【2章 - 5】学習塾でも大声を出してはいけない


 慌てて教室を飛び出す。だが、人影は見つけられない。

 いや、女子トイレのほうから声が続いている。

「しっかり! しっかりして!」

 二人はすかさず駆けつける。入口から覗き込むと、ちょうど個室から金子が姿を見せた。

「あ、東くん、佐藤くん!」

「どうした、金子ちゃん!」

 東がすぐさま女子トイレに飛び込む。佐藤も、一瞬躊躇ちゅうちょはしたが、緊急と思い後を追う。

「東くん! も、もえちゃんがっ!」金子が顔面蒼白になって叫んでいる。

「糀谷がどうした!」東が個室を覗き込む。その横顔が固まった。

「おい、何があったんだよ!」佐藤も東の肩越しに中を見て、言葉を失った。

 糀谷萌美が洋式トイレのタンクにもたれかかっている。完全に脱力しきった体勢で、顔は天を仰いでいる。前髪が目元を覆い、口は半開きのまま。一目には絶命しているかのようにも思ったが、幸いさらけ出された喉がわずかに動いているので、生きてはいるらしい。

「おい、糀谷! しっかりしろ!」

 佐藤は動かない東を押しのけ、一歩踏み込む。

 そして、またも絶句する。

 だらりと垂れ下がった右腕。セーラー服の袖が肩までまくり上げられている。

 その右腕が、赤黒く濡れているのだ。

 上腕の中程を起点に、その赤黒い液体は肘へ手先へと伝い流れ、跡を残している。床のタイルにも赤黒い染みが点々と散っていた。

 佐藤はすぐに駆け寄り、トイレットペーパーを数巻き手に取ると、すぐに右腕の傷口を圧迫止血し始めた。傷や流れ出たものはまだ温かい。一方でふと触れた手首はひどく冷たかった。

「おい東!」佐藤は振り向く。「ちょっと力貸せ、教室まで運ぶぞ!」

「お、おう」

 東がようやく動き出し、糀谷の左側に回る。足下で何かが転がる音がした。構わず糀谷の左腕を肩に回す。佐藤も傷を押さえたまま右腕を担ぎ、せーので持ち上げる。男二人の身長差のせいで糀谷の体は傾くが、それでも行けないことはない。金子がドアを押さえたまま道を譲る。

 教室まで運び込み、咄嗟に机をくっつけてそこに糀谷を仰向けに寝かせる。右腕を体の上に延べる。出血はなんとか止まったらしい。ペーパーの面を代えて、腕の血を拭いていく。

