【2章 - 2】トリックはいつか破られる
しかし、案に反して最寄りの地下駅のトイレはすでに混雑していた。
「そっか、これから街に出る人もいたんだ」と海場が呟く。
「ここしかまともに使えないとなると、それは混むよな」と佐藤も同調した。
男女のトイレにはどちらにも長い行列が出来ていて、【メアリ】はさっきようやく視界から見えなくなったところだった。多機能トイレも長いこと使用中で、二人は待ちぼうけを食らわされている。二人の前をメトロを降り町へとくりださんとする若人たちが往来する。
「部長さんと一緒に、商業施設のほうまで行っても良かったかもね。ちょっと遠いけど」
「ま、そうだったかもな……」
佐藤の答えに
「かぐやちゃんこそ、脚は大丈夫?」
「ちょっと、爪先の付け根あたりが、しんどい。それに足首も」
高さはそんなに無いとは言え、慣れないヒール
足を下ろしてみるが、体重がかかるとやはり痛い、自然と
二人の前を、オレンジ色の魚のかぶり物をした男性が通っていった。ディズニー映画のカクレクマノミのキャラだろう。横には青い魚もいた。
「そういや、ユキって」と、佐藤は海場のほうに顔を向ける。「放課後だけじゃなく、昼休憩とかでも、女装して校内歩いてたりするのか?」
「え、昼休憩? どうして?」
海場が目を瞬かせる。あまりに唐突で突飛な質問だったからか、驚いたような表情だ。
「この間の昼休憩に、ユキが女装した時みたいな格好をした女子生徒がいるって、クラスメイトに聞いたんだ。黒くて長い髪で、カクレクマノミのヘアピンをつけてたらしい」
「それ、たぶん別人じゃない?」と首を傾げる海場。「カクレクマノミは、きっと偶然の一致だよ。いくら昼休憩は長いと言っても、女装して校内散歩するほど時間があるわけじゃないし」
「そうだよな」と佐藤も頷く。「悪い、変なこと聞いちまった」
いえいえ、と海場が首を横に振るのと同時に、海場のスマートフォンが鳴った。
「あ、部長さんからのLINEだ」とスマホを見て言う。「あっちのトイレはたまたま空いてたみたい、もう着替えたらしいよ。ロッカーに入れてた荷物も回収して、こっちに来るって」
「マジか、俺もそっち行っときゃ良かった」
そう佐藤がぼやいた時、トイレのほうで甲高い声が上がった。二人同時に目を向ける。
入口付近の人が身を引いた。顔に浮かぶ驚き。
直後、トイレからだれかが飛び出してきた。
真っ黒な衣装、右袖が断ち切られ、腕には無数の傷。
「……えっ、あれ」
海場が呟く。佐藤もすぐにだれか分かった。
【メアリ】が、なぜか知らない、奥のほうへ走って行ってしまうのだ。
行き交う人々が金切り声を上げて飛びすさり、【メアリ】の行く手に道を作る。
「メアリちゃん! 待って!」海場が慌てて駆け出す。
「おい、ユキ!」佐藤も【メアリ】を追う海場の後に続く。
だが足下の不慣れさが、段々距離となって現れる。佐藤がトイレの行列あたりに来たときには、海場は十数歩も前にいるし、【メアリ】は角を曲がるところだ。
「もえちゃん!」
佐藤の耳に、聞き憶えのある声が響いた。
思わず振り向くと、通り過ぎかかったトイレのところに、これまた憶えのある三つの顔。
――
「どうしたの、金子ちゃん」
さらに、水色のはっぴと木刀を手に坊主頭が現れた。
「のわっ」
着地不良でバランスを崩す。二歩三歩たたらを踏む、激痛が全身を貫くよう。
かろうじて転倒は免れる。顔を上げると、海場の姿も角の向こうへ消えていた。
今は前を追おう。佐藤は彼ら彼女らに背を向け踏みだす。
角を曲がり、さらに上り線ホームへの階段を下りはじめる。一段一段を慎重に、つま先から着地する。そうしないと足をひねりかねない。列車が到着したらしい、上がってくる人の波に進路が隠されそうになる。手刀で人垣を切り裂く。発車メロディーが鳴る。
