【1章 - 2】かぐや、あるいは、マドンナ

 

「女になってもらう」

 

 ――佐藤は瞬きの数を多くした。

「……女に、なる?」

 ボブカット女子はそれには応じずに立ち上がり、二回手を叩いた。

 すぐさま【ゾンビ】が動きだし、佐藤の右肩をつかんで立ち上がらせる。薬品めいた臭いが鼻を刺した。

「お、おい、何するんだよ」

「今、部長が言った通りよ。変態くんには女になってもらって、ユキが覚えた羞恥しゅうちと屈辱をそっくりそのまま味わってもらうのよ」

「おっ、俺も女装しろってかよ! なんでいきなりそんなことしなきゃなんねぇんだ!」

「んー? なんでそんなに嫌がってんの? 男子って何かと女装したがるじゃない?」

「そういうのはただのネタで、みんなで笑ってりゃ良いんだ! でもこれは絶対違うだろ!」

戯言たわごとは時間の無駄だ、早くしろ」

 ボブカット――部長らしい――が、スマートフォンのカメラをこちらに向け

ている。

「なっ、なに撮ろうとしてんだよ」

「お前がここの秘密を明るみにするようなことがあれば、これらの写真を即刻ばらまく。そうだな、『潜入スクープ! 高一男子・佐藤竹寿君の女装現場』とかいうキャプションつけて」

「はあぁ、ふざけんなよっ! そんなありもしねぇこと誰が信じるってんだ!」

 佐藤の抗議も部長は取り合わず、「よし撮れた」と呟き歩み寄ってくる。スマホを【ゾンビ】に預けて、佐藤のYシャツに手をかけてきた。

「やめろよ!」

 佐藤は咄嗟にその腕を掴む。

 ――瞬間に、【ゾンビ】の手元でスマホが音を鳴らす。

「部長、セクハラの証拠写真も撮れました」

「上出来だ」

「はぁっ!」佐藤はすぐに手を離す。「こんな程度でだれがセクハラだと……」

「男性による女性に不快感を与えるようなボディータッチは、それだけで充分セクハラだ。おまけに、高画質高精細な最新スマホカメラで撮った証拠写真つきだ、言い逃れはできまい」

「こっ、これは正当防衛だ! そんなのだれも信じねぇぞ」

「佐藤、言葉ってのは無力だ」

 部長が低い声で言う。前髪越しにも鋭い視線が佐藤を射る。

「お前がどれほど説得を試みたところで、人間は目に映った記号を信じる。オセローにとってハンカチという記号がすべてだった。お前も、ウィッグの取れたユキを見て、何を思った?」

 佐藤は口を閉ざした。海場のほうに目を向けると居心地悪そうに目を伏せている。

 だが、すぐに海場は顔を上げた。

「ね、ねぇ、こんなのやっぱりやめよう? 佐藤くんだって嫌がってるのに……。ぼ、ぼくのことは、もう良いから……」

 言葉は尻切れになり、また俯いてしまう。階下からバラバラなパート練習が響いてきている。

「ユキはねー」と【ゾンビ】が口を開いた。「良い子すぎるのが玉にきずよね。もうちょい悪い子になったっていいの。全部自分で背負いこまないで、たまには他人のせいにしなさい」

