【3章 - 3】妖精は踊り、少女は姿を見せない


 店側から自宅に入る。カウベルの涼やかな音が緊張した心を幾ばくか和ませてくれた。

「おぉ、帰ったか、竹寿」

 髭面の父がカウンター席で振り向いた。ノートパソコンで帳簿をつけていたところらしい。

 その目はすぐに、一人息子の手中を捉えた。さっきすっぽ抜けてしまった傘の本体だ。

「その傘、どうしたんだ?」

「ちょっと振り回したら折れちまった」

「何かトラブルがあったんじゃないだろうな?」

 父の目つきが鋭くなる。警察官の感覚は健在ってか。

 そして、あながち間違いではない。

 が、説明するのも億劫だ。佐藤は首を振った。

「別に。大したことじゃない」

「事件ってのは大したことじゃないと放置したものが、結果的に重大になったりするんだ」

 お説ごもっとも。それでも、

「俺にも秘密の一つや二つあるんだ」

「……そうだったな」と父はようやく姿勢を戻した。「何か困ったなら早めに言えよ。それに、時には頼ってくれ。何もかも秘密にされちゃ、出る幕を失った親は寂しいってもんだ」

「分かってる、ありがとよ」

 返事だけ殊勝顔しゅしょうがおで口にして、キッチン脇の縄暖簾なわのれんをくぐる。

 第一、困っているとしたら、それは自分ではなく山田のほうだ。『ツクイオサム』という名の男につきまとわれて――

 ふと、頭に疑問がよぎった。

 ――なぜあいつは、自分の名前を明かしたんだ?

 流れから咄嗟に尋ねてしまったが、別に向こうは名乗らずとも良かったし、そもそも素性を隠さないというのもそれはそれで不審だ。最後の意味深な言葉も気になる。

 自室のベッドに腰を落ち着けたところで、スマホを取り出して『ツクイオサム』を検索する。

「……あった、やけに簡単だな」

 それはフリーのネット百科事典のページだった。表題は『津久井つくいおさむ』。こんな字を書くのか。

 次の行の概要に視線を移した瞬間、佐藤は眉をひそめた。

「……女子中学生へのわいせつ行為で、執行猶予判決? なんだよ、やばいやつじゃねぇか」

 そんなのを相手にしていたとは、自分でも信じられない。急ぎ記事の続きに目を通す。

 曰く、事は五年前。津久井は宵の口頃に中学二年生の女子をホテルに呼び出し、強制的にキスをしたなどとして、強制わいせつの容疑で逮捕されていた。

 胸の内で心臓が嫌に脈打ち、手汗が仄かににじむ。

 つまり、あいつは過去に懲りることなく、また未成年者を追いかけているのか。みすぼらしいなりや神経質そうな癖、そのわりにめげない野郎だ。

 佐藤は一度姿勢を改めて、再び記事を頭から読み直した。だが、相手の人となりをそれ以上知ろうにも、めぼしい情報は事件以外にほとんどない。

「……ん?」

 矢先、末尾の『関連項目』の欄に気になる文字列を見つけた。

 『渋谷・サマーナイト・スクランブル』というリンクの横にある注だ。

「……特殊メイクを担当?」

 ちらと自分のカバンを見た。女装も一種の特殊メイクだろうし、【ゾンビ】などその極地だ。今の佐藤が、そのワードが気にならないはずもない。即座にタップしていた。

 『渋谷・サマーナイト・スクランブル』自体は、五・六年前に上演されたミュージカル劇らしい。シェイクスピアの戯曲をアレンジしたもので、渋谷のスクランブル交差点を舞台に、若者と妖精たちの惚れた腫れたの恋愛模様を描いた。公演は全国三都市で行われたそうな。

