【3章 - 5】変わらなければならないもの


 帰宅すると、佐藤家は真っ暗だった。『松竹梅』のガラス戸には『本日臨時休業』の張り紙。母はパートに出ているはずだから、必然夕飯は自分で用意せねばならない。

「……めんどくせぇ」

 玄関から上がり、自室のベッドでうつ伏せになる。腹は減っているが、何かを作る手間が億劫だ。今は何をする気も起きない。叶うなら寝てしまって、そのまま翌朝を迎えてしまいたい。

 だが目を閉じると、山田の赤い瞳がまぶたの裏によみがえってくる。

 鋭利な視線でにらみつけ、それを前髪で隠すまでの流れも、鮮明に思い出せる。

 それだけ強烈で、凶暴な目をしていたから。

「……いや、違うな」

 強烈だったことに違いはない。

 しかし、それはむしろ逆のベクトルの強烈さだった。

 そうだ。弱々しくて哀しい、もう少しで泣きそうな目をしていた。

 瞳を隠す寸前に細めたのは、だから涙をこらえたからではなかろうか。

 では、なぜ山田さくらは泣きそうになったのだろうか。

 恐ろしかったからか、悔しかったからか、それかいったい……

 途端、スマホが震えた。尻のポケットから取り出すと、海場に勧められてダウンロードした音ゲー『スターライト・ステージ』から、システム更新のお知らせが届いていた。

「……ま、ちょっと遊ぶか」

 あまり積極的にプレイしていないが、たまには流れてくる丸や矢印に意識を集中させるのも良い。そもそも、山田のことはもう口出しするなと言われたのだ。ここは頭を空っぽにしよう。

 アプリを開いて、適当にグループとキャラを選び、豊富なカバーやオリジナルの音楽をランダムでプレイ。成績はどうでも良い、ひたすら画面に従って指を動かしつづけた。

 五曲くらいぶっ続けでやったところで、ストーリーが入ってきた。いったんスマホを置いて、首をひねる。変な体勢でやっていたせいか、ゴキゴキとすごい音が鳴った。

 画面を見返すと、キャラクターたちがファミレスに集まって、何かの話し合い中らしい。『今度は絶対成功させるにゃん』と、白髪ロングの【猫田ミサキ】が拳を握っている。

 背景画像に描かれたサンドイッチやフライドポテトに、思わず腹の虫が鳴き声を上げた。せっかくだ、そろそろ夕飯にしよう。何か簡単に食える物があれば良いのだが……

「……うん?」

 ふと、何かが引っかかった。改めて画面に注目する。

 場所はファミレスで、テーブルを挟んでソファー席が並ぶ。テーブルにはサンドイッチやフライドポテト、あるいはドリンクバーのグラスか。そして、佐藤が選んだ青髪ウェーブのキャラが眉を顰めている。『今度は何をするつもりなの、猫田さん?』

 あぁ、そうだ。こいつらはステージだろうとファミレスだろうと変わらないのだ。その口調も、その髪型も。違うのはステージ衣装ではなく、ブレザーだったり私服だったりする点だけ。

 いくら地下アイドルとはいえ、姿を隠さなければコアなファンが殺到しかねないと思う。髪型がそのままだなんて、いったい無警戒で何をやっているのか。まぁ、そうでないとプレイヤーが混乱するかもという制作陣の忖度があったのかもしれない。

 じゃなくて……

「そうか! 髪型だ!」

 アルキメデスよろしく、佐藤はベッドから飛び上がった。

 『スタ・ステ』のキャラも、ステージとプライベートで髪型が同じだ。

 そして、山田さくらも、舞台にいた時代と今日とで、髪型が変わっていないのだ!

 だからこそ、佐藤はゲームのキャラにツッコミを入れられるし、山田さくらが子役として活躍していたと知ることが出来た。

 だが、山田さくらにあって、それは本来ならあり得ない、あってはならない話だ。

 そのあってはならない話があり得るからには、それ相応の理由があるに違いない。

 その理由とは何だ? 動機は何だ? 根っこにあるものは何なんだ?

 山田さくらは、どうして髪型を変えなかったのか?

 ――思い浮かんだ回答に、佐藤は目を見開いた。

 スマホを持つ手がきつく握りこまれる。

 一人、口角を上げて笑う。

「……まったく。アンフェアだぜ」



 翌朝は、剣道部の朝練でも経験が無いほどの早起きをして、六時に家を出た。西の空には、冬の一等星がわずかに瞬いていた。

 そして、真横から朝陽を受ける変装部部室に入室。いすと机といくつかのものを集めてきて、準備を始めた。吹奏楽部もホイッスルも鳥のさえずりも聞こえない、静かな朝だ。

 しかし、所詮は慣れぬ手でやること。遅々として進まない上、形もひどい。

 トランペットのロングトーンと前後して部長が現れたとき、まだ準備は終わっていなかった。

 地味女子姿の山田は、部屋の入口でまず先客がいることに目を見開き、二歩踏み込んできて足を止めた。

「おッ、お前、何して……」

「決まってるじゃないですか、変装です」

 セーラー服姿の佐藤は片手にアイライナーを持って、平然と答えた。正面の鏡には、ムラだらけのベースメイクが乗る顔や色のはみ出した眉が映っている。

「へ、変装って、何に?」

「部長に、ですよ。運良く似たようなウィッグもありましたし」

 佐藤は視線で傍らの机に用意した茶髪のウィッグを示す。ショートと言うには長めな代物だが、色味という点では山田の地毛の色とも似ている、と思う。ただ、今見てみると思いのほか白っぽい。さっきまで赤みのある朝陽の中で見ていたせいだろうか。