「ひ、東くん」遅れて金子も戻ってきた。「これ見て……」

「何? カッターナイフ?」

 佐藤が横目に見ていると、東は金子の持っていたものを右手にとって左見右見とみこうみしている。黄色い細身のカッターは見覚えがあるが、東はいぶかしげに眉を顰めている。

「何だよこれ、なんか手に馴染まないんだけど、刃が逆向くし……」

「それ、左利き用のカッターじゃないか?」と佐藤が答える。「コイツ、本来は左利きなんだって聞いたことがある」

「左利き? ……あぁ、確かに左で持つとそれらしくなるな」

「じゃ、じゃぁ」金子が震えた声を出す。「もえちゃんはこれで自分の腕を……? なんで?」

「なんでかは知らん」と佐藤。「だが、昨日今日の問題じゃぁない」

「え? どういう……?」

 金子と東が佐藤のほうに振り返る。

 佐藤は流血を拭っていた手を止め、糀谷の右腕を二人に見せた。

「ひっ!」「なっ!」

 二人そろって息を呑む。

 赤い一本の線が上腕の中央を斜に走っている。傷口にはまだ血の玉が付着している。

 だが、それだけではない。

 無数の筋がその腕をっているのだ。

 皮膚ひふがめくれ赤く変色しているもの、ミミズれのごとく膨れあがったもの、うみが溜まったらしく黒くなったもの。

 色や形の様々な古傷が、ひじと肩口の間で縦横に走り回っている。袖に隠れているその上にもまだあるのではないかと思われる。

 それらはどう見ても特殊メイクの類いではない。

 ――本物だ、本物の古傷だ。

 金子がよろめいた。咄嗟に東が肩を持って支える。二人の顔色はそろって蒼ざめている。

 佐藤もまた奥歯を噛んで、こみ上げてくるものを堪えた。

「……あは、はは」

 どこからか聞こえてきた、奇妙な笑い声。

 糀谷の右腕がピクリと震える。佐藤は咄嗟に手を離す。

 右腕がゆっくりと持ち上がる。三人の視線の只中で、まるでそれ自体が意志を持つように浮かび上がる。そうして、糀谷の顔の前で止まった。

 前髪の向こうで、糀谷が薄目を開ける。わずかに頬が緩み、どこか恍惚こうこつとしているようだ。

「あは……、久々に、やっちゃったなぁ……」

 ぽっかりと開いた穴のような口から、そんな声が聞こえた。

「も、もえちゃん……?」

 金子がか細い声を出す。

「……ねぇ、アームカットってね、気持ちいいんだよぉ……。痛くって、気持ちよくなって、それですっきりするの……」

「おい糀谷、しっかりしろ」

 佐藤は右手を掴む。糀谷のうろんな瞳が佐藤を捉えた。涙のしずくが一つこぼれ出る。

 そして、あろうことか、糀谷は口元を一層ほころばせる。

「頭の中がね、うわぁぐわぁって、ぐちゃぐちゃになってるのが、腕切ったら一瞬でキレイになるの……。もうね、何もかもが吹っ飛んで、ちゃーんと立ってられるようになるの……。良い子良い子しすぎて疲れちゃったときは、これやるのが、やっぱり一番だねぇ……」

「お前、そのために何度も腕切ってきたのか?」

 佐藤の問いに、糀谷は「そーだよぉ」と表情の何をも変えずに答えた。東が金子をより強く抱きしめる。外から、車のクラクションが響いてきた。

 佐藤は一度歯ぎしりしてから、徐に口を開き、

「……バカかよ、お前」

 躊躇わずに言い切った。

 糀谷の顔から一切の表情が抜け落ちた。目の焦点が佐藤に合わされる。

「バ、バカ……? 今、バカって言った?」

「あぁ、とんでもないバカだな」

 糀谷は瞬きすらもしなくなった。佐藤は軽蔑を込めて見つめる。

「良い子だかなんだか装って、そのせいで結局自分を傷つけてよ。それでだれが救われるんだよ。そんなんだったら良い子なんか装ってんなよな」

「なっ……、何よ知ったような口して!」

 糀谷が唐突に起き直り、床をダンと踏みつける。さらには勢いそのまま立ち上がり、佐藤の襟元に両手でつかみかかってきた。

「わたしがどんだけ苦しんで来たかも知らないくせに! ママとパパには良い子になれとか、帝大だ、大企業だって言われて。姉ちゃんにはチビだから背伸ばせとかちゃんと勉強しろって命令されて。周りのみんなには良い子だね、がんばってるねって期待されて。……それに応えようとしてわたしがどれだけ苦労して勉強して良い子になろうとして頑張ってるか! あんたは分かって言ってんの!?」

「知るかよそんなもん!」佐藤は糀谷の手首を掴み襟から引き離す。「けどな、そんな言われたこと全部律儀に守ろうとして、結局自分が壊れちまうとか意味不明だぜ。人の目ばっか気にしてねぇで、もっと自分がやりたいようにやれよ!」

「やりたいようにやって、それがこれなの! わたしは良い子でいたい、だれからも信頼される人でいたい! 実直勤勉明朗、そんな良い子でいたいの! だけどっ……だけどときどき息が詰まっちゃう。それでもっ」

