【4章 - 3】ここにも、一枚の学生証が登場する
「……わたしが、柏原、なんだ」
「……へ?」
佐藤の口からは、間の抜けた声しか出てこなかった。
息を吸うことも、吐くことも忘れてしまう。
ただ目だけが、『柏原だ』と自供した人物の手を追う。
その指先は制服の胸ポケットにおもむろに差しこまれ、何かをゆっくりと取り出す。
「これが、証拠だよ」
そう言って差し出されたのは、一枚の学生証だった。
佐藤は慣習的にそれを受け取る。
顔写真にはスキンヘッドのシルエットと、あえて感情を見せていないような無表情。
なるほど、それは【海場之也】の写真だ。
だがそこに記されている名前は、いつか見た楷書体とは似ても似つかない。
曰く、
「……柏原、由紀?」
「それが、わたしの本当の名前だよ」
【海場】――柏原由紀という名の少女が頷く。佐藤は少女と顔写真と名前を今一度見比べた。
「……か、柏原は、し、死んだって」
「それも、嘘ついててゴメンね。イジメとか自殺の話は、三人ででっち上げた、作り話だよ」
「じゃぁ、【海場之也】って名前は」
「あれは嘘っていうか、前から考えてたんだ。……髪が全部無くなっちゃったときから」
佐藤はハッとして顔を上げた。柏原由紀の卵形の頭に、想像の目を向ける。
癖なく背中へと流れ、四方どこから見てもその美に
陽の光のもとで艶めきを放ち、人混みの中でもすぐに格別だと知れる、そんな黒い髪を。
もし、そんな髪を持った彼女が、満面の笑みを浮かべてピースサインなどしていたら――
まさしく、山田に見せられた『柏原の写真』そのものだ!
「……昔はね、わたしも自分の髪が、好きだった」
柏原のささやかな、でも通りの良い声に、佐藤は視野を現実に戻した。
つるりとしたスキンヘッドに、蛍光灯の無機質な白光が映り込んでいる。
「長くてさらさらで、どんなアレンジでも自由だった。トリートメントは大変だったけど、今日はどんな髪型にしようかなって毎日楽しみだったし、みんなに『キレイだね』って言ってもらえるのが、うれしかった」
だけど、と顔を俯かせる。頭部表面の白い光が揺れる。
「高校の――ここじゃなくて市内のほうのだけど――二年の春前くらいから、突然髪が抜けるようになってったんだ。何もしてないのに、あっという間に……。それで、ほんの一月ちょっとで、こんな頭になっちゃった……」
柏原は何もない頭を細い指でさすった。かつてそこにあった髪を撫でるように。今そこに無いことを憂えるように。
「わたしは泣いた、何度も、何日も。自分で自分が変な人間に思えて、――だって、髪のない女の子なんて、おかしいでしょ? ――それで、学校どころか外に出ることも出来なくなっちゃって……。氷の女王に身も心も氷漬けにされたんだって、それで男の子に変えられちゃったんだって、そう信じ込もうとしていたこともあったよ」
「それは想像しすぎだろ」
咄嗟に口にしてしまってから、自分の舌をかみ切りたくなった。
柏原が指で目元を拭う。
「そうやって夏まで引きこもってたんだけど」と続ける。「ずっと学校には行きたいとは思ってた。でも、顔なじみのいる場所にこんな頭で行きたくはなかった。……だから、遠いけど、北八高に編入したんだ」
それがこの九月の下旬、とのこと。
「……だけど、やっぱり自信が持てなかった。証明写真を撮るときにウィッグを外したら、みんなどこか笑ってるような、戸惑ってるような目になって。あぁ、やっぱりわたしはどうしようもないんだなって……。それで、こっそり逃げ出して、人目の付かないところへって歩き回ってたら、いつしか屋上に来てたの」
「そこで、ユキとあたしたちは出会った」
そう口を挟んだのは山田だった。柏原が小さく笑みをこぼす。
「あのときはびっくりしたなぁ。だれもいないと思ってたら、いきなり目つきの鋭い女の子と、ゾンビみたいな女の子が窓から飛び出してきたから」
「だって」と糀谷。「飛び下りるんじゃないかって、こっちこそびっくりしたんだもん」
ゴメンね、と柏原が両者に小さく頭を下げる。
「それで、二人と話し合ってる内に、なんて言うか、同じ傷を持ってるみたいってなってね」
「同じ傷?」
佐藤の呟きに、「そうね」と糀谷が応じた。
「三人とも他人からの視線に敏感だったのよ。わたしはいい子に見られる中で苦しんでたし」