 直後、山田がつかつかと歩み寄ってきた。

 佐藤の手からアイライナーをひったくり、

「このッ……!」

 張り手、一閃。佐藤はいすから転げ落ちた。

 特別強い一撃ではなかった。だが、あまりにも不意打ちだった。

 床に倒れ込んだ佐藤のスカーフを山田が掴み、引き寄せる。

 佐藤の眼前に山田の顔。いつの間にやらウィッグも眼鏡も取り払われ、強烈な視線が遮るもの無しに佐藤を貫く。

「勝手なことすんなよなぁ、てめぇ!」

 腹から出された怒鳴りに、さすがの佐藤も肝が冷えた。腐っても舞台にいた人間だ、迫力も声量も半端ない。

「どうせあたしの素の顔で校内でも歩いて、周囲は事件なんて知らないことを証明しようって言うんだろ? 調子乗ってんじゃねぇよ、ふざけんな!」

 部長がさらに佐藤を引き寄せる。セーラー服のどこかで糸の切れる音がした。

「事件はすでに終わってんだ! ジュリエットはすでに毒をあおった! 無関係なくせに、お前は何が不満なんだよ! しゃしゃり出てくるんじゃねぇ!」

 耳にギンギンと鳴り響く怒号。首と肩と背中もりそうだ。口の中に血の味が広がっていく。

「お、おはようございます」

 そこに、ジャージ姿の海場之也がおずおずと入室してきた。佐藤は目で救難要請をする。が、

「ユキ、しばらく出てろ」

 山田の一言に、海場が足を止めた。息を呑んで、たじろいでいる。

「……お、落ち着きましょう部長さん」海場が荷物を置き、ゆっくり寄ってくる。「何があったか知りませんけど……。ほら、手を出すのはダメです」

 もう遅いけどな、と佐藤が思った途端、山田が佐藤を突き放した。

 後頭部が床に激突。しびれかかった身体に痛みが突き抜け、悶える。ガチで火花が見えた。

 背を正した山田の肩を海場が持つ。だが山田はその手すらも振り払って、手近ないすに腰を下ろした。海場の視線が部長を見、それから女装しかけの佐藤を捉えた。

「かぐやちゃん、何をやってるの?」

「……ちょっと、部長に変装、してやろうかと」

 佐藤はゆっくりと起き上がりながら応じた。すぐに海場が背を支えてくれる。なんで、と問う海場に、思惑の一端を答える。階下でトランペットが小気味よいタンキングを鳴らす。

「だけどかぐやちゃん」と、海場は首を横に振る。「やっぱりそれは間違ってるよ。昨日も萌美ちゃん言ってたじゃない、世間の目もあるけど、これは部長さんの個人的な感情の問題だって。これ以上踏み込んじゃうのは、それこそフェアじゃないよ」

 そうだな、と佐藤はいちおう頷いてみせる。

 ちらと山田に目を向けると、拳が膝の上でわずかに震えているのに気づいた。

「……けど、部長」そのままの体勢で佐藤は口を開く。「部長も大概アンフェアっすよね」

「ちょ、ちょっと、かぐやちゃん」

 海場が慌ててたしなめる。それでも、佐藤は山田の背中に声をかける。

「津久井は部長に会いに来たんっすよ、謝りたいって。事件のせいで部長の人生を壊してしまったんじゃ無いかって、ずっと気に病んできたんです」

 山田の背中は動かない。それでも、佐藤は続ける。

「なのに部長は、津久井に会おうとしない。どうしてですか?」

「だから、それは」と海場が口を挟む。「その相手のことが、個人的に赦せないからって……」

 ふっ、と佐藤の口元に自然と笑いがこみ上げてきた。海場が動きを止める。

「確かに、津久井は赦せないことをしたかも知れない。でも、『赦せない』って言ったのは部長か? 違う、糀谷だ。あいつは知ったような口をきいてたけど、あれはあくまで一般論に過ぎない。こと部長に関して言えば……」

