【3章 - 6】人は成長し、そして歳を取る



 昼休みのチャイムが鳴った直後、茶髪の女子生徒が学生食堂に姿を現した。

 その登場に、早くも食堂にいる男子生徒の視線が動いた。ひとしきり驚いたような、あるいは不思議そうな表情を浮かべる。後からダッシュでやってきた生徒たちも、その茶髪を見つけると眉を顰めた。

 だが、それらの注意はすぐにも視界の外へ追いやられ、彼ら彼女らの意識は、友人らとのおしゃべりや昼飯のメニューに向かう。

 茶髪の女子生徒――もとい、【素顔の山田さくら】に扮した佐藤竹寿は幾つもの視線を感じながらも、素知らぬふりで食券販売機に向かう。小銭を入れて、わかめうどんを購入。

 佐藤としては、これではたぶん足りない。だが、これくらいが女子の相応らしい。後で何かをつまもう。そもそもすでに半日を変装に費やしている。午後からだけ教室に行く道理もない。

「おーい、さくら」

 海場が大きな声で呼びかけてきた。見れば、食堂の中程の席で大きく手を振っている。小ぶりなサイドテールの先はロールしていて、前髪はやや重ため。顔半分を覆っているマスクもあって、おしゃれではあれ、どこか近寄りがたい風貌である。

 釣り目で茶髪の【山田】に釣り合う女友達という設定で海場自身が考案したのだ。

 周囲の視線は手を振る海場と、相手の【山田】の両方に等分に向けられている。

「さくらの席もあるから、一緒に食べよ」

 手にした購買部のビニール袋を持ち上げた海場。【山田】は首肯を返す。何気なしに辺りを見ると、やはり生徒らの注意は長続きしていない様子だった。

 グレイヘアが覗く白頭巾の小母ちゃんに食券を渡すと、「はいよ、わかめうどんね、次は?」と威勢良く応じるだけで、佐藤【山田】の姿には注目もしなかった。うどんを茹で上げ器に入れ、隣に渡す。似たような風貌の小母ちゃんが出汁を注ぎわかめとネギを盛る。

「はい、お待たせ」と差し出されて、佐藤はカウンターの前を離れた。後ろに並ぶ生徒たちも、視線は佐藤【山田】ではなく、小母ちゃんたちの手際に向いている。

 海場と向かい合って座る。海場はビニール袋からクルミパンと野菜ジュースを取り出す。【山田】もいざ食べようと思って、箸を取り忘れていたのに気づいた。

「取ってきてあげる。待ってて、さくら」

 海場が席を離れる。その向こうに文庫本に目を向けている山田がいる。いつもの野暮ったい髪ではなく、幾分か丸みを帯びたシルエットをしている。クリアフレームの眼鏡もあって、無口で目立たない文学少女のようだ。傍らのサンドイッチは封も開けられていない。

「さくら、はい」海場が戻ってきて割り箸を差し出す。「もうお腹すいちゃった、早く食べよ」

 佐藤は割り箸を受け取り、目で礼を言う。海場が腰を下ろすと、山田の姿は視界から消える。

 二人同時に手を合わせた。海場がマスクを顎まで下ろしクルミパン袋を開けたところで、佐藤【山田】の箸使いを小声で注意する。

「ゆっくり食べるんだよ。一本ずつ、もしかしたら半本ずつでも良いかも」

 佐藤は頷く。今は女装している身なのだ。あくまで女子っぽく食事をしなければならない。

 箸を斜めにどんぶりに差しこみ、麺を一本取る。あくまで掬い上げるのではなく口から迎えに行き、すするのではなく箸で口に入れていく。そして、頃良いところで箸で切り、残りはどんぶりに戻す。味気ない麺を咀嚼そしゃくし、やがて嚥下えんげする。そのときに口元に手を添えて、どうしても喉仏が動いてしまうのを誤魔化すのも、忘れずに。

「うん、そんな感じ」

 海場が一つ頷いて、クルミパンを一欠片ちぎり取った。

 佐藤は内心で面倒くさいと文句を垂れながらも、次の一本に取りかかる。

 男子的にはほんの数分で食べ終えてしまいそうなわかめうどんを、佐藤【山田】は十分以上かけて、ようやく完食した。出汁をすべて飲み干したい衝動に駆られるが、どんぶりを仰ぐのは女子としてはしたないし、喉仏が出てしまうので却下だ。

