【エピローグ】かぐや姫の置き土産
無感覚な世界が訪れた。
ただ、青空が広がっている、雲が飛んでいく。
そこに、
「……バッカ野郎がぁッ!」
全身を怒号が貫いた。視界の端で、茶色の髪が逆立っている。
「教師振り切って来たら、お前のほうが落ちかかっててよ! 迷惑させんじゃネェよッ!」
「この考え無しっ!」
今度は甲高い声。額や首筋に髪が張り付いている。
「わたしたちが間に合わなかったら死んでたのよっ! やり方ってものがあるでしょうっ!」
「こ、この、へ、変態っ!」
うわずった叫び。逆光のシルエットが震えている。
「なんでこんな時まで髪のことなのっ! し、死んでも治りっこない変態さんだよっ!」
……だ、だけど、とシルエットがくずおれる。光が頭部で反射した。
「どうして、こんな……うれしい、の……?」
嗚咽に肩を揺らしている。思わず手を差し伸べたくなる。
しかし、体は動かない。どころか意識すら朦朧としてきて、視野が青と白に溶けていく。
「ちょっ、頭から血が……!」「止血だ、早くッ……!」「し、死なないで、佐藤くん……」
三つの声といくつかの足音、それらを最後に、意識は途切れた――
――幸い、すぐにも佐藤は疼痛で目を覚まし、のたうち悶えるほどには元気になった。
教師の車で病院に運ばれ、屋上に叩きつけられてできた傷を二針縫った。ただし、脳波には異常なく、入院まではせずに済んだ。
頭にガーゼとネットをかぶったまま学校に戻ってきた佐藤は、それから学校側との話し合いという名の尋問を受けた。どうやら、先に三人も済ませてあったらしい。
午後には各自の保護者も呼び出された。糀谷は名代としてきた姉からこっぴどく怒られていたが、佐藤は父に呆れられ、柏原はなぜか泣きだした二親を慰める側に回っていた。唯一保護者の来なかった山田には、代わりに教師からの叱責が続いていた。
結局、四人には当分の間自宅で謹慎しているようと言い渡された。備品の弁償費用も後日精算するとのことだったが、山田は「弁償の必要はないはずだ」と後でこっそり呟いていた。
屋上での事件があった翌々日の朝。
まだ松竹梅の開店には早い時間に湯島宏大が訪ねてきた。
曰く、こよりが見つかった。
木曜日の深夜に、本州最南端の地で一人でいた彼女を地元住民が保護。偽名を名乗っていたが、警察に照会したことですぐに身元が判明し、翌日には地元の署に帰還させられた。
面会した兄は、妹の変貌に驚愕したと言う。
ワンレングスの長髪が、無造作に切り落とされていたのだ。
――その話に、佐藤自身も今一度、罪悪感を強くした。
そして、頭を下げた。
「……そうか」
湯島宏大が、佐藤のスマートフォンを傍らのテーブルに置く。スマホの画面には撮り溜めてあった変装過程の証拠写真の一覧が表示されている。
佐藤はネットをかぶった頭を腰の高さにまで下げたまま、動かなかった。
「お前が、俺たちに変装して写真を偽造した。それが拡散して、こよりと俺をこんな目に……」
言葉が途切れる。薄暗い店内に、息の詰まるような沈黙が漂う。
やがて、スマートフォンがスリープ状態になった。
「……おい、佐藤、顔を上げろ」
「はい」
佐藤は体を起こす。湯島宏大の目が赤くなっていた。
「黙って、三発殴らせろ」
「はい。……え、三発?」
さすがに頓狂な声が出た。だが、湯島は拳を握りこむ。
「一発は
「いや、最後のは意味が……、それに俺、怪我を……」
「うるせぇ! 黙ってろ!」
湯島が振りかぶる。
佐藤は目を閉じる。仕方ない、すべては自らの過ちだ。思い直し、歯を食いしばる。
――しかし、いっこうに
佐藤は恐る恐る目を開ける。
「くっ……!」
湯島が拳を振り落とす。テーブルに激突し、スマートフォンが跳ね、砂糖壺が音を立てた。
佐藤はポカンとして、顔を伏せた湯島宏大を見つめる。
「……あぁ、そうだった」湯島の口から、声が漏れでる。「こよりは……、どんなに傷つけられても、不愉快なことがあっても、……どんなときでも、俺を止めたんだ……!」
湯島の目から、涙がこぼれた。それを隠すように、慌てて背を向ける。
「……おいっ佐藤」
「はっ、はい」
佐藤は湯島の震えている背中に返事をする。
「俺は、お前を、赦したりはしない。一生だって、恨んでやるっ……」
直後、湯島が身を
「このっ、変態野郎っ!」
そして、湯島は床を踏みならしカウベルをうるさく鳴らして、店から去って行った。
ドアが閉まり、あらゆる余韻も消えていってから、佐藤はゆっくりと息を吐きだした。大窓の向こうに、落葉して寂しくなった桜の樹が枝を伸ばしている。
「……とんだシスコンぶりね」「創生神もかくやだな」
後ろから聞こえた呟きに、佐藤は振り返る。
カウンターの向こうのキッチンから、糀谷萌美と山田さくらが顔を出していた。湯島宏大よりもさらに早くにきていた二人は、そろって振る舞いの紅茶を口に運ぶ。今日も今日で、ツーサイドアップの髪は均整の取れた二房をもって輪郭の面長さをカバーしており、一方で茶のショートヘアの毛先は自信ありげに尖っている。
そして、もう一人――