 佐藤はそこでいったん言葉を切り、手を伸ばして机の上のスマホを取った。

「論より証拠だ、ユキにおもしろいものを見せてやろう」

 海場が首を傾げる。スマホを起動させて、昨夜のうちに収集して置いた画像を表示させる。

「まず一つ、これだ」と、画面を海場に示す。

「あっ、【シャ・エト・ショコラ】の二人と撮ったのだ」

「そう。左後ろに写っている部長は、手に蜘蛛の巣のタトゥーを描いている」

「うん、【プチデビル】だったからね」と頷き、次に首を傾げる。「でも、それがどうしたの?」

「次のを見れば、おもしろいことが分かる」

 そう前置きして、佐藤は画面をスライドさせた。山田が舞台で踊っていた動画のスクリーンショットだ。海場は動画のことを知らなかったらしく、感嘆の溜息を漏らしていた。

 佐藤は、その【蜘蛛の妖精】が少年とつないでいる手を指さす。そこにも黒い紋様が描かれている。じっと覗き込んでいた海場が、やがて「あっ」と小さな声を漏らした。

「……模様が、一緒?」

「そうだ」と佐藤は肯んじる。「本当に当事者だと気づかれたくないんだったら、こんなことはしないはずだ。なのにこうした。結果、津久井は山田の居場所を知ってしまったんだ」

 津久井はすぐに気づいただろう。何せ【妖精】のほうは、『自分がやってた仕事』なのだ。

 山田はピクリとも動かない。膝の上で拳を握りこんだままだ。

「それにもう一つ」と佐藤はまたも海場に語りかける。「部長は事件のあったこの頃からほとんど髪型を変えていない。この【蜘蛛の妖精】と今の部長は、メッシュの有無こそ違うが……」

「長さとか、地の色味はおんなじだね」と海場も呟く。

「実際、俺はこの動画で部長が子役だったと気づいたしな。でも、過去を知られたくないのなら、本来あってはならない話だ。部長はそもそも、変装なんてしてる場合じゃなかったんだ」

「変装しなくて良かった?」海場がぷるぷると首を振る。「それはさすがに……」

「あぁ、言い方がマズかったか」と佐藤はうなじをかいた。「正しくは、今まで五年間もずっと変装しつづける意味なんか無かった、ってことだ」

 なおも首をひねっている海場。佐藤は「例えば」と胸を叩いた。

「俺が何かの犯罪をしたとしよう。そのくせ捕まりたくないと言って、警察から逃げる」

「そこは普通に出頭しようよ。お父さん、警官だったんでしょ」

「例えばの話だ。それでだ、俺はいったいどうやって人の目をかいくぐれば良い?」

 海場はしばらく考えるそぶりをした。

「やっぱり、変装すれば良いんじゃない? ウィッグかぶるとか」

「初めのうちは必要かもしれない。けど、数ヶ月もすれば人相なんて自然と変わってくる」

 海場はもう一度首を傾ける。佐藤は少し肩をすくめる。

「ただ、ちょっとこの答えは、ユキを傷つけちまうかもしれないな」

「へ? ……あっ」

 海場が手を叩いた。

「そうか、自然と髪を伸ばせば良いんだ」

 佐藤は首肯する。海場の表情が答えを得た喜びから、次第に驚きに変わる。

「え? じゃぁ、部長さんは」と海場が振り向く。「どうして、今も髪型を……?」

「髪だけじゃない、整形でも良いし太るのでも良かった。五年もあれば体型なんて簡単に変えられるだろう。変装やって素顔を隠すなんて、回りくどいことをしてるほうがナンセンスだ」

 佐藤はおもむろに立ち上がった。床に足をつけ、体をまっすぐに立てる。

「部長の口癖、変装にビフォーはない。……ですけど、部長にとって大切だったのは、むしろビフォーのほうだったんじゃないですか? 素の顔のほうを大切に取っておきたいからこそ、変装をして人の目を誤魔化すようになった」

「で、でも、なんでそんなことを?」

 後ろで立ち上がった海場が、どちらにともなく尋ねる。

「部長、本音を言ってください」佐藤はあくまで山田に目を向けて、「本当は……」

 直後だ。

 山田が立ち上がる。身を翻す。

 と同時に、いすを振り上げた。

「それ以上言うんじゃねぇ!」

 山田の腹からの怒鳴りがまたしても部屋に響く。

 顔は赤く染まり、鋭利な視線が突き刺さる。

 茶色のショートヘアも、獅子のたてがみのように逆立っているよう。

 海場が短く悲鳴を上げ、佐藤も後ずさった。

 だが、ここで引き下がってはいけない。引き下がったら、絶対に負けだ。

 佐藤は身構える。相手の目を見て、周辺視野で踏みだす脚や振り下ろす手を注視する。

 山田の肩が上下する。怒りに打ち震えているかのごとくに。

 だが、その震えは手に伝わり、いすもぐらついた。

「……、くそっ」

 やがて、山田がいすをほとんど投げ捨てるような勢いで床に下ろした。

 ガンッと相当大きな衝突音。吹奏楽部の音色は止まなかった。

 山田が顔を伏せ、表情を隠す。

 そして、長く大きな溜息をついた。

「……とりあえず佐藤」山田の声にも感情は窺えない。「顔洗って、メイクを落とせ」

「は?」佐藤もその返しは想像していなかった。「どうしてです?」

「そんな下手くそメイクで外出る気かよ。そんなんならリアルに泥塗ってる方がマシだ」

 言った直後、山田はほとんど崩れ落ちるようにしていすに腰を下ろした。

「……あたしの負けだよ、ったく……」



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