【4章 - 2】やはり教室で大声を出してはいけない



 本鈴の直前に、佐藤【柏原】は二年二組の教室前に到着した。

 廊下には教師らの姿も見え始めているのに、教室からは賑やかな声が漏れてきている。

 手汗が滲んでクリームと混じりあい、山田から渡された『坊っちゃん』の文庫本を落としそうだ。反対の手に持ち替え、スカートで手を拭う。

 細く長く息を吐きながら顔を上げると、廊下の隅に集まる三人が見えた。ちらと振り向いた山田と目が合う。糀谷と海場もその視線を追って、こちらに目を向けた。

 佐藤は頷く。どういう意味かは知らない。ただなんとなく、覚悟のようなものが決まった。

 教室に足を踏み入れる。黒長髪のウィッグが少しばかり揺れて、首筋をこする。

「あっ、柏原さんやっと来たっ!」

 途端、挨拶も無しに声が飛んできた。心音が一つとどろく。

 振り向けば、ミディアムボブヘアで背の高い女子が、割と間近にいた。思わず一歩身を引く。

「ねぇねぇ、柏原さん、来週カラオケ行こうよっ!」

 女子が一歩踏みだしてくる。毛先があちこちを向いているのは、寝癖が残っているせいか。ざっくばらんな性格らしいが、同時にその豪気な寝癖は、強引な性格をも表しているようだ。

 佐藤はまた一つ下がる。寝癖女子が一歩前に出てくる。彼女の頬の肌荒れが目についた。

「はい、泉は下がって」

 別の女子が寝癖女子を押しのけて姿を現した。ぽっちゃりした体型に、短い髪を一つにくくっている。バンダナにエプロンをすれば、お祭りでおでんか豚汁を振る舞っていそうな、そんなおかん感がある。

「正確に言うとね」と、おかん系女子が肩をすくめつつ言う。「来週ってテスト期間でしょ? だから、みんなで勉強会しようって話してたの。確かに、場所は駅前のカラオケだけど」

「ほら、やっぱカラオケじゃん!」と泉と言うらしい寝癖女子。「ねぇカラオケ行こむぐっ」

「はい、君は黙ってようねー」

 向こうの方で、泉が男子に口をふさがれていた。まるで女子の後ろから男子が抱きついているように見えて、佐藤はむしろそちらに目を奪われてしまった。泉が何かムゴムゴと抗議しているが、男子は手を離さないし、周りの数人は笑っている。

 直後に担任教諭が教室に入ってきて、生徒らは各自の席に大わらわで向かった。佐藤【柏原】もおっかなびっくり窓際の席へ向かう。途中、いつぞや目にしたお下げ髪の少女が眉間にしわを寄せたまま挨拶してきた。何とか会釈は返せたが、足早にその前を行き過ぎる。

 いすに腰を下ろし、ようやく息を吐きだせた。思わぬ近距離感に焦らされたが、ここまで来れば人心地もつける。ここからはあくまで目立たぬよう、『坊っちゃん』のページをのぞき込み、息を潜める。今日はずっとこんな調子で過ごすのだ。

 ――でも、本当の柏原ならもっと違うリアクションになったんじゃないか?

 あの山田に見せられた写真から推せば、彼女はもっと快活そうな人間のはずだ。

 愛嬌のある笑顔と見事な黒長髪で、周りをも笑顔にしてしまうかのような少女のはずだ。

 挨拶はちゃんと返しただろうし、突然の誘いにだって笑顔で応じたろう。

 それが今や違ってしまっている。自分たちの身体と変装によって息を吹き返したのだと言っても、それは元々の柏原ではない何かに過ぎないのだ。

 イジメの犠牲になった彼女を思い、あるいはその落差を実体験していると、どうにも胸が締め付けられる。同時に、彼女を死に追いやった同級生たちへの義憤に、鼓動が大きくなる。

 だがその義憤は、すなわち自分自身にも向けられるものだと、佐藤は理解もしている。

 同級生らの(おそらくは)軽はずみな言葉と行動が柏原の自死を招いたように、佐藤の考えなしな言い寄りと意趣返しが結果的に湯島兄妹を苦しめているのだ。

 何がどうしてこうなったか? そんなことは今更どうでも良い。

 今すべきは……

 刹那せつな、耳を幾多いくたの声が貫いた。

 顔を上げると、いつの間にか担任の教師はいなくなり、生徒らがはしゃぎはじめている。男女が入り乱れ、大声でしゃべり笑いあい、肩を叩いたり指を差しあったり。

 一方では、ロン毛の男子が教科書を丸めて振りかざし、何か大いに弁じ立てている。その周囲数人がはやしたて、手を叩いて笑う。男子が時折出入り口を窺うのにもかまいはしない。

