【1章 - 1】廊下で大声を出してはいけない


 久しぶりの授業を終えて、放課後。

 手洗いの蛇口を閉めて、ハンカチを取り出したら、なにかが一緒に転がり落ちた。

 小さな軽い音に足下を見れば、間抜け面のカクレクマノミだ。先週末の文化祭の折から、ポケットに入れっぱなしにしていたらしい。

 手早く拾って顔を上げると、同級の男がジト目を佐藤の掌に注いでいる。丸刈り頭の中の目が、いつになく小さい。

「……なんだよ、ひがし」佐藤は手の上のものを、拳を握りこんで隠した。

「……佐藤」東が視線を佐藤の目に転じる。「変態も大概にしとけ」

 佐藤がどうとも応じかねる間に、デカい手を佐藤の肩に載せてきた。

「いくら佐藤竹寿という男が自他共に認める髪フェチだからと言って、そんなものを後生大事に持ち歩くとか、正気とは思えんな。剣道辞めたせいで、煩悩がたまってるんじゃないか?」

「お前の手には汚れが溜まってるんじゃないか? 先に洗えよ」

 東の手を払いのけ、Yシャツの肩を払う。だが東は素知らぬ体で続ける。

「佐藤よ、人の道に帰ってこい。今ならまだ剣の道にも引き返せる」

 相変わらずウザってぇ、と佐藤は溜息を吐く。それから奴を見上げた。

「……手洗わないと、金子かねこちゃんに嫌われるぞ」

「なっ、それは大変だ!」

 途端、東は血相を変え、蛇口を一気にひねってジャブジャブやり始めた。誰が利用しているかも知れないネット入りの石けんまで使う念の入れようだ。佐藤は一人先に廊下へと出る。

「……しかし、そこには佐藤くんが一番苦手な女の子がおる……」

 下から妙なナレーションが聞こえてきた。足だけは止める。

「そして、彼女こそが、佐藤くんが探し求めとった女の子やったんや」

「いや、ないな」佐藤は言下に断り、ナレーターもどきを見下ろす。「お前が使ってるヘアゴムはたいてい季節ものだ。カクレクマノミに季節はない」

「うわ、めっちゃ観察しとるやん。やっぱ佐藤くんは変態やで」

 ナレーターもどき、こと級友の金子実智みちが慌ててポンパドールスタイルの頭を手で覆った。前髪を頭頂で押さえているジャック・オー・ランタンの意味深な笑いが隠れ、代わりに小学生じみた顔ににやにや笑みが浮かぶ。

 対して佐藤の表情は苦くなる。「それで金子、何か用か?」

「用って、呼んだのはそっちやんか。無責任やなぁ」

「誰も呼んではいないんだが」

「うわぁ、ひどいやっちゃで。なぁ東くん」

「本当だぜ。男の風上にも置けねぇ野郎だ」

 いつの間にか東まで金子の側について、佐藤に嘲るかのごとき目を向けてくる。二つの視線が上と下から佐藤を刺す。

「ほんまひどいなぁ。そんなんやから女の子から相手されへんねやで」

「金子ちゃんの言う通り。ものにこだわる前に、まずは人を見ろよな」

 佐藤は二人から目をそらす。まったく、この二人が文化祭前に付き合いだしたというには驚いたが、こうしている限りでは気が合うというか息が合っている。まったく忌々しいが。