ようやくのことでホーム階に下り立った。二人はすでに列車の中にいる。
「おい! ……くそ、走りづらい」
慣れないヒール口に悪態をつきながら、とかく痛む足を出す。
発車メロディーが鳴り止む。
不安定な体勢で駆ける。
しかし、佐藤の目の前で電車のドアが閉まりだす。
佐藤は手を伸ばした。
だが、甲斐無くドアは閉まる。車内にいる海場と目が合った。
直後、「おい、待ってくれ!」と男性の声が上がった。
見れば、右手のほうで手を伸ばす男の姿。佐藤同様に乗り遅れたものらしい。
すると、ドアが再び開いた。海場が目を大きくする。
佐藤もこれ幸いと車内に入った。
その後ろでドアは閉まり、今度こそ発車する。
「マジで、ヒールって、走りにくいんだな」
佐藤は息を乱しつつ、膝をついて足首を押さえる。足首自体の感覚は、もはやない。ただ指先に足首の熱感が伝わってくる。
「駆け込み乗車は危険ですのでおやめください、皆様のご協力をお願いします」
車掌のアナウンスに、佐藤は肩をすぼめた。車内のどこかで笑い声が上がる。
それから佐藤は顔を上げる。車両端の車いすスペース、窓の前に設えられた手すりを掴んで、【闇堕ち魔法少女】の格好をした少女が大きく息をしていた。身を折り、左手で胸を押さえ、髪をだらりと垂れ下がらせて。その背を海場がさすっている。
やがて、少女が顔を上げた。窓に映る自らと対面する。
「……あーあ、変な格好で出てきちゃった。サイアク」
そうぼやく声は低かった。手ぐしで髪を梳きにかかる。途中で指が髪の絡みに引っかかる。
佐藤からは、彼女の左半身と顔を仰ぎ見るような格好となっている。面長な輪郭の中、大きな裂傷が走っていた頬にはすでに傷がない。おそらくトイレでメイクを外したのだろう。
佐藤は、その顔から目を離せなかった。
「……何見てんのよ、髪フェチ変態女装くん」
彼女は顔を動かさずに、黒い瞳で佐藤を見下ろしてくる。
佐藤はひるみこそしなかったが、信じられない思いでようやく口を開いた。
「お前、……糀谷、かよ」
「そうよ。あなたと同じ一年四組、学級委員も務めてる糀谷萌美、その成れの果てよ」
少女――糀谷萌美は
「どうして、ここに……」
「どうして? あんたが部室覗いてひっくり返ってちびってた時には、すでに変装部員だったんですけど?」
「ちびってはねぇよ。いや、でもお前の利き手、左ではなかっただろ? 教室では」
「もともと左利きで、右に矯正されたのよ。今でも左は使えないでもないから、両利きってのが正しいかもね。って、そんなくだらないことどうでも良いじゃない!」
海場が間に入って「萌美ちゃん落ち着いて、かぐやちゃんも」と両者を
「はぁ……」と息をつく糀谷。「油断してたわたしも悪いけどさ、まさかあんなところで……」
「いったい何があったんだ? 金子とかの姿も見えたけど」
「あんたってほんとにデリカシーがないね! ちょっと黙っててくんない?」
「萌美ちゃんどうどう、ここ電車の中だよ」
海場が両手を振って糀谷を落ち着けようとする。佐藤も内心焦りを抱いて辺りを見回す。こちらを細い目で見てくる人、あえて視線を逸らしていく人。佐藤の女装がバレたかは分からないが、いずれにせよ注目を受けるのは良いことではない。
「かぐやちゃん、申し訳ないんだけど」と海場が首だけで振り向いた。「次で下りて欲しいんだ。……ほら、部長さん置いてけぼりにしてきちゃったから。連絡取り合って合流して。それに先に着替えちゃったほうが良いんじゃないかな?」
海場があえて口にしなかった本当の理由を、佐藤は感じ取った。
その上でもそれに従うのが良いと、佐藤は思った。自分に出来ることがあろうとは思えないし、第一足が悲鳴を上げている。頃良く電車も減速を始める。