「だったら、お前に期待してるようなやつらが全員間違ってるんだ! やつらはだれもお前なんか見てない! だったらその目にお前の本当を見せてやれば良いんだよ!」

 行くぞっ、と佐藤は糀谷の腕を強引に引き、教室の出口のほうへと向かう。

「え? ちょ、ちょっと、やめてよ!」糀谷が脚を踏ん張る。

「ま、待てよ、佐藤!」と東が慌てたような声を出す。「いったん冷静になれ」

「そ、そうだよ佐藤くん」と金子も声を上げた。「ほら、もえちゃんケガしてるし」

「そんな暇はねぇんだ!」

 だが佐藤は止まらない。糀谷の抵抗も甲斐は無い。

「ちょっと今から報告しに行ってくる!」

「ほ、報告ってなんだ? どこ行くんだよ?」

 東の問いに、佐藤は一瞬だけ振り向いて、叫んだ。

「こいつの姉ちゃんのところさ!」



 糀谷清花の通う予備校は、北八里駅前ロータリーをぐるりと囲む商業施設にある。清花が来店したときに持っていたトートバッグのデザインを、佐藤は憶えていた。

 霧雨の中を五分で駆け抜け、商業施設の二階へと上がる。予備校ののぼりが力なく傾いている。

「ちょ、ちょっと!」

 糀谷が急ブレーキをかけた。佐藤の手から糀谷の手首が抜ける。

「まさか、ほんとに行くの?」

「当たり前だ、そのために来たんだよ」

 数歩行きすぎた佐藤は慌てて戻り、再び糀谷の腕を掴みにかかる。が、わずかにかわされる。

「だ、だからって、わざわざこんなところ……。め、迷惑だよ」

「今さら良い子ぶってどうすんだ。なんのための右腕の傷なんだよ!」

「腕の傷は関係ないっ」

 糀谷が右腕をかばうように身をよじる。

 その一瞬に、佐藤は左の手首をつかみ取った。糀谷の目がぱっと見開かれる。

「は、離してっ! セクハラで訴えるよっ」

 糀谷は腕を振って拘束を解こうとする。だが、佐藤の右腕がぶんぶん上下にされるだけだ。

「訴えたきゃ訴えろよ!」佐藤は腕に力を入れ、動きを制した。「それでお前が本当に自由になるんなら、俺は喜んで警察でもどこにでも行ってやる。でもそんなことしてもお前は自由になれるわけがないだろう? 訴えるべき刑と相手を間違えるな」

 行くぞ、と佐藤がもう一度腕を引く。糀谷はやはり抵抗しかかるも、ついには佐藤の引っ張る力のほうがまさった。

 予備校の名がでかでかと書かれたガラスのドアは、観音開きの片方が開きっぱなしになっていた。片や躊躇わず片やおずおずとその敷居をまたぐ。

「あ、こんにちは。入校希望ですか?」

 正面のカウンターにいた女性職員が、おっかなびっくり、立ち上がって声をかけた。

 糀谷が目礼する傍らで、佐藤は職員には視線も向けない。

「いえ、ちょっと人を探しているので」

 佐藤の目は入口から中の様子を見回している。土足厳禁の立て札がある玄関口、右の壁沿いにはロッカーが並ぶ。三和土たたきから上がってすぐのところは丸机やいす、ソファーが並ぶロビーになっているようで、その奥に教室がある。今まさに講義の真っ最中であるらしい、机に向かう生徒の丸くなった背中が覗くことが出来る。

「あれっ萌美? それにタケくんも」

 清花の声は存外近くから聞こえた。ロビーの端っこでベージュのブレザー姿が立ち上がる。ポニーテールを揺らして駆け寄ってきて、三和土に下りてきた。

「どうしたの、こんなところまで」

「清花さん」と佐藤が一歩踏みだし、見上げる。「前に、妹に何かあったら報告するよう依頼してきましたよね。なので、取り急ぎ報告しに来ました」

「報告? 何があったの?」

 佐藤が糀谷萌美を引き出して、姉の前に立たせた。

 糀谷は顔を伏せ、ようやく拘束から解かれた左手で、急ぎ右腕を押さえる。

 だが、その瞬時に清花は目を大きくした。

「ちょっ萌美っ、血がにじんでる! どうしたのよ、隠してないで見せなさい!」

 清花が妹の右腕をひっつかむ。抵抗する間も与えずに、その袖をまくり上げる。

 そして、呼吸ほか一切の動作を停止した。

 その目には無数の傷跡が映っているはずだ。あるいは、布にこすれて再び出血し始めた傷が。

「……な、なんなのこれ?」

 清花がようやっと声を出す。

 糀谷萌美はようやく自分の腕を取り返して、長袖の内側に傷を隠した。上から左手で押さえつける。喘ぐように、肩で息をしている。

 清花は妹が簡単には答えられそうにないのを見て、佐藤のほうに視線を向けた。

「どういうことなの? タケくん、報告して」

「糀谷は……こいつは、ずっと苦しんできたんです」

 佐藤は、清花の目をまっすぐに見据える。

「清花さんや家族にしっかり勉強しろだの良い大学行けだのとせっつかれ、周りには良い子であろうとして。そう見られようと努力しつづけてきた」

「それが? 悪いことだったの?」

「本人は平気なフリをずっと見せてきたでしょうけど、本心ではその苦労に溺れていたんだ。けれどそれを外に出すわけにはいかない。清花さんも周囲も糀谷に期待していたから、こいつはそれに反することは出来なかった」