「あたしも」と山田も頷く。「スキャンダルの当事者と見られるのを恐れていた。無論、その時は皆まで語ったわけじゃないが」
「そしてわたしは」柏原も続く。「女の子じゃない風に見られるのが、怖かった。自分が自分じゃなくなっちゃうみたいで」
佐藤は何も言えず、口をつぐむ。柏原は小さく息を吸って、はいた。
「それでね、いろいろお話しするうちに、わたしが堂々と人前に出られるようになるために、特訓しようってなったの。その間、二人がわたしに変装して出席点や課題点を取ってくれるって」
佐藤は糀谷の方を窺った。糀谷は小さくうなずく。
「……それで」と柏原。「特訓の中で、女装して初めて部室を出たとき、ある男の子に声をかけられた」
ハッと佐藤は顔を上げた。その場面のことは、鮮明に思い描くことができる。
夕焼けを背景に佇む、長い黒髪の少女。
告白をうれしいと言った、頬を赤らめた姿。
そして、その黒長髪のウィッグが脱げ落ちたあとの、絶望の表情――
「初めはね」と柏原が心持ち頬を赤らめる。「本当にうれしかった。こんなニセ者でも、ちゃんと女の子として見てくれてるんだって……。でも、まさかわたしの嘘の部分が好きだなんて……。あっ、もちろん佐藤くんが悪いわけじゃ無いんだよ! わたしが、こんなんだから……」
顔を上げて両掌を振ったり、しかしまた俯いて目元を押さえたり。確かに彼女は【海場】だったんだ、と佐藤は今になってようやく得心がいった。同時に、きりきりと胸が痛みだす。
「ユキね、ずっと泣いてたんだよ」と糀谷。「部室に逃げ帰ってきてから、ずーっと」
「髪の無い自分には、生きてる価値そのものが無い、ってな」と山田。
「ほ、本当に申し訳ない!」
佐藤は九十度に身を折った。「さ、佐藤くん顔上げて」と柏原が嘆願してくる。それでも顔を上げない。顔を上げていられるほど、佐藤は自分を許せていない。
自分は、どれだけこの少女を傷つけてきたことだろう。
思い当たるだけでも、いくつもある。
変装することは相手を殺すことじゃないかと言ったり、正体隠すなら髪を伸ばせば良いとか主張したり、ハロウィンでは二人揃って女装男子アイドルと間違えられたり、あまつさえホテルに連れて行こうとしさえした。
すべてをたどっていけば、あの文化祭の日に告白した瞬間から、失礼だったのだ。
――あなたの髪が好きだから。
それがどれほど鋭利で冷徹な刃だったことだろう。
「……あ、あのね佐藤くん……ううん、かぐやちゃん」
柏原がその名で呼びかける。佐藤は目線だけを持ち上げた。
柏原の表情を柔らかい。
「ぼくはね」と自称が変わる。「かぐやちゃんと一緒に女装してるの、楽しかったんだよ。ぼくは女装男子、を装うことにしたわけだけど、それでもかぐやちゃんはぼくを否定しなかった。初めの時のことも、アンフェアだからって謝ってくれた。……それだけで充分だよ」
「だ、だけど、今日のことは……」
「良いんだ。第一、ぼくが間違ってただけなんだよ」
自分の詰襟制服を見下ろす。ほこりが目についたようで、指でそっと胸元を撫でた。
「【海場之也】として生きてるうちにね、もう髪が自慢の女の子にはなれないんだって、どんなに頑張ったって偽物の装いで着飾るしか出来ないんだって、分かっちゃったから」
だから、と【海場】は顔を上げ、佐藤に微笑みかける。
「……今日からは、ぼくは海場之也として生きていくよ」
「は?」佐藤は目を瞬いた。「どういう……」
「詰襟制服を着た男子生徒として、たまに女装したりもする男の子として、ぼくは生きていくよ。幸いあそこのクラスは、男子とか女子とかいった垣根の無い自由な場所だから」
「……何を言ってるの、ユキ? 意味が分からないわ」糀谷が声を上げた。
「おかしこと言ってんなよ」と向こう側の山田も目を剥いている。
「そうかな? 意味も何も、単純な話だよ。おかしことでも何でもない」
【海場】はそんな二人にも視線を向けて、小さく首を傾げた。
「だって、変装することは、その人として生きることなんだから、ね」
山田が何か反論しようとして、しかし何を言うこともなく口を閉じる。糀谷も、そして佐藤も、何一つ言えなかった。
違うとどこかで思っているのに、何が違うのかが分からない。
場に気まずい沈黙が下りる。【海場之也】だけが
「……話はまとまったか?」
菅野の声、四人は一斉に姿勢を正す。腕組みをした菅野が視線を巡らせる。
