【3章 - 4】枯葉は思ったより強情
放課後。佐藤は一人、両手にパンパンのゴミ袋を持って校門近くの集積場に向かう。
立冬も過ぎたこの季節、前庭掃除は落葉との勝負だ。掃いても尽きることなく降ってくる落葉。さらには昨日の
歯がみしている佐藤を、帰宅の途につく生徒たちが怪訝そうに、あるいは哀れむように目で見ていた。それでいて、手伝うなんてそぶりはだれも見せない。
集積場のコンテナにゴミ袋を放り込んで、二三度払うように手を叩く。肌寒さを覚える空気の中に軽やかな響きが広がっていく。
さて、変装部部室に行って津久井対策の相談だ、と身を振り向かせる。
が、佐藤の視界の端に見つけた髪の
見つけたのは、二人の女子生徒の髪だ。片や腰を超すほどのスーパーロング。一歩を踏みだすごとに、竜が天を
そして片やボブカットの左側頭部からぴょこっと飛び出した小さな一房。風に吹かれ、さながらそこだけが別の意思を持っているかのようにそよめく。
なかなかユニークなセンスだ。あそこまで伸ばす人は金子以来久々に見たし、片方だけを飛び出すように結うのもそう多くあるものではない。
だが、佐藤をあの文化祭の時のように駆り立てるものは無かった。
どうにもインパクトがないのだ。あるいは、不格好だ。
大きくうねるスーパーロングは、残念ながら
もう一人も、髪型が浮いてしまっている。後ろ姿だけでも当人の丸顔の輪郭が想像される。理想の菱形に目指すなら、上に髪を盛る方がベストだろう。
そんな考えに至ったことに、佐藤は我ながら苦笑した。糀谷にも言われたが、ただでさえ変態なのに、それが理屈を身につけて評価を下しはじめているのは、輪をかけて変態だ。
あまりじっと見ているのも申し訳ない、さっさと移動しよう。
そう思った矢先、校門を抜けた二人の歩みが同時に乱れた。右を見て、何かに驚いている。それから、慌てた様子でそちらに背を向け、足早に駅の方面へと去って行く。
結局それも目撃してしまった。ふと、ある可能性に思い当たって一人顔を顰める。
意を決して歩み寄り、校門の右側に顔を出す。
――案の上だ。
「おい、津久井修」
佐藤の呼びかけに、昨日と変わらぬ姿の津久井がスマホから顔を上げた。
「や、やぁ」気まずそうに視線を逸らしながら、スマホをポケットにしまう。「昨夜ぶり……」
「もう二度と近づくなって、言ったよな」
「そ、そうだったね……、ほら、あれだよ、ちょっと通りがかっただけで、僕は……」
「ダウト」佐藤は指を突きつける。「間違いなく、待ち伏せしていた」
津久井は俯き、何も言わなくなる。
佐藤とて、言ってやりたいことはたくさんある気がした。ありすぎて、何から言えば良いのか分からないほどだ。
だが、窮極言うべきことは一つに過ぎないと思い直す。
だから、「ちょっとついてこい」と言って校門を出たのは、後ろを北八高生たちが声を潜めて通り過ぎていくからだった。津久井はいくらか距離を開けてついて来る。それを肩越しに確かめたところで、すぐ左にある駐車場へと足を向けた。
そこは学校の敷地ではなく、隣接している市立公園と市立体育館の駐車場だ。そこも抜けて園路に入り、落葉をカサカサと踏みつけて、赤や茶に色づいた木々の間で歩を止めた。
後ろで、同じ音をさせていた足音が止まった。
佐藤は身を
「お前のことは調べた」と口火を切る。「五年前に女子中学生とのわいせつ行為で失脚した特殊メイクアーティストだな。で、その時の事件の被害者が、山田だ」
津久井は首を動かさない。佐藤は意に介さず続ける。
「お前は凝りもせず山田を追いかけている。だが、もう山田はお前と顔を合わす気も無いし、そもそも事件の当事者であると気づかれることを恐れている。校内で不審者の噂も立ち始めているから、お前がいるだけで山田は……なんだ? 針の、うしろ……」
「……針のむしろ?」
「それだ」と佐藤はあえて平然と答える。「だから、これ以上つきまとわれると迷惑だ。お前だって、また警察の厄介になりたくはないだろう? だから、もう学校にも近寄るな」
佐藤として言いたいことは以上だ。感情的になればどんな罵声でも浴びせられるような気はしたが、そうまでする必要もないだろう。