 で、津久井修はその中で【妖精】の特殊メイクを担当したらしい。

 時期的に考えれば、この直後くらいに事件を起こしたことになるだろうか。

 掌にかいた汗をスラックスで拭う。

 記事に舞台の画像は無かった。タイトルをコピーして、改めて検索をかけてみる。

「……お、動画があるじゃん」

 一番上に出てきたサムネイルをタップする。

 動画はやけに中途半端なところから始まった。

 人間の若者らとちょうのような羽根を背に持つ妖精たちが、入り乱れてダンスをしているのだ。

 アップテンポなBGMと信号やビルの照明が明滅する舞台背景を負い、二人一組で手をつなぎ、足を踏みならし、跳んで屈んで回って伸びあがる。客席にまで入り込んで踊っているのもいて、観客も手拍子でそれに応えている。

 内容も演出も訳が分からないが、ただ見ているだけでも楽しい気分になるようだ。カメラワークも小気味よく、モンタージュやアップショットを使い、リズミカルに編集されている。

 何よりも妖精たちの造形がおもしろい。子役が起用されているらしい小さな妖精たちには、藤の花やありつばめや雨など、それぞれにモチーフがあって、それらしいメイクやアクセサリーで着飾っている。どれ一つとして同じ姿がない。

 共通しているのは、きらびやかな蝶の羽根と長い耳だ。特に耳は、とても偽ものとは思えない。イヤリングの穴も産毛うぶげの光り方も、まさしく本物らしいのだ。こんな妖精が確かにこの世に存在するかのようだ。

 あるいは、ここが特殊メイクアーティストだった津久井修の仕事だったのかもしれない。だとすれば、腕は本当だ。佐藤はしばし、事件のことを忘れてその映像に見入り――

 咄嗟に動画を一時停止させた。ダンスの動きが止まる。

 佐藤は画面に映った一人の妖精に目をこらす。少年と手をつなぎ踊っていたところの、妖精。

 蜘蛛くものような八脚の虫をかたどったヘアアクセサリーが彩るのは、黒のメッシュが混じった茶髪のショートヘアだ。ライトの輝きの中くっきりと浮かび上がるその二色の髪は、そのキャラクターのやんちゃさや残忍さ、あどけなさや狡猾こうかつさを感じさせる。まるで少年らしくも少女らしくも見える、不思議な蜘蛛の妖精。

 だが、佐藤の目には、そのキャラクターの別の面が見えていた。

「……こいつ、もしかして……?」



 借りた女装用具を返さなければいけないし、勉強道具の回収もある。佐藤は翌朝早くに学校に向かった。剣道部で朝練を積んでいた時期以来の七時登校だった。

 吹奏楽部もまた個人練習を始めたところらしかった。音楽室のドアが開いていて、てんでバラバラな音が耳を刺す。

 それに紛れるようにして、屋上階へのドアをくぐった。

「早いな、佐藤」

 天文観測室では早くも登校していた部長が、黒長髪のウィッグを手入れしていた。スタンドにかぶせて、専用のくしを通している。茶色のショートヘアの下にある横顔も、ただ一心に手元の作業に集中しているようだった。

「なまってるだろうと思ったが、体が覚えていたな」佐藤はバッグを傍らの机に置いた。「夜のうちにウィッグは洗ったし、服にもスプレーはしておきました」

「あぁ、助かる。出しといてくれ」と部長は目を合わせることなく応じる。「こっちも、昨夜のLINEはさっき見た。男に声かけられたそうだな。何もなかったか?」

 何も、と佐藤はバッグのジッパーを開けながら答えた。それは嘘ではない。お前はストーカーだと脅したら、『津久井修』という名前だけを残して簡単に帰っていった。LINEで伝えた以上のことは、何もなかったのだ。怪我もしていないし、脅しつけられてもいない。