「そ、そんなの……」

「いいのよ。少なくとも今回は、この考え無しの髪フェチ変態の覗き魔が悪いの」

 これまでの悪口を全部並べやがった、と佐藤は内心で毒づく。

「胸の内でののしるくらいなら内心の自由だしね、今のこいつみたいに」

「おい、ゾンビのくせにテレパスかよ」と佐藤。

「自分の表情筋、鏡で見てたら?」と【ゾンビ】。

 海場は何かを言いたげに薄い唇を開く。が、そこから声は出てこない。【ゾンビ】が続ける。

「女装がばれたの恥ずかしかったんでしょ? こいつの心ない言葉で傷ついたんでしょ? そういうの全部こいつに仕返ししたって、おつりが出てくるわ」

 勝手に決めつけんな、とよほど言ってやりたかった。【ゾンビ】に睨まれ、口をつぐんだが。

 海場が視線を佐藤のほうに向ける。だが目が合ってしまうとすぐに俯き、それでもまた上げてくる。それを数度繰り返す。外から、テニス部のラリーの間抜けな音がしている。

 佐藤は海場よりよほど髪のある頭をがしがしと掻いて、嘆息した。

「……海場、悪かったな」

「え?」

「お前を傷つけちまったことだよ。確かに俺は、考え無しの髪フェチの変態かもしれん」

 覗き魔が抜けてる、との【ゾンビ】の指摘は無視する。

「知らぬ間に顔に出た何かのせいで、お前を傷つけたのなら、謝る。すまなかった」

 佐藤は頭を下げた。またすぐに上げ、目も口も丸くしている海場に向きなおる。

「趣味みたいなもんで女装してるとこなんて、普通見られたくないよな。しかもそれがバレたりなんかしたら、そりゃ逃げ出すくらい恥ずかしいよな」

「そ、それは……」

「俺はお前に恥ずかしい思いをさせたんだ。だったら、俺だって同じことやらなきゃ……、アンフェアだろ?」

 佐藤は、もはや唖然あぜんとしてしまっている海場から、部長や【ゾンビ】のほうに視線をやった。

 それを見返す二人は、片方は肩を揺らし、他方は目を少し大きくさせた。

「もう好きにやれよ。女だろうがゾンビだろうが、勝手にすればいい」

 サッカー部だろうホイッスルが高らかに響き渡る。

 部長と【ゾンビ】が揃ってにやり、口角を上げた。



 佐藤がまず命じられたのは、各部の測定と毛の処理だった。肩幅・腕の長さ・胸囲・臀部でんぶとあちこちメジャーを回され、ヒゲに手脚にと至るところをカミソリで剃っていった。

「変装の第一にして最大の要件は、いかにその世界観を作り上げるかと言うことだ」

 部長はたびたび一人勝手に講釈を垂れる。佐藤が移動黒板の陰に移ってシャツやスラックスを脱ぎ始めても、それは変わらない。

「このゾンビもそう、お前の出会ったユキの装いもそう。その姿その言動その心、それらが存在の持つ世界観を作り上げる。変装をしたならば、そのままそれが実体であるように、それそのものとしてこの世界に存在するように、世界観を醸成せねばならない」

 黒板には、本校のセーラー服一式がハンガーごとかけられている。白を基調に、襟やスカートは紺と臙脂のタータンチェック。そのクラシカルなデザインは静かな人気があるらしい。

「変装にビフォーはない。以前の自分を滅し、以降の自分を新たに得るんだ。分かったか?」

「分かってるよ」

 佐藤はふてくされ気味に返答する。そんな婉曲えんきょくな理屈をこねて、女物の下着の着用を正当化しなくてもいい。やれと言われれば、もはや断れない立場なのだ。

 丸裸の佐藤は、トランクス型の黒いショーツを手に取った。すべすべしていて伸びない生地に戸惑いつつ、両脚を通す。

「……何このゆるゆるの布? あぁそっか、あそこの邪魔もん収めなきゃいけないんだねー」

「おいっ勝手に持ってってんじゃねぇよ、てか撮ってんなよそこのゾンビ!」

 顔だけ振り向いて、佐藤のトランクスをぶら下げる赤い爪とスマホに向け怒鳴った。

「こら、こっち向くな。隠し撮りにならないじゃん」

 佐藤は奥歯をかみしめて、カメラに背を向ける。と思ったら、部長まで口を挟んできた。

「邪魔もんはうまく股の間に挟めよ。こう、後ろ向きにして」

「邪魔もん言うな! ってか皆まで言うな!」

 改めてショーツを引き上げる。尻のところにはやや遊びがあった。ここにウレタンスポンジを詰めてヒップラインを補正するらしい。黒のタイツで脚を引き締め、ウエストニッパーという筒状の布地で腰のくびれも再現。姿勢が矯正され、文字通り身が引き締まる気がした。