 食器を返却口に持っていく。皿洗いに余念のない小母ちゃんが「はい、ありがと」と目を向けずに言った。二人、食堂を出る。

「……何もなかったね」と海場が小声で耳打ちしてきた。佐藤も首肯を返す。

 二人は並んで歩いた。しばらく校内を散歩してから、部室に戻る予定だった。

 昼休みも半ばとなったこの時間でも、生徒たちは学食や購買へと向かう。あるいは体操着姿で生徒玄関から外へ出て行く。すれ違う瞬間に、それらの目は一瞬【山田】の茶髪に向きはするものの、特に意を介することない。

 やはり、山田さくらの過去を思い出す人など、いないのだ。

 佐藤が一人確信に至った、その時、

「おい、そこの女子」

 後ろから、野太い声に呼び止められた。

 心臓が跳ねた。海場も肩を震わせた。

 そして、二人一緒に振り返る。

 そこにいたのは、角刈り頭の中年男。ジャージ姿の剣道部顧問、菅野かんの教諭だった。

 佐藤にすれば顔見知りだ。内心で舌打ちする。なぜこんなところで呼び止められるんだ。

「あ、あの、何でしょうか?」

 答えられない佐藤に変わって、海場が応じた。佐藤はあくまで肩は落とさずに胸を張り、菅野を正面に見据える。菅野も【山田】佐藤から目を離さない。

「クラスと名前は?」

「さ、三の五の、山田さくらが、どうかしたんですか?」

 またも海場が代わりに訊ねる。菅野は一瞬海場のほうに視線を向けた。

「三の五の、山田? ……すまん、副担任なのにまるで憶えがないな。俺もとしか」

 短く笑いすらする菅野に、海場は「はあ」と不明瞭な返事をする。

 どうやらスキャンダルがらみで思い出したとかではないらしい。佐藤も安堵する。

「けどな」と菅野が表情を引き締めた。「憶えがないと言うことは、そんな茶髪の生徒はクラスにいなかったはずだということだ」

 海場と佐藤は互いに目を合わせた。別に意味でマズいかもしれないと直感した。通りかかる生徒たちが、一瞬だけ向かい合う生徒と教師に振り返り、我関せずと足早に去って行く。

「山田、その髪は染めたのか?」菅野が単刀直入に聞いてきた。

「ち、違います」と海場が声を上げ、佐藤も首をふるふると左右に振った。

「違う?」

「そうです。これは……そう、こっちの方がさくらの地毛なんです」

 佐藤はぎょっとした。いきなり何を言い出すんだ、と鋭い視線を向ける。

 けれど、海場はかえって堂々とした態度でまくし立てる。

「さくらは、ずっと地毛がこの色だったんですけど、それをいろいろ言われるのがいやだったらしくって、ずっと黒に染めてたんです。でも、最近どこかの高校で地毛が黒くない女の子に黒に戻せと言いすぎて生徒が不登校になったとか、問題になったらしいですね。それで自制を促すようなお達しが出たとか。それでさくらもようやく黒に染めるのを辞めにして、自分のこの髪を受け入れようって思うようになったんです」

「そ、そうか」と菅野が腕を組む。「そんな話もあったな」

 佐藤は横目で海場に感心のまなざしを向けていた。確かにそんな話がネットニュースにあった気もするが、よくもそうすらすらと作り話が出てくるものだ。

「それにです、先生」と海場はさらに続ける。「学校というのは、生徒らが成長と変化を遂げて、自分というものを形成していく場です。髪を染めるにしろ染めないにしろ、あるいは印象がまったく変わったからと言って、口を出すのは正直言ってナンセンスだと思います」

「あぁ、分かった分かった」と菅野が両手を挙げた。「早口で言われると理解が出来なくなってきた。本気で歳だな、俺も」

 菅野が大きく口を開けて笑う。海場と佐藤はまた顔を見あわせた。

「もしかしたら書類出せとか言われるかもしれん、担任の指示を仰げ」と最後に言い残し、菅野は二人を追い越して去っていった。その姿が南校舎の階段へ消えたところで、二人同時に詰めていた息を吐きだす。