「……別にどっか行けとは言ってないけど」
だが、糀谷がそう口を挟んできた。二人の視線が、俯きがちな少女へと集まる。
「それに、こんなの姉ちゃんにバラされたら殺されるから。口止めしとかないと……」
糀谷はそこで口をつぐむ。佐藤と海場は続きを待ったが、その前に電車が次の駅に到着した。乗り込んできたスーツ姿の男が、腕に傷を走らせた糀谷に驚いたような目を向け、それから《アイドル》姿の二人を見て、理解したような風情でスマホに視線を転じた。
電車が駅を出てからようやく、「……簡単に言えば」と糀谷が口を開いた。
「わたしには、変身願望みたいなのがあるの」
変身願望、と佐藤は内心で復唱した。
「ときどき無性に、自分じゃない自分になってみたくなる。人前で良い子してる自分をいっぺん止めにして、まったく新しい自分を手に入れたくなる。……それを変装部では叶えてくれた。ここなら、どれほど自分の傷つけても、元に戻せるしね」
糀谷は窓に映る自らの鏡像に語りかけているようですらある。確かにその頬には、今は傷一つない。佐藤はいまだに立ち上がれず、その姿を見上げている。
「それで、さっきあったことだけど……」糀谷は俯き、前髪を一本引っ張る。
「もともと、みっちゃんたちとは、ハロウィンに遊びに行こうって話はあったの。だけど、それじゃわたしの変身願望は満たされない。申し訳ないんだけど、いつもの糀谷萌美の延長にしかなれないんじゃ、わたしは満足できない。それよりも、変装部として思い切ったハロウィンがしたかった」
佐藤の目が糀谷の全身を走る。ボロボロの衣装、腕に走る傷メイク。
「だからね、塾を言い訳に断ってたの。それなのに……パウダールームで会っちゃったのよ」
糀谷が顔を左手で押さえる。
佐藤は、目を丸くしたり互いに見あったりしている三人の様子を思い出す。
「……顔の傷メイク外して化粧落とししてたら、いきなり声かけられて、思わず顔上げちゃって。それでバッチリ目が合って……あぁ、もうサイアクッ」
勢いよく下ろした左手が窓の
「あんまイライラすんなよ」と佐藤。「やっちまったことは仕方な……すまん」
糀谷が部長のそれにも近い睨みを利かせてきて、佐藤は口を閉じた。海場も不安げな視線を両者間で往復させる。
「事情は分かった?」と糀谷は低音で言う。「このことは姉ちゃんには言わないでよ、絶対。ただでさえ家族にも、今日は塾で自習してくるって言って出てきてるんだからね」
佐藤は首肯した、ウィッグの髪も揺れる。電車が再び停車して、ドアが開いた。
翌朝になっても、足の痛みは消えていなかった。
ゆっくり足を運んできたせいか、学校到着が遅くなり、教室にたどり着いたのは予鈴とほぼ同時だった。エレベーターを使ってやりたかったが、資材運搬用で生徒は使用禁止なのだ。
「おいっ佐藤、どうしたんだ足引きずって!」
教室に入った途端に東が駆け寄ってきて、問答無用で肩を貸してくれる。
佐藤はあえて顔を見ないようにして、事前に考えていた言い訳を口にする。
「気分転換にジョギングやってたら、ひねっちまった」
「バカかよ、お前。剣道やってる大事な体をこんなにしちまって」
「いや、剣道関係ねぇし」
悪態はつきつつも、席まで運んでくれた東には礼を伝える。尻のポケットからスマホを取り出し、腰を下ろす。少しは重力からおさらばできる。もう、しばらくは動きたくない気分だ。
ふと、東の向こうで、着席した糀谷萌美が笑顔をしているのが見受けられた。前に立つ中谷と古島を相手に、身振り手振りも交えて何かを話している。
「そういや佐藤、聞いてくれ」
東の大きな声に、視線を向けかえる。東が口角をこれでもかと上げている。
「そうか、分かった分かった」佐藤はすぐに目を逸らした。「だから席に戻れ」