 他方では、天然パーマ気味の女子生徒が、男子女子問わず人の脇腹を突っついては駆け回っている。悲鳴と奇声が入り乱れる。

「こらぁ泉!」おかん系女子の声が上がる。「またあたしのノートにいたずら書きして!」

「だって岡ネェのノート真面目すぎるんだもん! だからかわいくしてあげようと思って!」

「余計なお世話よ!」

「ほらぁ泉ちゃん、ちょっと落ち着こうね~」

 男子がまた泉という女子を後ろから羽交い締めにする。ジタバタする泉を、さらに腕で引き寄せて押さえつける。辺りのクラスメートが二人を茶化すように笑う。

「いいよヨッシー! そのまま連れてっちゃえ」「監禁しちゃえ!」「押し倒しちゃえ!」

「やめてよヨッシー! まだわたしは!」

 女子が手を伸ばす。男子が引きずっていく。周辺が笑う、わらう、嗤う――

 もう、我慢ならなかった。

「……いい加減にしろよお前ら!」

 いすを蹴り飛ばして立ち、叫ぶ。

 いっぺんに声が止んだ。視線がこちらに集中する。

「お前らの軽はずみがどんなことになんのか、分かって……っ!!」

 佐藤もまた、口を開けたまま静止する。

 教室を支配する沈黙。空気すらいで、微動だにしない。

 弁じ立てていた男子も、駆け回っていた女子も、いたずら書き云々で騒いでいたグループも。

 だれもが、【柏原】に丸い目を向けている。

 唐突に男声で叫んだ、少女の姿の何者かに。

「……か、柏原さん?」

 その中で、お下げ髪の少女が席を立った。

 トテトテとやってきて、顔をずいっと近づけてくる。こちらが身を引いたところに、さらに寄ってきて、彼女の鼻が佐藤の顎にくっつきそうになる。お下げ髪が【柏原】の胸に触れた。

 力んだ目――それが、やがて見開かれる。

「……違うっ、柏原さんじゃないよっ! いつか観た男の子だよっ!」

 直後、驚愕の大音声だいおんじょうが教室中に響いた。鼓膜こまくを破り脳髄のうずいに突き刺さり、佐藤の存在をズタズタに切り裂いてしまうような金切り声だ。学校中を揺るがすような絶叫だ。