 そして、ついにブラジャーだ。二つの大きなカップがつながり、その両端にはフック。

「……なぁ、これどうやって付けんだ?」

「そんなことも知らないなんて、情けないねー」と【ゾンビ】。「ストラップに腕通して、みぞおちの高さでフックを留めるの。その後、体に密着するようストラップを調整すれば良いんだよー」

 ストラップを肩にかけ、みぞおちの高さで体に沿わし、フックを――

「……あっ、がっ、腕っるっ」

 溜息の二重奏が聞こえ、それからこちらに来る足音がした。振り向くと、部

長があごをしゃくって背中を見せろという。手早くフックが留められ、ストラップの調整もされた。

「後これ。ヒップとバストに詰めるものだ」

 横から差し出されたのは、丸く切り出された白いウレタンスポンジが四つ。部長が立ち去ってからショーツとブラの中にそれらを詰めて、最後にインナーシャツをかぶる。

「……お、おぉぉ……」

 佐藤の喉から音が漏れる。妙な感覚がどこからか沸き起こってくる。

 自分の格好を見下ろしたとき、そこに大きな丸い膨らみが二つもあって、足の爪先を隠しているのだ。今まで外から見ていたものが、まさに自分のものとしてそこに存在している。

 これは、何か来てしまう。新たな自分を手中に得たという……

「うんうん良い写真、いかにもヤバいヤツって感じだよ」

 【ゾンビ】の声で一気に冷めてしまった。とかく息を吐きだし、セーラー服に手を伸ばす。意外と手に来るずっしりとした重たさに、またも溜息がこぼれた。

 まず上着をかぶって、脇下のジッパーを締める。胸元が前に引っ張られ、肩のあたりが窮屈だ。スカートも腰にまとわせるとどうにも軽く、風にひらひらとそよぐよう。

 心許こころもとなさをそれでも振り切って、佐藤は黒板の陰から出る。

「おい、着替え終わったぜ」

 途端、部長と【ゾンビ】は口元を手で押さえ、海場は目を逸らした。

「完全に着られてるな」「うん、これはさすがにきついね」

「お前らがやれって言ったんだろうが!」

「だ、大丈夫だよ」と海場が口を挟む。「これからちゃんと似合うようにしてあげるから」

「フォローになってねぇ……」

「あら、ユキの言ってることは正しいわよ」と【ゾンビ】がクスクス笑いを収めて言う。「これから化粧もするし、あなたの好きな髪も載せてあげるわ」

 言い回しに引っかかりを覚えたが、もう文句を言う気力も無かった。「だったら、早くしてくれ」と絞り出すように呟く。

「ならこっち来い、佐藤」と部長が呼び寄せる。見れば、化粧品の類が並べられた机の前で、キャスター付きの椅子に腰を下ろしている。

 佐藤は言われるまま、部長と向き合う位置にある椅子に腰を落ち着けた。部長がスタンドライトを持ってきて、位置と光度を調整し始めた。

「それにしても」と佐藤、「たかだか化粧くらいで男の顔がどう変わるとも思えんな」

「化粧を嘗めるなよ」と部長が鼻で嗤う。「だいたい……。おいゾンビ、化粧は?」

「化けてよそおう」とゾンビが即答した。

「メイクアップは?」

「作り上げる」

「美容は?」

「整形ね」

「……最後の違うと思うんだけど」と海場が振り向いた。

「で、それがどうしたんだよ?」佐藤は鼻筋に皺を寄せた。

 つまりな、と部長が手を止め佐藤と相対する。いつの間にか前髪を左右に上げて留めている。釣り目がちの瞳から放たれる鋭い視線、意外にも佐藤は恐れのようなものを感じた。

「化粧も変装も本質では同じだ。自分をいかに作り上げるか、自分をどう見せるのか、すべてはそこに帰結する。ここに揃えた市販の化粧品でも、お前を女顔にすることくらい造作ぞうさはない」