「ヒヤヒヤしたな」と佐藤。「ありがとよ、ユキ」

 海場は首を左右に振って、小さく笑んだ。

 それから視線を後ろに向ける。佐藤もその視線を追う。

 階段室の壁の陰から山田がこちらを窺っている。目が合うと、顎で上を示して、すぐに姿を隠した。もう部室に帰ると言うことだろう。

「わたしたちも戻ろっか、さくら?」

 海場の提案に、佐藤も頷く。

 だが脚を踏みだしかける海場を制して、いったん生徒玄関の下駄箱の間に連れて行った。吹抜の生徒玄関は、それでもどこか薄暗い。窓の外はやや曇りがちだ。

「ちょっと、頼み事がある」佐藤は小声で言った。

「頼み事?」

「あぁ、この後なんだが……」

 佐藤の提案に、海場は目を丸くした。



 天文観測室のドアは開きっぱなしだった。

 お疲れさまですの挨拶だけして、入室する。

 山田は窓辺のいすに腰を下ろし、暗幕を少しだけめくって遠くを見つめていた。すでに茶色のショートヘア姿に戻っている。整髪料をつけていないためか、髪はペタッとしおれている。傍らに黒髪ウィッグと眼鏡が無造作に置かれている。

 佐藤も海場も、今しばらくそっとしておくことにして、片付けに入る。

 頭から取ったウィッグを海場に渡し、佐藤は拭き取るメイク落としでクレンジングしていく。鏡を見て顔全体の化粧をあらかた落とせたのを確認したら、拭き取り化粧水を含ませたコットンでさらに顔をキレイにしていく。一撫でしただけでも、毛穴の奥に入っていたファンデーションでコットンに色がつく。

「やっぱ女子の化粧はたいへんだな、物揃えるだけでも金がかかりそうだ」

「ちょっと手を抜いたら肌が荒れちゃうし、それを隠そうと厚化粧したら、もう悪循環だよね」

 二人の会話にも、山田は入ってこなかった。午後授業の開始のチャイムが小さく響いてくる。

 セーラー服から詰襟制服に着替えも終わり、衣類のスプレーがけも済んだ。スマホを確認すると、糀谷からLINEの着信が来ている。その内容に満足して振り向くと、山田はなおも窓辺で微動だにしていなかった。

 ふと気になって歩み寄ってみると、山田は目を閉じて緩やかに息をしていた。が、すぐに目を開けて、二度三度まばたきをする。涙が一滴、右目からこぼれていった。

「あ、すみません、起こしてしまったようで」

「……なに、気にするな」

 山田がふいと顔を背け欠伸をする。佐藤はそれを目にしないようにそっぽを向いた。

「糀谷からも連絡がきました。先輩が出ていた動画を友人たちに見せましたが、特にスキャンダルの話にはならなかったそうです」

「そうか」

 山田は元の姿勢に戻った。窓枠に頬杖をついて、東の方を望んでいる。飛行機雲が山際のもっと向こうの方まで続いている。

「部長。今日は俺の無理に付き合わせて、すみませんでした」

 佐藤は頭を下げた。山田は振り向かず、「本当にな」と呟くのみだった。海場も作業の手を止めて、こちらに視線だけを向けている。

「それで、お詫びと言ってはなんですが、この後お茶でもどうですか?」

 佐藤の提案に、山田の瞳が一瞬こちらを向いた。険のある目つきではない、どこか佐藤ではない別のところをも見つめているようだった。

「……そうだな」山田の目が、また外を向く。「こっちこそ、詫びの代わりにちゃんと説明しなきゃならんだろうし」

 分かった、と山田は応じた。佐藤はふぅと一つ息を吐きだす。

 だが、山田が早くも腰を浮かしかけるには多少焦った。両手を挙げて制する。

「い、今からですか? 糀谷が来る放課後まで待ちません?」

「あぁ、……その通りだ」と山田はいすにもたれなおした。「まったく、どうかしてる……。少し寝させてくれ。ここのところ夜も寝れてないんだ」

「分かりました。あ、お店はうちのところで良いですか?」

 どこでも良い、と山田は答えた。本当にどこでも良いようであるし、単純に考える元気を持っていないせいかもしれない。信頼してくれているのであれば、それに越したことはないが。

 海場と目配せしつつ、佐藤は天文観測室を出た。階段の踊り場にあるいすに腰を下ろして、スマートフォンを取り出す。

 そして、自宅より先に、手元にある紙片の電話番号をタップした。


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