 清花の視線が妹の方に向く。糀谷は俯いたまま、ぎゅっと自分の右腕をかき抱く。

「そうしていろいろなことに無理がたたった。こいつは腕を切るようになった。何度も何度も腕を切りつけてきたんだ。さっき見たでしょう? 幾つもの傷がそれです」

 佐藤は少しだけ間を置いて、息を吸う。

「ハロウィンは確かに俺も一緒に出かけましたよ。仮装したり街を歩いたりしました。こいつにとっては、良い息抜きになったはずだ。それなのに清花さんは、塾の転校を言い渡しましたね。サボり癖だとかなんとか言って、こいつにどんな裏事情があるかも知ろうとせずに」

「だ、だから……」

「あなたは期待しすぎなんですよ、清花さん、それに心配のしすぎだ! こいつはその重圧に耐えられなかった。ここに来てさらに圧力かけてくるようじゃ、この後こいつはどうなるか分かりませんよ!」

 佐藤もまた肩を上下させる。口から次々現れ出てくる言葉に、呼吸が追いつかない。

 それくらい、今の佐藤は清花に怒っているのだ。

 相手の心理も事情も汲まずに、自分の価値観だけをひたすら押しつけて。

 アンフェアだ。あまりにもアンフェアすぎる。

 しかし、佐藤が眉をいかつくさせて見上げる前で、清花はかえって表情を引き締めた。

「タケくんの報告は分かったわ」

 だけどね、と腕を組み、身を反らす。

「タケくんは男の子だからわかんないでしょうけど、女の人生なんて不確かなものなのよ。進学すら眉を顰められ、就職しても結婚出産で退職を余儀なくされるの。男女共同参画社会なんて言ったって、未だに偏見と差別は根強く残ってるのよ。だったら今のうちからそんなことを言うやつらを負かすくらいに、ちゃんと出来ておかないと、自分らしく生きられやしないわ」

 いきなり人生とか社会とかいう巨大なものを出され、佐藤はさすがに面食らってしまった。

「それに、良い子であることのどこが間違ってるの? 人から信頼される人間であろうとするなら当たり前のことを言ってるだけよ。正直で嘘をつかず、何事にも励んで、そして人当たりも良い。何も悪いことなんてないわ」

「……だ、だとしても」と佐藤はようやく口を開いた。「それを強制するのは間違っている。そういうのは経験を通じて自分の中で自然と作り上げていくものだ!」

「だから今から経験を積ませてるんじゃないの。若いうちの苦労は買ってでもすべきって、秀吉は言ってるわ」

「だからといって、自分を傷つけてまでやろうとすることじゃない!」

「多少の自己犠牲は、残念だけど必要よ。それにね、今苦労を覚えとかないと絶対に将来で失敗するわ。今楽をしているツケは結局自分に返ってくるの。三角関数と一緒よ」

「将来の失敗を避けるために、今の自分は壊れろって? 今壊れたら将来も無くなるのに」

「萌美の傷のことはもう良いわ。そんな話をしてるんじゃ……」

「もう良い!?」佐藤がひときわ声を大きくする。「傷ついた妹を前にして、そんなこと言いますか清花さん!」

「あぁもう!」清花も声を荒げる。「タケくんは首突っ込まないで! これはうちの問題よ!」

「始めにそのうちの問題に俺を巻き込んだのは清花さんでしょ!」

「だったらここで契約を切るわ! ありがとう、もう帰って!」

「イヤです! こいつが傷ついてんのに無視できるか!」

「良いから! 声が大きいのっ、迷惑でしょ!」

「迷惑かけてんのはどっちだっ!」

「……お前だぁっ!」

 糀谷萌美の怒声と同時に、彼女の肘が佐藤の胸郭きょうかくを襲った。

 肺臓を直撃したような衝撃に、佐藤は胸を押さえてくずおれた。呼吸するのが苦しい、息を吸うと体の内から痛みが沸いてくる。

「お前が迷惑なのよ佐藤っ! 耳元でさんざん叫ばれて鼓膜こまく破れるかと思ったわ!」

 糀谷が佐藤を見下ろし罵声を浴びせる。その実、声が高いだけよく耳に響く。

「それに黙って聞いてりゃいろいろ勝手にしゃべって! 苦労に溺れてた? 期待が重圧だった? だれがそんなこと言ったのよ、だれがそんなこと言えって言ったのよ! わたしじゃないくせに、勝手なことばっかり言ってるんじゃないっ!」

