【2章 - 3】放課後の侵入者と一枚の学生証


 昼休みに少しだけ糀谷萌美と話すことが出来た。その折に清花からの電話が来て、昨日のがバレたかもしれないことを謝った。糀谷は盛大に溜息を漏らした後で、「あんたは気にしなくて良い、元から信用はしてなかったから」と言って足早に立ち去っていった。

 そして放課後になった今、改めて声をかけようと、挨拶もそこそこに糀谷のほうへ足を向ける。足の痛みは幾分引いていたが、それでもまだ体重をかけるとがあった。

 そのためか、佐藤が教室の半ばまで横切ってきたところで、荷を整えた糀谷はすぐさま最前センターにいる金子のもとへ向かっていってしまった。佐藤はその場で足を止め、見守る。

「みっちゃん、何度も言うけど、昨日はほんとにゴメン」

「……うん、うちは別に良いよー」

 金子が顔を上げた。佐藤の角度からはその表情は窺い知れない。ポンパドールの髪留めにあしらわれている茶と赤の紅葉が少し揺れた。

「そ、それでさ、もし良かったらまた……」

「おーい、みっちゃーん」「帰るよー」

 教室後方より中谷と古島の声。金子は振り向いた。

「はーい……。ゴメン、もえちゃん、呼ばれちゃった。また明日」

「あ、うん……。また明日ね」

 糀谷が身を引いた。金子がジッパーの開いたままのバッグを手にトテトテと行ってしまう。

 教室にいるだれもが身支度みじたくを急いでいる。月曜は七限まで授業があるので、放課後の時間に余裕はない。日直の女子も黒板掃除をそそくさと終えて教室を出て行った。

 その中で一人、糀谷は教卓にもたれて動かなくなる。今度こそ佐藤は歩み寄って声をかけた。

「行かなくて良いのか?」

「……ゆう緋葉里ひよりも、みっちゃんしか呼ばなかった。わたしなんか、もうお呼びじゃないのよ」

 糀谷は双房の髪を項垂れさせている。佐藤は思わず眉を顰めた。

「なんだよそれ、お前ら仲良かったじゃねぇか」

「そう、仲は良かった。……すべて過去のことよ。全部、昨日のあの瞬間に変わってしまった」

「今朝も普通に話してただろ」

「あれのどこが普通だったって?」糀谷が佐藤に顔を近づける。「いつからあんなことやってるのとか、あのアイドルみたいな子たちは、とか質問攻めにされて、それのどこが? あっ……ゴメンねぇ、さとーくんは女の子じゃないもんねぇ、だから分からないよねぇ、ゴメンねぇ」

 唐突な糀谷のアニメ声。顔に手を添えるようなポーズの彼女を、佐藤は真顔で見つめ返す。チョークの粉がいまだ静寂の合間に漂っている。鼻に少しばかり刺さるようだ。

 佐藤が、部室に行こうか、と声をかけようとした。その時、

「あっ、萌美いた!」

 唐突に教室に響き渡った大きな女声。教室に残る皆が一斉に戸口を見た。

 そして、二名を除いて目を点にする。

 ベージュのブレザーに赤のネクタイを着込み、グレーのスカートとライトブラウンのニーソックスの間の領域が眩しい。が、明らかに他校の人物である。スカートの裾やニーソックスに、先まで降っていた秋時雨しぐれの濡れ染みが残っているのも、外部から来た人間だと認識させる。

 その正体を、しかし二人だけは知っていた。糀谷と佐藤は同時に声を上げる。

「ね、姉ちゃ……!」「清花さん!」

 清花は集中する奇異と驚愕の視線を意にも介さず、ずかずかと教室に入ってきた。ポニーテールが左右に大きく揺れる。いかにも威勢が良い。が、同時に少しおっかない。

「清花さん、どうしてここに?」先に口を開いたのは佐藤だった。

「どうしてって?」清花は二人の前で足を止め、腰に右手を当てた。「校門から堂々と入って、すぐ近くの外階段を駆け上がったらここに来るってことくらい、学園祭来た時に把握してたわ」

