【4章 - 4】北風が背中を押す
中校舎を抜け、北校舎の階段へ踏みだす。
「先に上がっとけ!」と山田が言い、一人どこかに向かった。
糀谷はどんどん先に行く。スカートの裾が舞い上がるのも気にせずに、一段飛ばし。ツーサイドアップの髪が勢いよく跳ね踊る。
佐藤はそれを追うことだけに集中して、一段一段上がっていく。ケガした左の
先に五階を抜けた糀谷が、次の踊り場で突如急ブレーキをかけた。
「……あっ、くそっ」
「どうしたんだよ」十段ほど下で佐藤も足を止める。
「静かに」糀谷が振り向き、口に指一本を立てた。「先生がいる」
耳をそばだてる。確かに、男女二つの声が聞こえる。ドアを揺らしているらしい音も。鍵が壊れていることに気づいていないのだろう。揺らしたって仕方ないのに。
佐藤は息を整える。その間に糀谷が小声でつぶやく。
「なんとかどいてもらいたいわね……。作戦が無いわけじゃ無いけど」
佐藤は糀谷を見る。階上を窺う目つきは真剣そのものだ。
「……エレベーターはまだなの?」
そんな女性教師の声がはっきり聞こえた。佐藤と糀谷が目を見合わす。
「……ボタンは押した、三階で止まりっぱなしだ」と男性の声に困惑が
「こんな時に故障とか、冗談じゃ無いわよ。……まだ開かない、どうして?」
二人はまた意識を上に向けた。そこに、
「おいッ、そんなとこで何やってる?」
山田が駆け上がってきた。佐藤はすかさず振り向き、声を抑えて階上の状況を伝えた。
「ってか、部長どこ行ってたんですか?」
「エレベーターを止めてきたんだ。この手の運搬メインのやつには、『開延長』ってドアを開きっぱなしに出来るボタンがある。それを押してきた。少しは時間が稼げる」
「さすが部長、物知り」と糀谷が階段を下りて、佐藤と山田の元に来た。「じゃぁ、なおのこと早くしましょう。部長、佐藤くん、手伝って」
糀谷が作戦を二人に告げる。山田は即座に「分かった」と応じたが、佐藤は首をひねった。
「そこまでする必要があんのか? どうせ先生たちがそのうち……」
「うるさいっ」糀谷が叱責する。「どうしてこんな時に限ってうじうじしてんのよっ」
「あたしたちがユキを助ける」山田が声低く宣言する。「なんとしても、だ」
糀谷が佐藤を追い払うように手を振る。
仕方ない、脚を引きずりながら五階の男子トイレに隠れた。
直後、二人の声が響きだす。
「……おい、何だあれ?」「なになにー?」「ひっ、人の脚よ!」「人よ人! 上にいるわ!」
佐藤は思わず笑いそうになってしまった。ちゃんと口調の高低やリズムの違う四人の声に聞こえるのだ。糀谷萌美の声芸は知っていたが、山田さくらも腐っても役者だ。
「なんでそこにいるんだ?」「おいッ戻ってこい!」「まさか自殺するんじゃ?」「言うなよ!」
そして感心してしまう。あの二人は本気で柏原由紀を救いたいのだ、あくまで自分たちの手で。その仲間意識なのかなんなのかには感服するばかりだ。
ならば、うじうじしてるのはみっともない。佐藤も拳を固め、声を上げた。
「おい、飛び下りるぞ!」
「何だとッ!」「やめろ! 思い留まれ!」「あぁぁッ!」「きゃぁぁっ!」
「……お、おい、静かにしなさい!」
男性教師の声が上から聞こえた。続いて複数の足音。佐藤が身を潜めると、前の廊下を山田と糀谷が駆けていく。通り過ぎざまに糀谷が親指を一本立てて行った。
「部屋に入りなさい!」「窓の外見ないで!」と叫びながら、男女の教師が目の前を通過。
チャンスだ、佐藤はトイレから飛び出す。
階段を二段飛ばしで上がる。
屋上に続くドアをヘアピンで開けて、入る。
ピタリとドアが閉じた途端、脛と膝が一斉にきしんだ。思わず傍らのスチール棚に手をつく。
だが、まだだ。脚にむち打って段へ踏みだす。
――いったいどんな顔すりゃ良い? 心の声が訊いてくる。
知らないぜそんなものは、と佐藤ははっきり思う。
次のだれかを失わないようにしよう――そう言ったのは、ユキ、お前だ。
それなのに、お前はお前自身を失わせようとしているのか。
お前のことを大事に思っている、仲間の前から。
そんなことはさせない。させてたまるか。
だってユキ、お前は……
足が段に引っかかる。踊り場に倒れ込む。
……お前は、何だ? なんて言えば良いんだ?