 はあ、と佐藤は気のない返事を漏らす。分かったような、分からないようなだ。

「今は分からなくても、気にすることじゃない。とりあえずお前は、赤髪の紳士なみしていれば、ただこそばゆいだけで終わる」

「なんだそれ?」

「赤毛連盟だね、ホームズの」と海場。「比喩ひゆを絡めるのが、部長さんの口癖なんだよ」

 ちらと視線を向けると、海場はダークブラウンのウィッグにくしを通している。少し長めのボブヘアといった感じか。

「長い髪が良かったって顔ね」と【ゾンビ】が口を挟んでくる。「ほんと、佐藤くんって思ってることがすぐ顔に出るから、チョロいわ」

「チョロいは余計だ」

「あれくらいのがお前にはお似合いなんだよ」と部長。「お前の顔の輪郭は、不本意なことにあたしと似たベース型寄りだ。髪型は顔立ちとの関係の中で決まる、つまり……」

「部長、話が長くなるからさっさと作業を進めましょ」

 【ゾンビ】が右手で部長の肩を叩いた。反対の手ではアイライナーの細長い容器を、ペン回しみたいにくるくると回している。器用なやつだ。部長も口をつぐむ。

「ま、こうやって、佐藤くんをじらしてるのも、楽しいけどね」

「一言余計だ」

 佐藤は溜息を漏らした。まったく、忌々しい【ゾンビ】だ。

「では、始める」と部長が宣し、腕まくりをした。「まずは化粧水からだ」



 外の世界が琥珀こはく色に染まり上がる頃、午後五時の定例チャイムが校内に

響く。

 その余韻が消え去るより前に、左見右見していた部長と【ゾンビ】がそれぞれ頷いた。

「……完成だ」「良い感じじゃない?」

 二人が佐藤の前から避けると、入れ替わりに海場が姿見を置く。

「……ぉ……」

 目に映った姿を見て、佐藤は言葉を失った。

 セーラー服を着込んだ女子生徒、その鏡像だ。

 佐藤がいすから立ち上がれば、【彼女】も同時に腰を上げる。紺と臙脂えんじのスカートが、黒タイツに包まれた両の脚を膝上までカバーするように下がる。体を横向けると、スカートが花開きまた閉じて、風が股下で踊った。ヒップラインの丸みがなまめめかしい。

 視線を上げれば、セーラー服を内から突き上げる大きなふくらみ。背筋を伸ばしていると、肩のあたりが前に引っ張られ窮屈に感じる。

 長袖の先には、ハンドクリームを塗って透明感の出た両の手と、ネイルケアによってツヤツヤと輝く十の爪。

 その手で、肩のあたりへと下ろされたミディアムボブのウィッグに触れる。作り物と分かっていても、そのさらりと指先をすり抜けていくような感触には、恍惚とさせられる。首筋をチクチクと刺すような痛みと蒸れるような感触が、いかにもリアルだ。

 そして、髪がわずかに輪郭を隠すその顔。ひげり跡の青みはオレンジのコントロールカラーで消え、テカりもファンデーションで押さえられている。その上でチークとリップが健やかさと艶めきを印象づけ、アイメイクの成果か目もいつになく大きく見える。