津久井は学校の方を振り返る。
「……そうか」津久井が大きく溜息、「……そんなにも、彼女を傷つけてしまったのか」
顔の向きを戻した津久井。その表に浮かぶ、諦めや悲しみや悔い。そのあまりに生々しい表情に、佐藤は咄嗟に言葉を発することが出来なかった。
その間に、津久井は傍らのベンチに腰を下ろし、宙を見上げた。
「もう七年前か……。彼女と出会ったとき、僕は悩んでいた。さながらモンタギューの一人息子のように、時の流れを重々しく思いながら」
妙な語り出しに、佐藤は眉を顰めた。それでも津久井は一人語りを続ける。
「それなりに特殊メイクの腕も見込まれ、仕事も多くなってきた。その一方で、自分の本当にやりたい仕事が出来ているのかと、考える日々だった。任されるのは、役者に歳を負わせたり体型を変えたりと、別人の姿になるようなものばかり。その線が得意だったとはいえ、若かった僕はもっと斬新で派手なことをやってみたかった」
そのときに彼女と出会った、と津久井は言う。
「もちろん仕事でだ。けれど、一目見たときからその印象はすごかった。向き合う人にインパクトを与える目つき、演技でも知識でもなんでも吸収する聡明さ。けれども、それを十全に発揮させない内面の重さや暗さ……。とても、小学生だとは思えなかった」
佐藤の脳裏にも、津久井の言うような山田さくらがイメージさせられた。そう難しくはない。
「けれど、欲目かもしれないけど、僕のメイクを通じて彼女は変わった。外見が変わったことで、内面も変化をしたんじゃ無いだろうか。それまで彼女を縛り付けていた枷が無くなって、これまで以上に演技に迫力が出るようになったんだ。……彼女は、本当に喜んでくれたよ」
津久井は目をつむり、どこか思い出し笑いをするように口元をほころばせている。
佐藤は逆に眉を顰めた。どうしても、喜んでいる山田の姿が想像できない。それはきっと、津久井の幻想に過ぎないだろう。
「そんな純粋な彼女を見て、僕も救われた。斬新で派手なメイクで人の注目を集めるよりも、たった一人の心に良い影響を与えられるメイクが出来たことに、この上ない満足を覚えたんだ。僕が本当にやりたかったのはこれなんだって気づいた、彼女が気づかせてくれた」
通りの方を車が行き交う、その音はやけに遠いものとして聞こえた。
「そのときの彼女はまだ
「……『渋谷・サマーナイト・スクランブル』か?」
そうだ、と津久井が頷き、前髪を指先で払った。
「また彼女と一緒に仕事が出来るのはうれしかったし、再会したときにはもはや彼女とずっと一緒にやっていきたいとすら本気で思った。もちろんいけない感情だとは分かっていた。彼女は中学二年生になるかならないかで、僕は二十七になる身だった。それでも、僕にすれば彼女は特別な存在だった。仕事上の関係だけじゃ、もはやいられなかった」
「だからか」佐藤は長い語りにやや焦れて口を開いた。「彼女をホテルに連れ込んだ」
「……正しい言い方だとは思わない、それでも事実としてそうなのだから否定のしようが無い」
津久井は首を項垂れさせて、左右に振る。
「一連の公演が
風がひとしきり吹いて、頭上の紅葉を吹き流す。一部は宙を舞う落葉となる。
「確か彼女を呼んだあのときは、僕の作品をいくつか見せたんだ。彼女はおもしろがってくれたみたいだし、その以前からも僕の仕事について知りたがっていた。僕はその場で彼女に傷メイクを施してあげたりもした」
そして、と津久井。落葉がパラパラと地面に
「何を思ったのか……。僕は彼女に、
佐藤はつばを飲み込む。
「その部屋に彼女を追いかけてきた両親がやってきてね……」
「お前はその場で捕まり、スキャンダルとして世に知られることになった」
佐藤が締め、津久井は首だけで頷く。膝の上で合わせた両手の指を曲げ伸ばししている。
佐藤は津久井の姿を見下ろして、ひどい嫌悪感と同時に妙なシンパシーを覚えてしまった。
女装姿の海場に言い寄った自分、清花に妹の秘密をバラしてしまった自分。自分の軽はずみとも言える行動が他者を傷つけ、それに対し罪悪感と後悔を抱く。まるっきり似ている。