変装部の仲間だ。山田や糀谷にとっての友人だ。同じ傷を持つ者だ。
俺にとっての……、何なんだ?
だが、佐藤はすぐさま起き上がる。次の段へと足を出す。
脛の感覚はない、膝も笑っている。それでも、脚を踏みだす。
あぁそうだ、佐藤竹寿は髪フェチ変態以下略だ。考え無しだし、うまいやり方なんて知らない。いつも好き勝手で、他人を巻き込んでしまう。そんな傍迷惑な坊っちゃんだ。
ならば考えるのは後回しだ! 今、屋上階に到達した。それで充分だ!
勢い込んで部室に入り、いすをかき分けて、奥の開いている窓へ。
直後、残った脚が窓枠に引っかかった。そのまま顔面から墜落。くそっ、マジで柔道を選択すれば良かった。
白秋のやわらかな陽射しの下。
セーラー服の女子生徒が
後ろ姿は小揺るぎもせず、遠くのどこかに視線を向けて。
ただ、長い黒髪を、秋風になびかせて――
「……ユキ」
佐藤は呼びかけた。
だが、柏原由紀は振り返らない。
澄みきった空気の中に広がる丘陵と平野を見つめて、風に吹かれているばかり。
さらさらとなびく髪の一本一本が、陽の光にきらめく。その艶めきに直に触れて間近で感じたいと思う。一方で、どこか神々しくて近寄ろうとする者を拒んでもいるようだ。その少女に少しでも近づいてしまったら、そのまま転落してしまいそうな。
――いや、実際そうであるわけで。それを免れるためにここに来たのだ。
「ユキ!」
声を大きくして呼ぶ。それでもなお、彼女はこちらを見てくれない。
佐藤は立ち上がる。足首の痛みによろめくも、構わずゆっくりと歩を進めた。
声が届く距離まで来たとき、
「……やっぱり、怖いものだね、屋上って」
柏原が呟くように言った。風の中に紛れそうになりながらも、佐藤の耳には良く聞こえた。
「マンション暮らしだから、高いところには慣れっこって思ってたけど……、やっぱり三階と六階の屋上じゃ、別なんだね」
「今日は風もあるしな」
佐藤は柏原の左に並ぶ。爪先が、屋上の端の敷居みたいな盛り上がりに当たる。高さ二十センチほどのそれを越えれば、その先は虚空だ。体育館の赤い屋根すら眼下にある。
「ユキ、どうしてここに?」佐藤は柏原に正面を向けて尋ねた。
「どうして……、どうしてかな?」柏原の横顔が小さく笑った。「でも、屋上に来て、空とか遠くを見る以外だったら、後は飛び下りるくらいしか用はないんじゃない?」
「給水タンクの点検もあるし、地上を見下ろして高笑いすることも出来るぞ」
「あ……その発想はなかった。佐藤くん、すごいね」
柏原がはにかみ、風に踊る黒髪のウィッグを片手で押さえる。
佐藤は笑う気になれなかった。その横顔を、とかく見つめる。
「……さっきは、生きていくとか言ってたのに、なんで?」
柏原の顔から一切の表情が消えた。その後で、自嘲のように口元を緩める。
「……だって、海場之也なんて、本当はこの世に存在しないんだから。そんなニセ者が、生きていられる道理なんて無いでしょ?」
それに、と柏原はさらに俯く。
「本物の柏原由紀であることも、もう出来ない……。そうあろうとしていれば生きていられるけど、それが叶わないのなら、生きていても仕方ないんじゃないかな……」
ひんやりとした北風が二人に吹き付ける。柏原のウィッグの毛先を揺らし、行き過ぎていく。
そうか、と佐藤は応じた。うん、と柏原も答えた。
