準備するぞ、時間が無い」山田はあくまで冷たく言い切る。
海場は一人胸を押さえて深呼吸している。それから、にっこりと佐藤に微笑みかけた。
「よしっ」佐藤は自分の頬を両手で打った。「頼む!」
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