風は
「まず、どうして山田がここにいると分かった?」
「……SNSだよ」と津久井がポケットからスマホを取り出す。「偶然にも、彼女の写っている写真を見つけたんだ。そこに君たちがこの学校の生徒だってコメントも付してあったんだ」
これだよ、と示された写真は、なるほど山田がおずおずと猫の手ポーズをして写っている。ハロウィンの時に、【シャ・エト・ショコラ】の二人組と変装部四人で一緒に撮ったやつだ。
「よく、この写真で分かったな」
「そりゃ、自分がやってた仕事だからね」
やや誇らしげに、それでもどこか哀しそうに津久井は答えた。
「もう一つ」佐藤は姿勢を正す。「結局お前は、何をしに来たんだ?」
津久井はすぐに答えなかった。ゆっくりとした動作でスマホをしまい、息を長く吐きだした。五臓六腑から空気を絞り出し、そのまま縮んでしまおうかというような、長い吐息だった。
「……僕はここに、謝りに来たんだ」
謝る、と佐藤は胸の内で復唱する。
「さくらさんの前に自分の罪を
「……残念だが、無理だな」と佐藤。「身勝手なんだよ、お前は」
「そうかもしれない。……あぁ、素顔を隠して生きなければいけないほどに、僕はさくらさんを傷つけてしまったのか……」
津久井が両手で顔を覆い、いっそう項垂れる。さすがに言い過ぎたかと思った。
だが、同じ後頭部をずっと見下ろしつづけているのにも、そろそろ飽きてきたのだ。
足下に転がっていた石を遠くへ蹴り飛ばす。
「俺は学校に戻る」
あくまで淡泊な声音で告げた。津久井はそのままの姿勢で、首を頷かせるだけ。
佐藤は、若干言うかどうかで悩んだが、あえて口にすることに決めた。
「もしかしたら、この後に山田に会うかもしれない。もし言伝みたいなものがあれば、俺の気分次第では伝えてやらないこともない」
津久井は、なおも動かなかった。ただ身じろぎすらもしなくなっていた。
「無いんだったら、俺はもう行くぜ」佐藤は歩を踏みだした。「もう、二度と来るなよ」
津久井の傍らを行き過ぎる。それでも顔を上げない津久井に、佐藤は溜息をつく準備をした。
「……いや、やはり待ってくれ」
直後、津久井が慌てて立ち上がる気配があった。枯葉が踏まれて音を上げる。佐藤が半身に振り返ると、津久井は胸ポケットからカードケースを取り出した。
「君の言うことはすべて約束する。彼女に会うことは、絶対に諦める。第一、明日には東京へ帰らなきゃいけない身だ。二度と彼女の前に姿を現すこともないと誓おう」
津久井は数歩の距離を近づいてきて、佐藤に一枚の紙を差し出してくる。
「その上でだ、せめてこれだけはお願いだ。この名刺をさくらさんに……、いや、君が預かっていてくれ。そして、さくらさんが僕を赦してくれるようであれば、その時に渡して欲しい」
頼む、と津久井は頭を下げた。
駅のほうから電車の警笛が一つ、学校からホイッスルの音が高らかに響いてきた。
「……分かった。気が向いたら、そうしておく」
佐藤は名刺を受け取り、すぐに胸ポケットにしまう。そして、挨拶無しに脚を踏みだす。
津久井は最後まで頭を下げたままだった。
すでに人気の少なくなった校門を入り、再び積もりつつある落葉を踏み行く。生徒玄関で靴を履き替えるのもそこそこに階段を上がり、天文観測室へ向かう。
「遅いっ!」
部室では糀谷萌美が仁王立ちで出迎えてくれた。久方ぶりの傷だらけゴスロリだった。生のままの海場と【地味女子】の山田もいる。
「悪いな、掃除で」
「掃除でここまで遅くなるかしら?」
「違う。ゴミ捨てに行ったら、校門に津久井がいたから追っ払ってきた」
そう言った途端に、傷の縦断した右目が見開かれた。
「そ、それは大丈夫だったの?」と海場がおっかなびっくり聞いてくる。
「まぁ、何とかな。それに、明日は東京に帰るんだと言っていた」
「あ、そうなんだ。よかったぁ」
「ユキ、そう簡単に安堵しちゃダメよ」
胸をなで下ろしたユキに、糀谷が一言挟む。二人の向こうで、部長は特にリアクションも無く、いすの上で背を丸めている。文庫本を手に持っているが、ページを開けてはいない。