「さ、佐藤くん、大丈夫だった?」
柏原由紀がカウンターを回り込んで出てきた。
パーカーとショートパンツという組み合わせはボーイッシュにもガーリーにも見える。その一方、足下のニーソックスやブーツが女の子らしい。
そして、頭には何をも乗せていなかった。吊り照明のきらめきが、スキンヘッドの上で踊る。
それを違和感というなかれ、中性的とも両性具有とも性別不明とも違う、全体を統一する柏原由紀スタイルが見て取れる。
「……おーい、佐藤くん?」目の前で手を振られる。「もしかして見とれちゃってる?」
「い、いや」と我に返り、「これが柏原由紀という人物像なのかと、感心していた」
「それを一般的には見とれるっていうんだよ」
柏原はすっかり相好を崩して、指先をもじもじとさせる。恥じらっているらしいその仕草に、佐藤も少なからず赤くなってしまう。
「……やれやれ」糀谷がいつの間にかカウンター席で頬杖をついている。「こっちの二人はすっかり居場所を失っちゃったのにね。わたしなんか明日また家族会議なの。何言われるか分かったもんじゃないわ」
「あたしもな」山田も糀谷の隣に腰を下ろして、佐藤らに冷たい目を向けている。「なけなしの金で買った変装道具を、私物は持ち込むなって理由で全部処分させられたんだぞ。演劇部に譲渡したからと言って、あいつらにはどうせ、かぐや姫の置き土産にもならない」
「かぐや姫? 俺がどうかしたか?」
「女装した佐藤くんは関係ないよ」
すかさず柏原がツッコミを入れた。そういうもんかと思いつつ、佐藤は微笑む柏原に目を向ける。そこには寂しさや暗さといったもののない、純粋な喜楽がある。
見れば、山田と糀谷も柏原の表情に目を止め、それから顔を見合わせて頷いていた。
「……あれ、どうしたの、みんな?」柏原が顔を上げて三人を見回した。
「いや?」「別に?」「何も?」
山田、糀谷、佐藤の順に、同様の答え。「何それー?」と柏原が少し頬を膨らませる。
「まぁ、なんだ」と山田。「これで変装部は解散だな」
「それもそうね」と糀谷は小さく頷く。「場所も物も目的も、全部まっさらになったわけだし」
「……ちょっと寂しいけど」柏原が少し俯いてから、微笑を浮かべた。「うん。これからは、なりたい自分に装って、生きていかなきゃね。そうでしょ、佐藤くん?」
「お、おう、そうだ」突然振られて佐藤はやや動揺し、「変に装ったって仕方ないもんな」
「えーん、さとーくんに変っていわれたー」
糀谷が唐突に嘘泣きをはじめて、山田に抱きついた。山田が頭を撫でてやっている。
「……くそっ、はめられたのか、俺は」と、佐藤は苦り切った表情。
「ゴメン、そんなつもりはなかったけど……」柏原が小さく頭を下げる。
時計が午前九時の鐘を鳴らしだした。四人は一斉に黙り込み、それに耳を預けた。
そして、静寂が店内に戻ってきたとき、
「……ねぇ、佐藤くん」
柏原が呼びかけてきた。振り向くと、柏原の丸い瞳が正面から見つめてくる。
「あのときは、ゴメンね。突然、逃げ出したりして」
「え? ……あぁ、文化祭の時のか?」
「そう。だから……、そのときの返事、今しても良いかな?」
今? と佐藤は内心で驚く。実際、目を見開きもした。柏原の
「佐藤くん……ううん、竹寿くん」
「……い、いや、ちょっと待ってくれ。せめて、初めからやらせてくれ」
佐藤は慌てて掌を立て遮った。それから、自分の手をエプロンで拭き、髪を整えて、表情を引き締める。そして再度向き合い、深呼吸を一つ。
「柏原さん!」
存外大きな声が響いた。柏原が少し肩をすくめて、「……はい」と応じる。
「俺、好きなんです。あなたの……」
思わず視線が頭頂に向いてしまう。佐藤は気力でそれを柏原の瞳に戻し、
「……あれ?」
もう一度、頭の側面あたりに注目する。
そうだ、やはり光の照り返し方が、ただの肌のそれではない。
「あっ、もしかして気づいた?」
柏原が小さく頬を緩めて、側頭部を指で示す。何かがきらめいているようだ。
「実は、ちょっとだけ産毛みたいなのが生えてきたんだ。何のおかげかは分からないんだけど」
「マジかっ! 良かったなユキ!」
柏原が首を傾けて微笑む。産毛がふわふわと踊った。
佐藤は軽く咳払いして、彼女を見つめなおす。心臓の高鳴りすら今は心地よい。
「……柏原さん、俺は好きです。あなたの、その髪が!」
糀谷が吹き出しかけ、山田がその肩を叩いて二人から背を向けさせた。
佐藤はそんなことは気にも留めず、「だから……」と頭を下げる。
「俺と、付き合ってください!」
――告白の声は狭い店内に響いて、やがてフェードアウトした。
いすに座りなおした山田と糀谷が、音なく紅茶をすする。
吊り照明の虹色のきらめきが、静かに回りゆく。
佐藤竹寿は恐る恐る、顔を持ち上げた。
柏原由紀は、装わない笑みを浮かべて、
「はいっ」
【完】
髪フェチ男子が告白したら、相手は女装してました。 山下東海 @TohmiYA
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