その動きは、柏原由紀を向いたところで止まった。
「柏原」腕組みを解いて、身を前に出す。
「はい」柏原こと【海場】は、菅野に真正面を向けた。
「正直言って、俺はもう歳だ、今の話だけで理解できたわけじゃない。だから、悪いがもう一度ちゃんと話を聞かせてくれ。出来れば担任の先生とかもいるところで」
「分かりました」
菅野は【海場】の首肯を見て頷きを返し、ちらりと自身の腕時計に目をやった。それから、音をさせて立ち上がる。
「俺はいっぺん教室を見てくるから、ここで待機しておけ。この後は質問攻めだろうからな」
そんな台詞を残して、菅野は面談室から出て行った。ドアが閉じるのと同時に、【海場】が深呼吸をしていすに腰を下ろした。佐藤は、腰を落ち着けられる気分にない。山田と糀谷は、それぞれに溜息をついていた。
「……ユキ」と糀谷が
「うん、何が?」と【海場】がこくんと首を傾げる。あくまで穏やかな笑顔だ。
糀谷は何かを続けようとして、その吹っ切れたような表情に何も口にできなかった。わざとらしく視線をさまよわせ、結局手元に視線を戻した。
佐藤は、ゆっくりと椅子をしまった。
「どうした、佐藤」と山田。
「……ちょっと、手洗いです」と佐藤は小声で答えた。
用を足すわけでもなく入ったトイレの個室の中で、佐藤はチャイムの音を聞いた。
重たい足取りでそこを出て、面談室に戻る。廊下に人通りはまだなかった。
スライドドアを開けると、山田と糀谷がぱっと顔を上げる。【海場】の姿はなかった。佐藤が問うよりも先に、「ユキも手洗いだ」と山田が答えた。
そうか、と短く応じ、佐藤は壁際の椅子に腰を下ろす。
「すまなかった、佐藤」唐突に山田が言った。「ユキのことは、いつかはクラスでバレても仕方なかった。その中で、お前に貧乏くじを引かせてしまった。これは、お前の事情を
佐藤は声を出さずに、ただ首を横に振った。
「……わたしからも、ゴメンね」と糀谷も口を開く。「ずっと、ユキの本当のこと隠してて。ユキが、あの子はいい子だからさ、勘違いした佐藤くんは悪くないって、気に病んでほしくないって言うから、わたしたちはその意思を尊重したの」
そうか、と溜息のような声を漏らす。どこかのドアが開閉する音が耳についた。
「その上で、だ」
山田が腕を組む。糀谷が奥から佐藤を覗き込むように、テーブルに体重をかける。
「やっぱり、お前は悪い」「そうね、悪い子だよ佐藤くん」
二人からの言いに、佐藤は首を項垂れさせる。
「今日のことで、ユキがクラスに馴染みづらくなった、どころか出来なくなったといっても過言ではない。お前は、一人の人間の行く末を潰えさせたんだ」
「ユキに自信をつけさせてあげようとしたわたしたちの努力を、全部水の泡にしてくれちゃったんだもんね。そこのところはちゃんと反省してよ」
「……分かってるさ」
佐藤はようやくそう絞り出した。拳を握る、爪が掌に食い込むくらい強く。
しばらくの間、互いに無言だった。廊下をいくつかの足音が通り過ぎていった。
やがて、椅子を引く音と足音。俯く佐藤の視界に、汚れのないつま先が入ってきた。
「ねぇ、佐藤くん。……わたし、意外と佐藤くんのこと、好きよ」
「……は?!」
佐藤はバッと顔を上げる。糀谷は澄ました顔で、「やっと顔上げてくれた」
と呟いた。
「まぁ、髪フェチ変態の中略の髪フェチ変態くんだから、生理的には無理よ」
「…………」
「じゃなくてね……。わたしは、自分を訴えるちゃんとしたやり方を知らなかった。いい子であろうとして外聞ばかり気にしていたから、隠れて腕切るくらいしかできなかった」
でもね、と糀谷は前傾姿勢になって佐藤の目を覗き見る。
「佐藤くん、姉ちゃんに怒ってくれたでしょ? 最初こそ、人前でなんてことをやってって思ったけど。でもね、下手くそなやり方でもいいからとりあえずやってみなきゃって、あの時をきっかけに思ったのよ。そういう意味で、佐藤くんのこと人間的に興味が持てたってわけよ」
佐藤はポカンとしたまま、どう返せば良いのか分からなかった。
糀谷が体勢を戻し、ちらと山田に振り返った。山田はその意に気づいたように少し渋面を作ったが、それからわざとらしく奥の窓のほうに向いて、「あ、あたしも」と口を開いた。