「このバカッ! こっち来いッ!」

 山田が飛び込んできた。人をかき分け、人も驚き道を譲る。

 佐藤の腕を掴む。爪が手首に刺さる。

 力尽くで引っ張られ、佐藤はあれよあれよと連れ出される。騒然と動揺の渦中を抜ける。

 だが曲がりしな、ドアに左脚がぶつかった。

 勢い余って廊下に横転、一回転して止まる。

 向うずねが疼きだす。床に打った肩や頭が痛む。

「立ちなさい、早く!」

 糀谷が肩を持つ。佐藤は頭を押さえる。

 その手にジャリジャリした感触が刺さる。

「行って、みんな!」

 海場が黒いウィッグのを拾い上げる。手が滑るようで、二・三度拾いなおしている。

 佐藤は脚を踏みだす。だが、脛の痛みに、力が入らない。

 患部を押さえると、タイツ越しにも血の感触が――

「おい」

 簡潔ながら威圧感のある、かつ聞きなじみのある声が、降ってきた。

 四人は同時に顔を上げ、そして一切の動きを止めた。

 社会科日本史担当、剣道部顧問の菅野かんの教諭が、筋肉質な肉体をそびえさせている。

 菅野はセーラー服を着込み化粧を施した佐藤と、取り囲む糀谷や海場や山田を見下ろす。

 四人とも口を開けない。静まりかえった中で、幾つもの視線が交錯する。

 佐藤の目に、かつての師は笑っているようにも戸惑っているようにも見えた。

 菅野が視線の先を動かした。廊下の様子を窺う二年二組や他クラスの生徒らに目を向ける。

「二年二組、今日は悪いが自習にする。どんな科目でも良いから、全員静かにやっとけ。他のクラスも、授業が始まるぞ。席に戻って静かに待っとけ」

 念を押すように「静かにな」と言い含める。数人がコクコクと頷き、すべての顔が引っ込む。

 それを見届けてから、菅野は再び佐藤に視線を落とした。

 今度は確実に笑っていた。

「話を聞こう。……いや、その前に着替えてこい、佐藤竹寿」



 化粧も落としYシャツ姿に着替え終えて、佐藤は指定された面談室に向かった。袖口に付いてしまったファンデーションは、指でこすっても落ちてくれない。諦めて入口のドアを引いた。

 細長い部屋には、すでに四人が長机の左右についている。山田は眉根を寄せ、海場は項垂れてしまっている。一つ席が空いて、糀谷は指先を組んでは解きを繰り返す。対面する菅野は腕組みをして、それぞれの姿を観察しているらしかった。空いたパイプ椅子に佐藤も腰を下ろす。

 静かだった。学校中が静まりかえっているようだ。重たい静寂が四人をしていた。

 その重たさの中、菅野が自らの丸刈り頭を撫でた。

「……佐藤。お前が剣道を辞めてから、だいたい一月半と言ったところだな」

 意外な切り出し方に、佐藤は少し虚を突かれて顔を上げた。菅野の真正面から佐藤を見る目は、存外穏やかなものだ。

「あ、そ、そうです。まぁ、一身上の都合で」

「誤魔化さなくて良い。嫌がらせを受けたせいだろう? あれは、俺もすまなかったと思う。言い訳に過ぎないが、俺ももう歳だ。生徒を叱るには力不足だった」

 すまない、と菅野が長机に手をついて、わずかに頭を下げた。

「だが、俺は少しだけ安心したよ。お前には逃げ場があったんだな」

「逃げ場、ですか?」

「あぁ、世の中には逃げ場を持たない子が少なくない。そういう子は、そのまま俺たちの手の届かない場所へと行ってしまうものだ。こんな言い方は無礼だが、俺はその点だけは安心した」

 佐藤はちらと右隣の海場を見た。項垂れたまま動かない。

「お前には、こんな友がいたんだな」と菅野が左右に視線を巡らす。「きっと剣道を続けているばかりでは出会わなかっただろう。それでも何の因果か集った友だ、大事にしろよ」

「はい」

 返事だけははっきり口にした。実際、菅野の言は的を射ている。剣道を辞めなければ、あるいは剣道を辞めるきっかけとなる事態もなければ、こいつらと出会うことも、こんなことになることもなかっただろう。

「……だけどな」

 菅野が身を乗り出す。長机がギシリと音を上げた。

「今日のことは、さすがに意味が分からんぞ。二年の女子のフリをして、女装したお前がいる。いくら何でも常軌をいっしている」

 それでも、と菅野は佐藤を見つめる。佐藤も見つめ返す。鋭くも優しい目だと思った。

「俺はお前のことを悪いやつだとは思わないし、当然、佐藤以外の三人のことも悪いとは思わない。何らかの事情があったんだろうと思っている。そして、叱るのは俺の手に余る」

 他の三人は反応を示さない。佐藤は浅く呼吸をする。

 菅野が机の上で両手を組み合わせた。

「まずは事情を聞かせてくれ、佐藤。もちろん、他の三人もだ」

「……では」と山田が手を挙げた。「あたしが、代表して……」

「いえ、部長。俺が話します」

 山田の声を遮り、佐藤は口を開いた。山田が手を挙げたまま目を向けてくる。

「俺のせいでバレちまったんですから、当然です。そこの責任は負います。部長は、足りないところをフォローする感じで、お願いします」

 佐藤の言に、山田は何も返さなかった。ただ手を下ろして元の姿勢に戻っただけだった。

 そして、佐藤は変装部のことを洗いざらい話した。

 一人の少女の死、彼女をいたむ者たちの願い、変装し彼女として生きるという決断――

 けして自分が味わったものではない事情を、佐藤は不思議と自分のことのように話すことが出来た。途中で幾度か、柏原という少女と湯島こよりの影が混じりあう感覚に襲われた。