「かぐやちゃんは知ってるんだよね? 部長さんの過去のこと。ぼくたちもさっき聞いたばかりで、びっくりしちゃったんだけど」
「あぁ、知ってる」視線を海場に向ける。「さっき津久井にも一方的に語って聞かされた」
「それにしても、最低な男ね」と糀谷は真偽ない交ぜの傷が走った腕を組む。「まだ中学生だってのに手出して、一回痛い目に遭ってもまたつきまとってくるなんて。あんたもそうならないように気をつけなさいよ、佐藤竹寿くん?」
なんで俺なんだよ、と佐藤は文句を垂れる。糀谷はあえて何も言ってこなかった。
「二人とも、どうどう」と海場が間に入る。「とりあえず部長さんのストーカー騒ぎはなんとかなりそうなんでしょ? とりあえず一件落着ってことで良いんじゃないの?」
「ユキはほんと純粋ねぇ」と糀谷。「けど、相手は五年来のストーカーよ。そう簡単に諦めるかしら。東京に帰るとか言って油断させて、その隙に襲おうとか考えてるかもしれないわよ」
「そ、そう? ……じゃぁ、せめて今週くらいはみんなで部長さんに変装する?」
海場の声を耳に挟みつつも、佐藤は縮こまっている山田さくらから目が離せない。手が自然と、胸ポケット越しに名刺を気にしている。階下からは練習の中休みなのか、音は聞こえない。
その手をぎゅっと握りこみ、佐藤は意を決した。
「……部長、少しは会ってやったらどうです?」
「はあぁ?」
一番に声を上げたのは糀谷だ。海場も目を見張り、山田もさっと佐藤を横目に見上げる。
佐藤はそれでも一歩山田に近づいて、続ける。
「津久井は、言ってたんすよ、部長に謝りたいから来たんだって。たぶん、その気持ちは本当ですよ。何もこれ以上言い寄ろうだとか、あるいは復讐しようだなんて思ってないはずです」
「ちょ、ちょっと」糀谷が割って入ってくる。「急に何言い出すのよ。まさかストーカー男に同情とかしちゃったの? 変態同士惹かれあっちゃったとか、そんな馬鹿なわけ……」
佐藤は糀谷の目を見返す。糀谷はその視線に声を詰まらせる。
「いや、同情とか惹かれあったとかじゃない。そう……」佐藤は自嘲しつつ、「俺には分かる。俺もさっきの津久井みたいに、己の軽はずみを悔いることは多いからな」
「はぁ? 髪フェチ変態のストーカーの覗き魔の痴漢現行犯のシスコン色魔の秘密も守れないようなセクハラ野郎の鈍感髪フェチ変態くんが、後悔なんてするわけないでしょ?」
「お前、それ絶対言う練習してただろ……。ってか、俺を何だと思ってるんだ」
「だから、髪フェチ変態のストーカーの……」
「も、萌美ちゃん、いったんストップストップ」
海場が間に立つ。それから佐藤のほうに向き直った。
「それでかぐやちゃんは、部長さんがその津久井さんに会っても良いんじゃないかって言うんだよね? 別に危ない目に遭うようなことはないだろうからって」
そうだ、と佐藤は首肯で返す。だが海場は眉をハの字にする。
「だけどね、部長さんの気持ちにもなってみてよ? 部長さんにとっては、事件のことが周囲に知られること自体が、もはや恐ろしいことなんだよ。そのために、この五年間ずっと変装してきたわけだし、津久井さんとだって距離を取りたがってる。それなのに、急にそんな……、軽々しすぎるんじゃないかな?」
「それは、そうかも知れんけどよ……」
佐藤は返答に窮し、後頭部を掻く。口を切ったくせに、うまい言葉が見つからない。
別に項垂れていた津久井を擁護したいわけでもないし、腰の重い部長を批判したいわけでもない。もっと単純に、気楽に、過去と向き合えば良いんじゃないかと、提案したいだけなのだ。
けれど、海場の言い分ももっともだ。特に、五年もの長きにわたって素顔を隠し続けてきた部長の徹底ぶりを考えれば、そう簡単には――
いや、本当に徹底しているというなら、少しおかしい。
「なぁ、ユキは部長の素の顔も、以前から知ってたんだよな。この間も普通にしてたし」
「え?」と海場が首を傾げる。「あぁ、先々週の時雨模様だった日のことね。まぁ、ぼくの場合、初めて会ったときも部長さんは素の顔だったから。もちろん知ってたよ」
「じゃぁさ、その素顔を見て、五年前の事件のことって思い出したか?」