 ただ、確信に至らなかったが故に、その後のことを伝えていなかっただけだ。

「おい、さっさとウィッグを返せ」と山田。「こっちも今日は授業に出たいんだ」

 佐藤は口を開かず、バッグからウィッグを収めた箱を取り出した。それを持って、山田の横に立つ。部長はこちらに目を向けることなく、手だけを出してくる。

 佐藤は姿勢を変えず、糀谷清花さやかに習ってをかけてみた。

「……部長って、子役、やってたんですね」

 数瞬の沈黙が、二人の間に差し挟まった。

 吹奏楽部の音が、間合いを埋める。

 その間合いこそが、山田の回答を如実にょじつに語っていた。佐藤は息を吸う。

「……早く返せ」

 言うが早いか、山田は箱を取り上げた。別のウィッグスタンドを用意して、中身をかぶせる。

 それから、一つ長く息を吐きだした。

「どうして、分かった?」と山田は抑揚のない声で問うてきた。「津久井修の名が上がった時点で、遅かれ早かれ気づかれるとは思っていたが、意外に早かったな」

「舞台の動画がありました。『渋谷・サマーナイト・スクランブル』……。部長の髪、その時からほとんど変わってなかったので」

 変態め、と山田はぼやいた。櫛を持った手を動かし始める。

「……そこまで来たのなら、あたしがこいつをかぶる理由も、どうせ分かってるんだろ?」

「あぁ、はい。……部長が、津久井の事件の、相手だったんですね?」

 今目の前にいる山田さくらは、高校三年生。公演があった五・六年前は中学二年前後だ。時同じくして逮捕された津久井の容疑は、中学二年の少女に対する強制わいせつ容疑。

「その通りだ」と部長は躊躇うことなく、肯定を口にした。「無関係なわけがない」

 佐藤は言葉を詰まらせる。あまりにあっさりと応対されるせいで、話の続け方が分からない。

「……言うことはそれだけか? 人の秘密をあばいといて、ほったらかしかよ」

「あ、あぁ」佐藤は慌てて言葉を探し、「……たいへんでした、ね?」

「そんな言葉で片付くものか」鼻で笑われた。「十八年弱の人生における最大の汚点だ」

 だいたい、と部長が手を止めることなく続ける。

「子役なんてものになったのも、それを辞めさせられたのも、全部親の一存だった。女優になる夢を叶えられなかった母が娘に自分の夢を押しつけ、元より反対だった父がスキャンダルを機にあたしをこっちに連れ戻した。それだけのことだ。あたしは一度として、なりたいと言ったことも辞めると言ったこともなかった」

 ウィッグスタンドの向きを変える。毛についていたほこりを指で取る。

「そのくせに、あたしの過去と心身には、スキャンダルという汚点がべったり付着している。きっと履歴書を書くたびに思い出すだろう、まったく馬鹿げている」

「……それで、部長は素顔を隠すようになったんですね」

 佐藤はようやく口を挟んだ。「ああ、そうだ」と山田もがえんじた。

「あたしはもう普通の人間でいたいんだ。スキャンダルの当事者なんて顔は、だれにも見せたくない。だからあたしは身を守るための擬態として変装を選んだ。義経よしつね一行が山伏やまぶしに扮して安宅あたかの関をくぐったように、あたしは地味で普通な女として学校に通う。そうやってこれからは、自分を、だれをも、傷つけないようにして生きていく」

 それなのに……、と呟いて、山田はそれきり語るのを止めてしまった。手だけは動かしつづけている。前髪の長い重たげなウィッグがその形を整えていく。

 それなのに、か。

 佐藤は足音を立てないようにその場を離れ、荷物の出し入れを済ませたら、早々に天文観測室を後にする。山田と視線が合うことは、ついぞなかった。



 人のいない一年四組の教室で、佐藤は朝寝としゃれこんだ。

 定例の八時のチャイムで目を覚まし、大きく伸びをする。辺りを見回すと、すでにいくらかの生徒が来ていた。糀谷萌美の姿もすでにあって、中谷や古島とおしゃべりをしている。中谷が腕をさするのと同時に、金色の髪が揺れる。