 そうだ、これは自らへの罰なのだ。償いと恩返しと哀悼とが三人を【柏原】たらしめたように、自らを罰するために今ここで自白しているのだ。

 話を終えたとき、菅野に補足はあるかと問われた山田はゆっくりと首を横に振った。そうかと菅野が呟いたきり、再び面談室は静かになる。重たさ以上に痛みのある静寂だった。

 佐藤は背筋を伸ばして、菅野からの返答を待った。菅野は顔を伏せ気味にして、黙考している様子だった。海場は丸くなった背中を微動だにさせない。山田がその背中をさすり、糀谷は落ち着きなく膝の上の手を開閉させている。

 やがて、菅野が「事情は分かった」と言った。顔を上げ、四人を等分に見回す。

「お前たちの気持ちは理解できるし、行動も少なくとも理屈としては通っている」

 佐藤は詰めていた息を吐きだした。

「しかし、だ」

 菅野が腕を組みなおした。佐藤は再び息を吸う。いったい、どんな指導が――

「イジメがあったという話は、聞いたことがない」

「……は?」

 意外な返しに佐藤は目を点にし、だが次の瞬間には立ち上がっていた。脛の傷が疼いて、よろめく。机に手をついて、なんとか体を支える。

「どういうことですか、先生?」

「俺は去年の二年、今の三年生を受け持っていたが、学年でイジメがあって生徒が不登校になったという話が持ち上がったことはなかった。全部のクラスを担当していたわけじゃないからはっきりは言えないが、少なくともそんな情報を耳にしたことはない」

「た、たまたま耳に入らなかったからとかじゃ……」

「否定はしきれんな、憶えてなかったとしても俺ももう歳だし……。その話は今年の間違いじゃないか? だとしたら俺は、先月から産休に入った先生の後釜だから、知るよしもないが」

「いえ、去年の話です。……ですよね、部長」

 佐藤は山田に振り返る。いつものふてぶてしい口調で、その通りだ、と言ってくれるものだと思ってのことだったし、そうしてくれるはずだと確信していた。

 しかし、山田は顔を伏せ、言葉を発する気配を見せない。

「……え? 部長?」

 佐藤はパイプ椅子を引いて、体ごと向き直った。それでも山田は何一つ口にしない。

「ユキ? 糀谷?」

 他の二人に声をかけても、片や大きく項垂れ、片や手を握りしめたまま動きを見せない。

 佐藤も言葉を失った。脚の感覚が麻痺まひしてきて、手で支えていないと体がぐらつきそうだ。

 菅野も丸刈り頭を撫でるだけで何を言うこともしない。

 三度みたびの静寂。今度は、薄気味悪さのようなものが漂う。窓の外を鳥の影が横切った。

 ――ガタっ、と椅子を引く音。

 無言のまま、おもむろに立ち上がったのは、海場だった。

「……ど、どうした?」

 佐藤は呼びかける。

 だが、海場はまず菅野に向けて、そのスキンヘッドを下げた。

「……ごめんなさい、先生。本当はみんな、自分が悪いんです」

「おいっ」「ユキ!」

 山田と糀谷が同時に声を上げた。佐藤は驚いて両者を見る。それぞれ目を見開き、体の向きごと海場に向き直っている。糀谷に至っては腰すら浮かせかかっていた。

 その二人にも、海場は順に「ゴメン」としゃを入れた。

「さくらさんも萌美ちゃんも、これまで、こんなことでいっぱい迷惑かけて、本当にゴメン」

 頭を下げられた二人がフリーズする。糀谷が落ちるようにパイプ椅子へと腰を戻した。

「それに……、佐藤くん」

 海場が振り返る。決意と諦念、ないしはそれ以外で潤んだ瞳を、まっすぐ佐藤に向けて。

「そういえば、入部してくれたときの約束、憶えてる?」

「……約束? あ、あぁ」

 佐藤はわずかに首を頷かせた。もちろん記憶している、人生で初めてスカートを穿いた日のことだ、忘れようにも忘れられない。

「秘密がバレたら、お前も一緒に恥をさらすって」

「そう、一人にはさせないって。……だから教えてあげるね、の、とっておきの秘密を」

 海場の発した自称に、佐藤は耳を疑い、目をいた。

「あのね……」

 すべやかな喉が揺れ、丸みのある顎が震え、青くなった唇がわなないて――

 

「……わたしが、柏原かしわら、なんだ」



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