「ううん、そんなことはなかったな。ニュースはよく見るけどNHKばかりだから、バラエティーには疎くて」
「そうか」それから、佐藤は視線の先を転じる。「糀谷はどうなんだ?」
「わたし?」と糀谷が自分を指さす。「そりゃ、部長の素の顔は知ってたけど、だからそんな五年前のこととか、全然。だって小六だったし、情報系なんてまるで興味なかったし」
直後、糀谷が何か気づいたように目を開き、しかしすぐに佐藤をにらみつけた。
「わかった。わたしたちみたいに部長の素顔を知っていても、五年前のことなんて思い出しやしないんだから、どうせ誰も五年前のことなんて憶えてない。それなら、ちょっと会うくらい良いじゃないかって、そういう馬鹿げた理屈をこねようって言うわけね」
佐藤は頷く。早々から馬鹿げたと断じられるのは心外だが、要はそういうことだ。
それでも糀谷は「やっぱり考え無しの馬鹿ね」と言い切る。
「佐藤くん、あなたは二つのことをごっちゃにして考えてるんじゃない? 確かに佐藤くんの馬鹿げた理屈の通りなら、部長が世間の目を気にして津久井と会わないことへの
でもね、と糀谷は傷だらけの腕を組む。
「あたしたちが問題にしてるのは、部長のもっと個人的な津久井に対する感情なの。いい? 部長にすれば、津久井は自分の顔に泥を塗り、心に傷をつけた張本人よ。その傷は簡単には癒えないし、むしろ永久に自分を傷つけ続ける。わたしが何度も腕を切ったように」
佐藤は糀谷から目をそらした。言われてみれば、佐藤はこの事件に対する二つの側面を混同していた。むしろ、二つあることにすら気づいていなかったとすら言える。
「男のあなたには分からないでしょうけど、女性にとって男に接触される、人によっては接近されることは恐怖でしかないのよ。津久井のやったことは最低最悪、とても赦されることじゃない。それなのに、よくもヌケヌケと言ってくれるわね、この髪フェチ変態のス……」
パンッ。
と、山田が膝を叩いて立ち上がる。
糀谷が口を閉じて振り返る。佐藤も、海場も、怪訝な目を向ける。
その集中する視線の最中、山田は
ウィッグの前髪に隠れて、表情は窺えない。
が、
「……な、なんすか、部長」
佐藤はおっかなびっくり声をかける。
山田はゆっくりと、長く、全身で息を吸い――
「……っ!」
顔を振り上げる。
血走った目が佐藤を睨む。
歯ぎしり、筋肉のうなり、拳がピキリと鳴って、
腰の位置から突き上がる!
「きゃっ!」
海場の短い悲鳴、糀谷も息を呑む。
仰け反った佐藤の、顎の一センチ手前で、拳は止まった。
数瞬の間、音もなく、動きもない。
佐藤は二・三歩後に退き、そこに尻からへたり込んだ。尾てい骨から背骨に、痛みが駆ける。それでも、冷淡に見下ろしてくる部長からは、目が離せずにいる。
やがて、充血した瞳を一層細め、ウィッグの前髪で隠す。
「……帰る、戸締まりだけ頼む」
「あ、部長!」糀谷がその後を追おうとした。
「萌美ちゃん、その格好じゃ」と海場。「わ、ぼくが行くから」
糀谷が引き下がり、代わりに海場が荷物を持って部長に続いて部屋を出て行った。その足音が階下へと遠ざかり、吹奏楽部が個人練習を再開する。
「……な、何なんだ、あの部長は」
佐藤が尻をさすりながら立ち上がる。
出口を見ていた糀谷がくるりと反転して、佐藤に見下すような目つきを向けた。
「佐藤くんって、やっぱり悪い子だね」
「……お前まで何なんだよ、いきなり」
「悪い子と言うより無礼なのよ。人の傷口を無遠慮にえぐって広げて、余計な血まで流させるんだもん。そりゃ、部長だって怒るわよね」
佐藤は視線を落とした。スラックスの裾に濡れた小さな枯葉がくっついていた。
「しばらくしたら帰りなさい」と糀谷。「それで、この件には二度と口出ししないことね」
「……あぁ」
「そこはあぁなんて曖昧な答えじゃなく、しっかりハイと答えなさい」
佐藤はそれに答えず、枯葉を指でつまみ取った。泥汚れがまだ、裾に残る。
【次回更新は、11/16(火)の予定です】
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