「いや、そういう意味じゃなく」

「それにしても警備員の一人も雇ってないとはね。うちも警備費用を授業のほうに回して欲しいものね。そしたら進学率も上がって、生徒も集まるんじゃないかしら?」

「こっちは授業料の一部を警備に回すべきなんでしょうね……」

 佐藤は首を横に振る。糀谷萌美は黙りこくってしまっていた。

「タケくん、改めて報告ありがとね」清花はそれらを意に介さない。「それじゃ萌美、行くよ」

「い、行くって?」と萌美が姉を見上げた。姉妹で頭一つ分くらいの身長差がある。

「塾よ、塾。これから手続きに行くの」

「手続き? でも、今日は塾は休み……」

「あぁ、あそこの塾は明日にでも退校手続きしに行くわ。そっちじゃなくて、別のところ」

「別?」

「そう。最近の塾ってすごいのよ。タイムカードみたいなもので出席を付けたら、自動的に保護者のところにメールが行くようになってるらしいの。ハイテクよね」

 萌美も佐藤も、言葉を返せなかった。

「もちろん授業も素晴らしいって聞くわ。AIよAI、流行りよね。入校テストやこれまでの成績から、一人一人に合った授業のスケジュールも作ってくれるの。窮極の個別指導よ」

「……い、良いよ、今のところで」と糀谷が半歩足を引く。「こ、これからは休まないから」

「嘘ね」清花は妹の腕を掴む。「どうせ誤魔化ごまかして休むに決まってる。そういうのは癖になるの。でもね、そんなこと繰り返してると人から信用されなくなるわ」

 痛いところを突いてくる、と佐藤は感じた。現に糀谷は友人らに見放されつつあるのだ。

 糀谷がどんな感情を抱いているか、後ろ姿からは窺い知れない。髪の毛が一本、セーラーの襟に乗っかって渦巻き状になっている。

「だから今のうちに厳しくやっておかないと、将来やっていけなくなるの。……ねぇ萌美、これはあなたのこと思って言ってるのよ。あなたの将来のために今必要だから、厳しいかもしれないこと言ってるの。そこのところ誤解しないでよね。だけど、全部あなたのかてになるわ」

 萌美は何も言い返せなくなっている。佐藤も何か言ってやりたかったが、何と言えば良いのかも分からないし、姉妹の事情に口を挟むのもお門違かどちがいに思える。

「さ、お母さんも外で待ってるから」と清花が掴んだ腕を引っ張った。「早く行きましょ」

 あっそれと、と清花の視線が佐藤に向いた。思わず、ぎくりとしてしまう。

「タケくん、ほんとありがとう。また遊びに行くからね」

「え、ええ、お待ちしております……? あ、こ、糀谷……!」

 佐藤の呼びかけに応じる間もなく、清花は妹の腕をつかんだまま、糀谷萌美は二房の髪を項垂れさせたまま、教室を出て行った。

 佐藤だけが、いつの間にか人のいない教室に残されていた。

「……くそ、またやっちまった……」

 一人、拳で太ももを叩きつける。二度三度と叩きつけて、足首に痛みが響いてきたので止めた。それでも自分の中に巣くう罪悪感は消えない。大きく息を吐き出す。

「……部室でも、行くか」



 吹奏楽部は休みらしく、練習の音は聞こえてこない。静けさの中、薄暗い階段室を上がると、天文観測室からは二つの声がした。

「……クラスはどうだ?」

「……あの距離感が、ちょっと、……見てる分には、おもしろいんですけど」

 部長の問いに、ユキが答えているようだ。プライベートな話とは珍しい。

 ドアを開け、暗幕もめくり上げる。「おーす」と声をかけると、四つの目がこちらを向いた。

「……あ、かぐやちゃん、お疲れさま」

 その内の二つ、黒長髪を背に流すセーラー服姿の生徒が小首を傾げる。サイドの髪が重力に引かれてこぼれ落ちた。

「あぁ、ユキか」佐藤は少なからず見惚れつつ口を開く。「その格好は久しぶりだな。いつになくお似合いだぜ」

「そ、そう? ありがとう」女装姿の海場之也が微苦笑まじりに応じる。「かぐやちゃんが見るのは、文化祭で告白されたとき以来だっけ?」

「たぶん……、いや、その後一回、この部室まで誘い出されるときに」

「あはは、そんなこともあったね」

 海場の笑みはどことなく引きつっている。加えて、そこに居るもう一人のほうに、どこか気遣うようにチラチラと視線を向けている。

 佐藤もそのもう一人――本校セーラーを着た女子生徒のほうに視線を転じた。

「……それで、ええと……」

 佐藤は言葉に詰まった。彼女の鋭いまなざしに、知らずたじろいでしまう。

 髪は明るい茶色のショートだった。無造作なようでありながら、一束ずつワックスか何かでまとめられていて、おのおのに存在感を放っている。その勢いとリズムが、視線の鋭利さとも相まって、さながら獅子のたてがみのように感じられる。