「おい、それが助けてやった相手に取る態度か? 無礼ものめ」
「礼はさっきやっただろうが。悪いが、お前の惚気にまで付き合う筋合いはない」
佐藤はバッグのジッパーを開け、鎮痛の塗り薬を探すフリを始める。
その実、あまり顔を合わせたくないのだ。駅のトイレで出会したのは一瞬だったし、ほとんど後ろ姿だっただろうから、バレてはいないだろうと思う。それでも、やはり気後れがある。
「まぁ聞けよ、佐藤」と東はこちらのことも知らぬ体。「なんとだな、来週の日曜にな……」
「……早く言えよ」
「金子ちゃんとのデートが決まった」
「ちっ、決まったと思ったのに」と佐藤。
「お前の胴は何度も喰らったからな」と東。「……って、なんで打たれなきゃなんねぇんだ!」
佐藤はそれには答えず、思ったことを訊く。
「まだデートしてなかったのか」
「まぁな。昨日も金子ちゃんとミナミに行ったとは言え、中谷とその彼氏と古島も一緒だったから、ノーカンだ。つまり、初めての二人っきりデートだ」
ふーん、と佐藤は興味なく返答する。「あぁ楽しみだ、何をやろうか」などと空に目を向け陶然としている東、そのがら空きの胴めがけ、再び手刀を入れる。
「ぐふっ」
今度は決まった。東が脇腹を押さえる。
「たるんでるぞ、東」佐藤は顧問の口調を借りて言った。「惚気てばっかだからだな。このざまじゃ部活でも身が入ってないんじゃないか? 時間も短くなったんだろ?」
「馬鹿にするな。時間が短くなった分、質は上がってる」東は鼻を膨らます。「みんなメリハリがついて良いって言ってるよ。あぁ、ただ主将交代の話が持ち上がってるな」
「は、主将が、交代?」
佐藤の背筋を悪いものが駆けた。今の主将といえば、先日ちょっと意趣返しをしてやった湯島先輩だ。動静が悪い方に転がったとなれば、こちらも安全とは言えまい。
「湯島先輩に、なんか問題でもあったのか?」佐藤はおっかなびっくり尋ねる。
「まぁな」あくまで東は平静に応じた。「先輩、コンビニでバイトを始めたんだと」
「……バイト?」と首を傾ける。「そんなの許されてたか?」
「顧問に相談して許可をもらったそうだ。ほら、先輩のとこ、夏前くらいに母親が亡くなっただろ。それで家庭的というか家計的にきつくなったらしい。剣道を辞めるつもりはないようだが、バイトとキャプテンの両立はさすがに難しいみたいだ。それで交代の話が出てるってわけ」
そうか、と佐藤は納得する。胸の内によぎった緊張感も、瞬く間に解れていった。
同時に、
「悪い、トイレ行ってくる」
「足、大丈夫か? 肩貸そうか?」
「そこまでは良い」佐藤はゆっくりと立ち上がった。「どうせトイレは真向かいだ」
「それもそうか」と東。「おい、スマホ持ってけ。で、なんかあったら呼べ」
佐藤はスマホだけを手にして、教室を出た。
用を終え、手を洗っている途中で本鈴のチャイムが鳴りだした。さらにスマホも震えだす。東が心配してきたのかもしれない。いらんお世話だ。黙らせるつもりで、画面をタップ。
『ターケーくーん』
途端、スピーカーから声がした。見直せば、さやか.Kからの電話だ。画面を見ずに触れたせいで、違うところを推してしまったらしい。
「な、なんですか? もうホー……」
『タケくん、昨日は萌美と一緒に遊んでたんでしょ? 楽しかった?』
その早口はこっちの事情を
「なんでそのこと知って……っ!」
途中で口を閉ざした佐藤。しかし、すでに遅い。
『やっぱりそうなんだ、報告ありがと。じゃぁホームルーム始まるから、またね』
ツーツーという
顔を上げる。目の前の鏡に、惚けた顔をした自らがいた。
その面に拳を見舞ってやりたかった。
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