 この体のうちに、自分がいることがいかにも不思議だ。胸の内のざわめきがやまない。

「すげぇな、こりゃぁ……」

 驚きとも感動ともつかない感情に佐藤が打ち震えていると、

「名前をつけるとしたら、どうする?」と【ゾンビ】。

「【かぐや】、は? 本名に竹って字が入ってるから」と海場。

「あちこち言い寄った挙句、月から追放されたわけか」と部長。勝手なことを言う。

 よし、と部長が一つ手を叩いた。

「【かぐや】、その格好で校内を歩け」

「……あ、あぁ、そうだな」

 佐藤は、おずおずと首を縦に振る。胸中のざわめきが、緊張によるそれへ変わる。

 元はといえば、海場が受けたはずかしめをその張本人に意趣返しすることが、今回の目的なのだ。ありもしない証拠を捏造ねつぞうして、秘密漏洩ろうえいの抑止力にすると言ったところか。

「……けどよ」と佐藤は口を開く。「これで俺が女装してるってバレちまったら、むしろお前らの仕業だってのもバレそうなもんじゃねぇか?」

「どういうこと?」と海場が首を傾げる。

「なんて言うか、リアルすぎて、かえって俺一人がやったとは信じられねぇだろ。絶対誰かが手を貸したってほうが信じやすいぜ。それで言えば、写真撮ってんのもお前らのスマホだし」

「ふーん、案外買ってくれてるのね」と【ゾンビ】。「確かに、佐藤くんがその男声を出さなければ簡単にはバレないでしょうけど」

「そんな些末さまつごとほざいて、足踏みしてんなよ」と部長。「それに、お前に目が向いてるうちにこっちは雲隠れすれば良いだけの話だ。要するに、お前はただのデコイに過ぎない」

 四の五の言うな行くぞ、と部長がさっさと部室のドアを開けて行ってしまう。ならば、もう後には引けない。留守番の【ゾンビ】と海場を置いて、天文観測室を出る。

「歩き方だが」と先を下りていく部長が言う。「変に内股にするとかえって違和感が出る。ではなく、一本の線の上を歩くようにまっすぐ踏みだせ。そして、肩を引いて背筋は伸ばす」

 まっずぐ踏みだし、背筋は伸ばす。なんだか剣道のすり足と似ている。

 六階のドアの前につく。部長はカッターの刃を繰り出し、引き違いドアの隙間に差しこむ。すると、ドアは抵抗なく開いた。中で錠がバカになっていたのか、と佐藤は唖然とする。