 ショートヘアでここまで味があるというのは、なかなか多くはない。少なくとも、佐藤の記憶にはなかった。

 それはすなわち、その獅子のような少女が初見であるということだ。

「ちっ、やっぱり来やがったか」

 その彼女が小さく悪態をこぼした。海場が視線を狼狽うろたえさせながら、手で少女を示す。

「……あ、あのね、こちらは山田さんっていって、えっと……」

「何も言わなくて良い、ユキ」

 『山田』と呼ばれた少女が海場を制する。佐藤は思わず眉根を寄せた。海場のことを『ユキ』と呼ぶそのアルトボイスにデジャブを感じたのだ。

 山田は傍らの机に置いたスクールバッグから何かを取り出し、こちらに投げてきた。咄嗟に佐藤は胸に抱えこむようにして受け止める。

「それを見てみろ」山田がぶっきらぼうに言う。

 佐藤が手の内を見てみれば、それは生徒手帳だった。人工皮革のカバーにはカードを入れるためのポケットがあり、IC定期券が収まっている。北八里きたはちり駅を起点に、北方の丘陵地に広がる新興住宅団地『桂都けいと』へと至る、私鉄線とモノレール線の通学定期だ。

「こ、これがどうか……?」

「ったく、いちいち面倒だな」山田が再び悪態をつく。「内側だ、学生証を見ろ」

 言われるまま、佐藤はカバーを開けた。確かに内側のポケットに北八里高校の生徒であると示す学生証が入っている。氏名の欄は『山田さくら』。

 顔写真を見て、やっと得心がいった。野暮ったい黒髪が眼鏡すらも半ば隠す、その容姿は、

「なるほど、部長が変装してるんですか。そっちの格好、というか髪のほうが良いっすよ。中性的な味があって、好感が持てま……」

「何もかも逆だ」

 逆? と佐藤が顔を上げると、山田は窓辺にあるものを指さした。そこでは濡れたらしい臙脂えんじのジャージがハンガーで干されている。その傍らには、黒のウィッグが形良く乾かされ、眼鏡が置かれている。

 佐藤はすぐに言葉が出なかった。しばらく口をポカンと開けたまま、窓辺のものとそこに座る山田と手の内の学生証の写真とを順繰りに見ることしかできなかった。

「妙な顔しやがって」と山田。「まだ疑ってるのなら、この茶髪を引っ張ってみろ」

「いや、どうせセクハラとか何とか言われるのがオチじゃないんすか」

「今回だけは構わない。なんなら一本か二本持っていけ」

「何か誤解してませんか」佐藤はさすがに眉を顰めた。「俺は髪フェチですけど、そんな猟奇的なことをしてまで、女の子の髪を愛でたいわけじゃない」

「……面倒なやつ」

 そう嘆息し、山田は自ら茶髪をつかんで引っ張りだす。口元がひくついている。

 もう良いです分かましたから、と佐藤が言って、山田はようやく手を離した。乱れてしまった髪を指先で整える。

「つ、つまり……」と佐藤。「部長はずっと変装してたって、ことっすか? 身分詐称さしょうとか公的文書の虚偽記載とか、そんなことをしてまで?」

「そ、そうなるのかな」と海場が口を挟んだ。「あのね、これには訳があるらしくって……」

「ユキは言わなくていい。それくらい、自分で明かす」

 山田が即座に制した。足を組んでいすに深くもたれ、どことも知れぬ角度に息を吐き出す。

 佐藤は、そんな部長の姿に、意外にもキレイだという印象を覚えた。茶色の髪は自然に光を乱反射し、人目を惹きつける。ほどよく焼けた頬にしろ組まれた両脚にしろ、肌も実にきめ細やかだ。左目の傍にある泣きぼくろは、チャームポイントというべきだろう。