「ちょっと、萌美っ、落ち着きなさい!」

 清花が制止しようと妹の肩に腕を伸ばす。

 ――が、それも払いのけられた。

 糀谷が振り向く。

「姉ちゃんもっ!」

「っ!」

 妹に真正面からにらみつけられ、清花は息を詰まらせる。

「女の人生が何よ! 社会が、将来が何だって言うのよ! わたしが成功しようが苦労しようが失敗しようが死んでしまおうが、全部わたしの勝手でしょ! 全部わたしの責任でしょっ! 姉ちゃんは全然関係ないじゃないっ! わたしは糀谷萌美よ、姉ちゃんじゃないの! わたしの人生くらい、自分で決めてやってくんだからっ!」

 糀谷が大きく息を吸う。この世界のすべての空気を吸い取ってしまうかのように、長く。

 そして、目を見開く姉の面前で、見上げる佐藤の頭上で、塾関係者らの真ん中で――

 叫んだ。

「勝手なことばっか言うなぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」



 翌、火曜日。四限目の終わり。

 体育館一階の武道場の片隅で、佐藤はげんなりしていた。原因は、隣で着替える友人だ。

「佐藤竹寿くん、やはり君は体育の授業で剣道を選択履修する程度に留まっていてはダメだ。今すぐ剣道部に復帰すべきなのだ。今日の君が俺に対して決めた抜き胴には、だれもが驚き感心し、万雷の拍手でもって祝福していたじゃないか。それに応えようとは思わないのかね?」

「思わん。良いから早く着替えろ」

 佐藤はもう何度目か知らない否定を口にする。まったく、武道の選択で柔道に挙手したはずなのに、人数あわせの都合で真っ先に引き抜かれたのが返す返すも口惜くやしい。剣道部顧問の菅野かんのが社会科日本史担当なのが幸いか。見られていたらどれほど勧誘されたか知れない。

 今日も変わらず東はウザいし、昨日は昨日で糀谷姉妹の事情を自分が塾関係者に講義する羽目になった。なぜ周囲にこう面倒な人間がそろうのだろう。何度溜息を吐いても足らない。

「……そういや、東」とっくにYシャツとスラックスに着替え終えている佐藤は口を開く。

「お前は宝を持っている、それを腐らせるつもりか。どうだ佐藤、復帰する気になったか?」

「今日の昼飯はなんだ?」

 東はがっくりと肩を落とした。今ようやく下着に手をかける。

「……弁当だよ」

「そうか。俺は今日弁当無しだから、購買で何か買ってくる。先行くぞ」

 佐藤は東の返事も待たずに剣道具一式を担いで武道場を出た。他の履修生は学校の備品などを使っているが、佐藤はいちおう自前のものを使っている。それもまた東がウザくなる原因かも知れないと思う。やっぱり柔道にすれば良かった。

 薄暗い廊下を歩いていると、前方の女子更衣室から四人組が出てきた。均整の取れたツーサイドアップに、珍しく無装飾のポンパドール。それに金髪と茶髪。糀谷萌美他の一行だった。

 金子が糀谷の腕にしがみつき、主として会話の中心にいる。糀谷もそれを敢えてあしらおうとはせず、微苦笑を浮かべているらしかった。中谷と古島も加わって、そこには談笑の花が咲いていた。会話の内容までは興味がなく、佐藤は一定の距離を開けたままにしておいた。

 遅刻ギリギリの登校となった佐藤は、具体的に何があったかを伝聞のみで知った。

 朝一番で金子が糀谷にしがみつき、大泣きしたのだという。あまりの泣きっぷりに心配した中谷と古島が事情を尋ねに行って、なぜだかその二人まで涙に暮れて――、かくして糀谷萌美の孤独は幕を閉じたのだった。

 もっとも、糀谷家の問題のほうがどう片付いたのかは、まだ聞いていない。それでも、まぁうまく行くことだろう。ここからはまったく彼女の問題だ。こちらが語るべき言葉はない。