 一瞬だが糀谷と視線が合った。何か意味を感じたが、すぐにその目は友人二人に向けられ、やがて連れ立って廊下に出て行った。

 その一軍と入れ替わりに、暗い人影が現れた。

 何のことはない、東翔兵が今日もまた項垂れてやってきたのだ。

 その目線が持ち上がり、教室中を見回す。

 ――と、佐藤を見つけて眉尻を下げた。

「……さ~と~う」

 早足になってこちらにやってくる東。

 佐藤は席を立って、逃げるように教室前方に向かった。

「逃げるなよー」

「じゃぁ追ってくるなっ、気持ち悪い」

「うっ……、そうか、気持ち悪いのか、俺は……」

 東が教卓に突っ伏す。「だから、金子ちゃんは……」などと呪詛じゅそが聞こえてくる。自分をおとしめるための呪詛らしく聞こえた。嗚咽おえつするかのように肩をも揺らしている。

 佐藤は前方のドアのところで足を止めた。溜息を漏らしつつ、東の元に歩み寄る。

「……なぁ佐藤」東は突っ伏したまま。「俺、金子ちゃんに嫌われたよな。こんな時間なのに来てないとか、普段の金子ちゃんじゃあり得ねぇ……。昨日の放課後も、挨拶無しで帰っちまったし。絶対、俺と同じ空気を吸うのもイヤなくらい嫌われたんだよ」

 大げさな、と言いかかるのを、なんとか喉で留めておく。

「何が悪かったんだろうな。模型趣味を持ってることか? それを隠してたことか? 一人で模型で遊んでたせいか? それとも、謝り方がマズかったのか? 俺はあの場で土下座しておくべきだったのか? それとも、何か詫びの品を……」

 どっちにしても俺だったら引くな、と佐藤は思った。金子はどうするか知らんが。

「あぁしかしもう二日経ってしまった。今さら何と言って頭を下げ、品を差し出せば良いのか。いや、今更謝ったところで下心ありありのアピールプレーにしかならん。……もはや手遅れだ、手遅れなのだよ佐藤くーん」

「しなだれかかってくるな」

 さすがにこちらに伸ばしてきた腕は払いのけてやった。東は二・三たたらを踏んで、金子の席に手をついた。途端に飛び上がる。まるで触れてはならないものに触れたかのように。

 もう、何もかもが大げさだ。

「……まぁ、なんだ東」佐藤は教卓に頬杖をつく。「恋愛ってのに失敗はつきもんだろ。そんな一回の失敗くらいでしょげるな。何度もチャレンジしてみろ」

「佐藤……」東がわずかに顔を上げる。

「俺なんか何回失敗したか知れたものじゃねぇぜ。清花さんもだし金子もだし、毎年一回くらいは告白してその場で玉砕してるぞ」

「……文化祭でも失敗したらしいしな」

 東の言いにちらと視線を向けると、何か獲物でも見つけたように唇を持ち上げている。

「俺に構ってる場合か」佐藤は機先を制する。「どうやって失敗を克服するかを考えろ。謝罪文書くとか……」

「そ、そうか、謝罪文かっ」

 声を張り上げ、すぐさま席に戻っていった東。佐藤が横目で観察していると、バッグから取り出したルーズリーフにペンを走らせ始めた。

 もう、どうでも良い。佐藤はトイレに向かう。

 が、そのトイレの前に立つ糀谷が、佐藤を見つけて手招きしてきた。

「なんだ、糀谷」

 佐藤が近寄り訊ねると、糀谷は口に手を当てて、「ここだけの話」と小声を発する。

「さっきね、緋葉里から聞いたんだけど」

「古島から?」

「先週の半ばあたりから、校門付近に変な男がいるっていう噂が広まってるらしいの」

 佐藤は目を見開く。彼女も眉間にわずかながら皺を寄せている。

「それって、津久井のことか……?」

「たぶん。しかも先週の半ばってのが気になるわ。単純に考えて、もう一週間もここにいるのよ。あいつって未成年者への強制わいせつで捕まったんでしょ? それで……」

 そこで糀谷は言葉を切った。直後に、後ろの女子トイレから中谷と古島が出てくる。

 また後で、と小声で言い残し、糀谷は友人二人と教室に戻っていった。ツーサイドアップの髪が楽しそうに左右に揺れ、やがて姿を隠した。

 佐藤は後頭部をガシガシと掻いた。このストーカー事件、思っている以上に根が深そうだ。


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