 部長が慎重に顔を出して確認を取り、佐藤に道を譲る。

 佐藤【かぐや】が、琥珀色漂う廊下に踏みだす。

 直後。吹奏楽部のファンファーレが、その登場を迎えるように鳴り響いた。

 佐藤はびくりとして、足をすくませる。

 振り向けば、部長が階下を指さす。そちらへ行けというのだろう。

 鼓動を刻む打楽器、高々と鳴り響く金管。それらに押し出されるように、佐藤は階段を下りる。膨らんだ胸のせいで見えづらい足下に気をつけながら、一段一段。

 北校舎五階の美術室を尻目に、渡り廊下を通って中校舎へ、一年生の教室を左手に進む。

 足を出すごとにスカートが舞う、スカーフが揺れる、髪先がうなじを撫でる。両手には汗が滲み、クリームと混じってねばねばする。握りかえ掴みなおし、歩を前に向ける。

 そのとき、正面に人影が現れた。向こうの階段を上がってきた男子生徒、しかも二人。片やひょろ長い背丈、片やYシャツについた赤いシミが目に付いた。

 佐藤の心音がひときわ大きくなる。足音のリズムが乱れる。肩を縮こまらせそうになった。

 だが、部長の指示を思い出して、逆に胸を張る。手は左右で柔軟性を持たせて前後に振る。

 いよいよ男子生徒らとすれ違う。四つの目がこちらを向く。

 どう返したら良いのか分からない。それでも、歩みを一定にと心がけて目礼した。

 相手も会釈して、視線を佐藤から外した。わざとらしく姿勢を立ち上がらせて、佐藤の横を行きすぎる。佐藤も意に介さない体で、とかく足をまっすぐに出す。

 が、心中では荒れ狂う緊張をいかんともしがたい。口の中も渇く。

 二人が特段の反応を示さなかったのが、いかにも妙だ。その場で笑われるのもイヤだが、後で陰口なんて叩かれたらもっとみっともない。

 南校舎への渡り廊下手前で、思い切って振り返ってみた。スカートがふわりと翻る。

 男子生徒らが肩越しに見返っていた。佐藤の視線に気づいて、すぐさま前を向いてしまう。

 まるで、美しい髪の女性とすれ違い、思わず振り向いてしまう自分のような振る舞いだ。そのくせに目が合ったら途端に素知らぬ体を決め込む、と言ったところまで一緒だ。

「……マドンナだ」「……マドンナだな」

 中廊下に反響して、二人のひそひそ声はよく聞こえた。

 マドンナってなんだ? と釈然とはしない。だが、それはいかにも女性名詞のようだ。

「……バレてない、マジか」

 振り向きざま、傍らのガラスに口角を持ち上げた【かぐや】の顔が映る。意識はない、自然と得意な感情が表れているのだ。

 背筋をしゃんと伸ばし、南校舎へと渡る。胸元から肩への窮屈さがひときわ気になる、でもそれも不快ではない。

 陰る陽射し、闇色の直線路。突き当たりの非常階段口だけが明るい。

 人気の無いランウェイを、【かぐや】は歩く。

 スカートの裾は跳ねるように、ミディアムボブの髪も踊るように。

 澄ました表情に、自信をみなぎらせて。

 自分は、全く新しい自分に生まれ変わったのだ。

 夏休み中もずっと竹刀を振っていた、しがない剣道男子の佐藤竹寿から。

 セーラー服姿で男子の目を惹きつける、唯一無二の【かぐや】へ。

 非常階段の明るみに出る。西方かなたの稜線に、真っ赤で大きな夕日が沈もうとしている。

 佐藤は自分の容姿を残照の中で見下ろし、右に左にと回ってみた。スカートが広がり、髪が舞う。風が【かぐや】のまわりで回転する。金属バットの快音が小気味よく響いている。

 ――海場も、こんな心持ちだったに違いない。ふと、思った。

 あの恥ずかしがりのような男子生徒も、セーラー服を翻し長髪を揺らすときは、自信を胸に抱いていたのだろう。全く新しい、自分の姿に……

「か、かぐやちゃん」

 考えていた矢先に、後ろから海場の声がした。

 振り返れば、海場は臙脂色の女子用ジャージに着替え、肩先までの髪をハーフアップにしている。艶の控えめな髪色が、いかにもスポーツ少女の日焼けしたような髪らしく目に映った。いかにも健康そのものだが、眉尻を下げた表情には大人しそうな素の性格が出ている。

「ゾンビちゃんから、連絡だよ」

 海場が言って、無装飾のスマホを差し出した。受け取って、耳に当てる。

『どう、佐藤かぐやちゃん。だれかに正体はバレた?』

 のっけから質問が不穏きわまりない。だが、佐藤は自信を持って応じる。

「いや、バレてない。むしろ二度見されたぜ」

『ちぇ、つまんないの。さっさとバレて汚されてれば良いのに』

「なんだよその言い方」と佐藤は口先で憤慨する。

『だって、ユキと同じ辱めを受けるのなら、女装がバレなきゃ意味ないじゃない?』

 返答できなかった。確かにゾンビの言うとおりだ。

 ふと海場に視線をやれば、扉陰からこちらを上目遣いに見ている。ハーフアップの前髪はガラス玉のついたヘアピンで押さえられているらしい。大人しめなおしゃれ、という風情か。

「それで、俺はどうすれば良いんだ?」

 電話口に向かって尋ねた。海場がぱっと顔を上げ、丸い目で佐藤を見返す。

 その足下に、二つのスクールバッグがあるのに、佐藤は気づいた。

 【ゾンビ】が鼻で笑うような音をよこす。

『殊勝ね、自分から訊いてくれるなんて。それじゃ、簡単なおつかいを命じるわ』

 

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