「お前のことは、嫌いじゃない……。まぁ、何だ、やり口にしろ存在にしろ、迷惑千万な野郎だけど、なんでか不思議と良い方向へ転がっていく。津久井さんとの件にしたって、初めこそ土足で他人の秘密に踏み込みやがってと憤慨したが、結果的には逃げ隠れするあたしが間違いだったわけだもんな。ほんと迷惑で、不思議なヤツだよ、お前は」
佐藤はわざとらしくそっぽを向く山田と、澄ました顔で佐藤を見下ろす糀谷を、等分に見る。
「……お前ら、人が落ち込んでるのを良いことに」
「失礼ね、これでも慰めてるのよ。やり方が下手なのは許してちょうだい」
糀谷がくるりと背を向けて、席に戻っていく。
佐藤が何かを続けようとしたとき、ポケットでスマートフォンが振動し始めた。取り出してみれば、『東』からの通話だ。拒否をしてポケットに戻す。
なのに、すぐにまた鳴り始めた。ひどく
それでも呼出は途切れず、とうとう根負けして、画面をタップ。
『おい聞いてくれよ佐藤ー!』
途端、大声が部屋に響き渡った。山田と、椅子に腰を落ち着けた糀谷も、眉を顰めている。
『今朝よ、金子ちゃんからメールが届いてさ! URLが貼っ付けられてたから開いてみたら……、驚くなよ、金子ちゃんマンガ描いてたんだよ! しかも俺をモデルにしてな!』
「マンガ?」佐藤はマイクに向かって話しかけた。
『あぁそうさ!』東の声がまた大きくなる。『峰ちか子ってペンネームだ、知ってるだろ! まさか、まさかそんな子と付き合えるなんて、俺は今世紀最大の幸せ者だ!』
峰ちか子、聞いた憶えはある。いや、だとしたらだ、
「お前、ただマンガのために利用されてただけじゃねぇの?」
『だからなんだ! たとえそうだとしても、その相手として俺を選んでくれたことに変わりは無い! 俺は自信を持って、金子ちゃんのマンガの元ネタですって言い張ってやる!』
なるほど、金子の目は正解だ。ここまで
『……それでな』東が急激に声のトーンを落とした。『学校来てから、俺はちゃんと金子ちゃんに謝ったよ。デートの時は、ほったらかしにして申し訳なかった、って』
「……そうか」
『そしたらな、金子ちゃんもマンガのこと隠しててゴメンって、謝ってくれた……。謝るのにタイミングも下心も関係ねぇや。とにかく頭を下げる、これに尽きるぜ』
佐藤は閉口する。が、すぐに気を取り直して話しの矛先を変えた。
「東、お前そのためだけに電話してきたのか、学校からわざわざ」
『……んなわけないだろ』と東。若干間があった。『昨日今日と休んで、どうしたんだ?』
「なに、気にするな。季節の変わり目で熱っぽいだけだ」
そのとき、二限始まりのチャイムが鳴った。狭い部屋の中だから、やけに大きく聞こえる。
『佐藤、なんかお前の方からもチャイムが聞こえるんだが』
「幻聴だろ。もう切るぞ、早く授業いけ」
『おう、もちろ……ん? おいっ』
電話を切ろうとしたところで、東が妙な声を出した。
「どうした?」
『校舎の屋上に人がいる』
「屋上?」佐藤は眉根を寄せた。「ってか、お前どこにいるんだよ」
『部室前。朝練の後にスマホ置き忘れてよ、せっかくの金子ちゃんのマンガが見れなくて……』
東がまたも惚気だす。そんなことはどうでも良い。
本当にどうでも良い。
今、東はどこだと答えた?
佐藤は剣道部時代を思い出しながら聞き返す。
「お前、部室の前にいるのか? そこから見上げたところに、人がいる?」
『あ、あぁ。あれは、女子だな。セーラー服と長い髪が見える』
佐藤は目を同室する二人に向けた。どちらも顔から血の気が引いているように見えた。
「もう一回訊くぞ!」佐藤は声を大にして、「体育館裏にある剣道部部室から見上げた北校舎の屋上に、女子生徒がいるんだな!」
『うるさいっ佐藤!』東の声も大きくなる。『そうだと言ってるだろ!』
途端、山田と糀谷が同時にがいすを蹴立てた。壁にぶつかり、金属音が反響する。二人はそのまま部屋を飛び出す。
『な、何だよ今の……』
「気にすんな、ありがとよ!」
佐藤はそれだけをマイクにぶつけて、通話を切る。スマホを尻のポケットに入れようとして、落としてしまう。だが、構わず佐藤も二人の後を追った。
――北校舎の屋上、そんなところに立つ女子生徒など、一人しかいない。
【次回(最終回です!)更新は、12/1(水)の予定です】
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