 体育館下から出ると、薄雲たなびく秋の高い空が目に眩しかった。校舎に入り、佐藤は購買部から伸びる行列の最後尾に並ぶ。教室へと向かうらしい四人組から視線を外し――

 その時、視界の端にそれを捉えた。

 生徒玄関の下駄箱に寄りかかる少女の、見事な黒のロングヘア。

 影のようにたたずむ彼女にあって、その髪の黒はつやめきを帯びて静かに輝く。

 腰まで伸びたロングヘアは癖がなく、丸みのある頭部から素直にまっすぐ流れ下っている。

 まるで日本人形のような、浮世離れした趣が漂う。彼女に不用意に触れてしまったら、けがれた何かを吸わせてしまいそうな、そんな純粋無垢さ。

 吹抜に差す昼中の光にちりがきらめくのを背景に、その少女は――

 途端、その場にしゃがみ込んでしまった。

「えっ」

 思わず佐藤は漏らした。だが、周りに生徒たちは反応しない。行列が進むのに従い、あるいはおしゃべりしながら教室へ帰っていく。ここは、自分が行くしかない。

 佐藤は駆け寄り、下腹をでさすっている彼女に声をかけた。

「あの、大丈夫ですか?」

 彼女がはっとしたように顔を上げる。二人の視線が交錯する。

 同時に、両者とも硬直した。

 行き交う人の足音は止まない。

 佐藤の目に映るのは、見覚えのある顔だった。

 卵形の輪郭と、どこか可愛げのある整った顔立ち。

 それに、額の前髪を押さえるカクレクマノミのヘアピン。

 見覚えがある、なんてものではなかった。

「おっ、お前、ユキだろ? 海場之也だろ?」

 舌がもつれそうになりながら、佐藤はその名を呼ぶ。

「しっ」海場はすぐに口の前に指を立てた。「今は、何も訊かないで」

 訊かないでと言われても無理だ、どういうことだ、なんでこんな時間に女装してるんだと、佐藤は喉から声が出かかった。

 が、海場がすっと目を佐藤の奥側に向ける。

「うん? どちら様?」

 すぐ後ろから、女声じょせいがした。

 佐藤がぱっと振り向くと、お下げ髪の女子生徒がすぐ後ろにいた。

 小柄な身の丈にその胸元までのお下げ髪は、すこぶる似合っている。だが、それは高校生としてというよりは、中学、いや小学生としての似合っている、だ。クラシカルなデザインのセーラー服も、私立小学校の制服だろうかと思ってしまうほどに。

 一方で、顔のほうはなるほど同年代かもしれないと思うほどに、あどけなさが払拭ふっしょくされていた。散見されるニキビ跡、細い目の周りに幾本か伸びるしわ。眉間にも皺が寄り、わずかにファンデーションの匂いが鼻に……って、

「ちょ、近い近い!」

 佐藤は身を仰け反らせる。お下げ髪の女子生徒がさらに顔を近づけてくる。近眼のせいで相手の顔が見えないのだろうか。眼鏡をかければ良いのに。

「うん、たぶん知らない人だ」

 お下げ髪の女子生徒がようやく姿勢を戻した。佐藤は腹筋を緩めて息を吐きだす。

「柏原さんのお知り合いですか?」

 女子生徒が首を傾げる。お下げにした二本の髪の房は重力に従って垂れ下がる。

「柏原さん?」

 耳慣れない名前に、佐藤は眉根を寄せた。

 が、お下げ髪の女子生徒の視線のおかげで、それがだれのことかはすぐに知れた。

「えっ?」

 佐藤は海場のほうに振り返った。

 こいつが、柏原さん? こいつは海場之也で、ただ女装しているだけで……

 海場が首を左右に振る。

「知り合いじゃないの?」と、お下げ髪の女子生徒がさらに訊いてくる。

「……あ、あぁ、そうだ」咄嗟に佐藤はそう答えた。「ちょっとお腹押さえてうずくまったから、声をかけただけだ。ただの通りすがり」

「あら、そう」

 お下げ髪の女子生徒は興味ないかのように応じた。佐藤が一歩引くと、彼女が海場の横にしゃがんで、肩に手をかけた。反対の手には、フルーツ・オレの紙パックを持っている。

「柏原さん大丈夫?」

 お下げ髪の女子生徒の質問に、海場はこっくりと頷く。「お薬持ってる? 保健室行く?」と重ねて尋ねる女子生徒に、海場はいちいち首を縦に横に振る。

 ――会話が成立している。うち片方は無言だけれど。

 いや、問題はそこじゃない。女装姿の海場之也を『柏原さん』と呼んで会話する女子生徒がいるのだ。手にフルーツ・オレの紙パックを持った、買い物帰りらしいお下げ髪の女子生徒が。

 つまり、女装した海場と彼女には面識があるということで……?

 いや、もう訳が分からない。

 変装部は、秘密じゃなかったのか?

 佐藤が思考の渦に取りこまれているうちに、海場はお下げ髪の女子生徒の手を借りて立ち上がった。そして、彼女の先導で南校舎へと向かって行ってしまう。挨拶もないままに。

 だが、その姿が喧噪けんそうに完全に紛れてしまう寸前、海場が振り向いて口パクした。

『あ・と・で』




【次回更新は、11/3(水)の予定です】

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