佐藤は息を大きく吐きだした。鮮やかな色の
「……ユキ、本当にすまなかったな。何度お前を傷つけてきたのか、俺にはもう分からない」
「そんな、もう良いよ」柏原が首を振る。「全部、わたしが悪かったことなんだから」
「それは違う」今度は佐藤が否定する。「今日のことは間違いなく俺のせいだし、それ以前もユキを傷つけてきたんだ。ずっと柏原由紀であろうとしていたユキの努力を、俺は何度も踏みにじっちまった。このままじゃ、いかにもアンフェアだ。俺も傷を受けなきゃいけない」
だから、と言いつつ柏原のほうに目だけ向けた。柏原は怪訝そうに佐藤を見つめている。
「ユキが、もう飛び下りたいって言うんなら、分かった」
「佐藤くん……?」
「俺も一緒に、飛び下りる」
柏原が息を詰まらせる。風が一瞬、ピタリと止んだ。
その合間に、佐藤は敷居に脚を載せる。幅は広くない、両足で踏むと爪先がわずかにはみ出す。おまけに外へ向かって微妙に傾いている。佐藤は軽く両手を広げてバランスを取った。
眼下に目をやる。思わずつばを呑んだ。渡り廊下や体育館のデッキ、部室のあたりにいる人たちの姿が、ミニチュアみたいに見える。そこから上がった悲鳴や怒号もうまく聞き取れない。
「……さっ、佐藤くんっ!」柏原が裏返った声を上げた。「もっ、もう良いよ。ゴメン、もうわたし、飛び下りたいとか言わないから! だから、こ、こっちに……!」
柏原は手を伸ばす。だが、指先が触れることすら躊躇うように、その手は止まってしまう。
「それでもさ」佐藤は努めて平静な声を返す。「俺がユキを傷つけたことに変わりはねぇさ。それをフェアにするためなら、こんぐらいのことは大したことじゃ無い」
「た、大したことじゃ無いって、そんなわけ……! と、とにかく!」
「あぁ、それと最期に」
佐藤は柏原を真正面に見る。
「ユキの髪が、やっぱり俺は好きだ」
「はい?」
柏原が動きを止めた。目も口も丸く、ポカンとして佐藤を見上げる。
「俺は、これまでユキほどにも美しい髪になんて、出会ったこと無かったから」
「こ、こんな時に……? でも、これは……」
「もちろん、その長い髪もいつ見ても飽きないくらい魅力的だけどな。例えば、ハロウィンの時のサイドテールは可愛さと元気さが一緒になってたし、いつかのボブも愛くるしかったし」
それに、と一呼吸置く。
「髪の無いユキも、それはそれでいい。いや、むしろ一番美しい」
「え……?」
「だって、髪がないからこそ、ユキは自分らしい髪と装いを求めている。柏原由紀であろうとして、一生懸命に努力してる……。そんなユキが、美しくないわけないだろ?」
まん丸な目が瞬きをやめた。息も止まったように固まる。髪だけが風になびき――
突風が、髪を大きく舞い上げる。
「……きゃっ!」
柏原が頭を押さえる。だが数瞬遅く、ウィッグが飛ぶ。
「おわっ!」
そして、佐藤の姿勢も崩れる。
腕を振って
腰が折れる、膝が砕ける、脛がしびれる、足首がよじれる。
佐藤の目に、柏原の顔が映る。
口を大きくして、見つめている。
何か、叫んだかもしれない。
柏原が、佐藤が、直下の人々が、だれかが、だれもが。
太陽の前を黒いものが横切り、強烈な風が耳元で鳴って――
引力、回転、浮遊、
衝撃。
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