 あるいは、単にキレイと言わず、見る人にある種の凄みを与えるかもしれない。

 強さと弱さが奇妙に同居しているような、そんな雰囲気が漂ってくる。

「……あたしはな」と山田がおもむろに口を開く。「とある過去の事情から、素顔を多くの人に見せたくないんだ。だからいつも、地味で野暮な女を装っている。入学の時から、登下校の間、学校の教室、ずっと素を隠したまま過ごしている」

 山田が観測ドームに視線を上げる。また時雨しぐれ始めたのか、パラパラとした音が反響する。

「この部室はそもそも、あたしが見つけた巣穴だった。この世で唯一、素の自分でいられる場所。今年に入って、萌美が来てユキが来て、さらにはお前まで居候いそうろうしだしたがな」

「はぁ、なるほど」と佐藤は相槌を入れた。「ところで、その、過去の事情ってのは……」

詮索せんさくするな、変装にビフォーはない」

 山田がぴしゃりと言ってのける。鋭い視線に、佐藤は一瞬ひるむ。

 だが、山田はすぐに目を伏せてしまった。

「言っておくが、はぐらかしたいわけじゃない。……あたしの過去と顔には、拭い去ることの出来ない泥がべったりと付着している。それをだれにも知られたくないだけだ。お前はもちろん、萌美やユキもだ、今までだれにも公言したことはない」

 佐藤は横目で海場を窺った。彼も緩やかに首を横にした。黒長髪の毛先がゆっくりと踊る。

「人間、だれしも自らを装う」

 山田の箴言しんげんめかした口調に、佐藤は再び視線を戻した。

「片や、見て欲しくない部分や見せられない姿を、胸の内に秘する。片や見せたい部分や見て欲しい姿をあえて明らかにする。そうやって自分というものを装い、他者と円滑なコミュニケーションを図り、良好な人間関係を作り上げ、世間とか社会とかいうものを築いてきたんだ」

「……そういうもんすかね」

「良い例が身近に一人いるだろ。まさに、糀谷萌美という人間がそれだ」

 佐藤の脳裏に、クラスでの糀谷萌美の姿が浮かんだ。学級委員として率先して行動していた糀谷。人の仕事も引き受け、勉強も教えてやっていた糀谷。東や佐藤をたしなめていた糀谷。

「しかし、あいつにとって見せたくない自分の一つが、ここにはあった」

 山田が指さす先に、佐藤も目を向ける。衣装掛けにかかった闇堕ち魔法少女の衣装だ。

「変身願望、か」

「あいつはそう言ったのか」と山田。「あたしに言わせれば、自己への破壊衝動だろうが」

 自己破壊って、と佐藤は向き直る。

「まぁ、あいつが教室でもここでも見せていない姿だって、あったかもしれない。そこのところは本人が語りたがるかの問題だ。同様に、あたしがあたしについて語れる内容も以上だ。ここから先は踏み込んで来んなよ」

 山田がまた椅子にもたれ直す。本当にこれ以上は何も語る気がない様子だ。

「……そういえば萌ちゃんは?」と海場が声を上げる。「塾はおやすみだって聞いてたけど」

「あぁ、それな」と佐藤の声はトーンダウンした。「ちょっと俺がしくじって、昨日のことがあいつの姉さんにバレちまって。で、さっき連れ去られたよ、新しい塾に行くとか何とか」

「そ、そうなの……」と海場が笑うに笑えないといった顔で答える。

「やっぱりお前のせいか」と山田は溜息を吐く。

 すまない、と佐藤が口にすると、謝るなら本人に謝れ、と山田ににらみ返されてしまった。

「……となると、ここも安全とは言えないな。萌美の足跡をたどられたら、秘密がバレないとも限らない。変装部は、しばらく休部扱いとしよう。しばらくは部室にも近づくな」

 それは部員二人に向けて言われているようで、その実山田の鋭い視線は佐藤にしか向いていなかった。体よく追っ払いたい意図が見えないでもない。海場を横目で窺うと、海場も佐藤のほうに申し訳なさそうな目を向けていた。

「……まぁ、俺が原因だし、仕方ねぇな」と佐藤は後ろ頭を掻く。「じゃぁ、先に帰るよ」

「う、うん。お疲れさま」と海場が小首を傾けて挨拶する。

「その前に手帳を返せ」と山田が手を差し伸べてきた。


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