「……して、佐藤、さっきのものは結局何だったんだ?」

「気づいてないくせに散々言ってたのかよ!」

「また佐藤くんが女の子の髪に言い寄って失敗して、しゃあなしヘアピン盗っちゃった、っていう話やろ。知らんけど」

「知らない話を捏造すんな!」

 こういうところまで息ぴったりか、と呆れていると、

「……佐藤くん、廊下で大声出さないで。すごく響くから」

 冷静な声が割って入ってきた。三人の目が声の主に向く。

 腰に手を当て、セーラー服の胸を張る女子生徒。今日も今日とて、ツーサイドアップにした髪の均整が素晴らしい学級委員・糀谷こうじたに萌美もえみだった。

 そんな彼女の視線にも、どこか避けるべきものを見ているような蔑みがあった。

「それで、何か物騒な話が聞こえてきたけれど。女の子のヘアピン盗んだとかなんとか」

「違う」と佐藤は即座に言う。「金子の話は、だいたい二つの間違いがある」

 言ってしまってから、しまったと思った。二つあると示したからには、あのことも言わなければならない。きゅっと握った拳にヘアピンの先が刺さる。

「二つあるだと?」と東。「何が違うって言うんだ」

 佐藤は口をつぐみかけた。が、もう今さらと開き直る。ここだけの話だと断ればいい。

「……まず、ヘアピンは盗んじゃいない。その子が落としたところを拾ったから、返さねばと」

 殊勝ね、と糀谷がつぶやく。

「てか、女の子に言い寄ったんは否定せぇへんねやな」と金子はなおもにやにや。

「いや、それも違う。……ここだけの話、相手は女の子じゃなかった」

「は?」「んー?」「へ?」

「ちょうど文化祭の日でな、相手は女装してたんだ」

 しばらく、誰も何も言わなかった。糀谷は半ば驚いたように片目を丸くし、金子はきょとんとしてしきりに瞬きする。

 そして、ようやく動いた東が佐藤の肩を優しく叩いた。

「……佐藤、剣道やろうぜ。煩悩がたまって、それがお前の目を狂わせたんだ」

「煩悩のせいなら、お前の面じゃなくお寺の鐘を叩くわ」

 いいからどけ、と佐藤はまたデカい手を払いのける。

「……せや、もえちゃん。スタバ行こうや。優ちゃんとひよりんも行くて」

「あぁ、ごめん。今日もすぐに塾なのよ。二人にもさっき断っちゃった……」

 女子二人はすでに別の話題に移っている。佐藤にすれば、拍子抜けしたような安堵したような。まぁ、適度にスルーしてくれた方がありがたい。

「それよりも東」と佐藤は振り返る。「そろそろ部室に行かないと、チャイム鳴るぞ」

「もうそんな時間か」と東は辺りを見る。目のつくところに時計はなかった。

「あの先輩、遅刻したらその十倍素振りしろって言うからな。お前も急げ、佐藤」

「……俺に構わず先に行け」

「そうか、分かった。絶対に来いよ!」

 佐藤に指を突きつけつつ、東は一度教室に飛び込んだ。そのタイミングで、三時半の定例チャイムが鳴り出す。南校舎五階のここから体育館裏の部室まで行って道着に着替えてとなると、東はもはや遅刻確定だ。だが、荷物を抱えて出てきた東はいまだ飄々とした顔をしている。

「金子ちゃん、また夜にLINEするから。特に話ってないけど」

「おぉ、待っとるでー。部活頑張りやぁ」

 お付き合い相手からのエールに東は一つ拳を突き上げ、階段を二段飛ばしで駆け下りていく。バッグにぶら下げている自作のキーチェーンを盛大になびかせ、やがて姿を消した。

「みっちゃん、お待たせー」「あっ、もえ。また今度誘うな」

 ちょうど教室から出てきた同級の女子二人――金髪セミロングの中谷なかたにゆうとダークブラウンの髪を肩まで伸ばした古島こしま緋葉里ひよりが、金子と糀谷に挨拶する。傍らにいる佐藤に、二人は視線もくれない。佐藤はそっとその場を離れて一年四組の教室に戻った。中に生徒はもう居なかった。それぞれの放課後の居場所に向かったのだろう。ふと溜息が漏れた。

 佐藤がバッグと詰襟学生服を手に教室を出ると、糀谷はまだそこに立っていた。スクールバッグを両手で提げて、頭の左右に結わえられた二房の髪もまっすぐになっている。

「糀谷、塾なんじゃかったか」

「まぁね。でも優から戸締まり引き受けてるし、佐藤くんに伝言もあるの」

「伝言?」

「そ。曰く、総合の調べ学習の資料、ちゃんと図書室行って集めてきてねっ

て。明後日には持ち寄って意見交換するからって」

「あ、あぁ、わかった。……って、直接言いにくりゃいいだろうが」

「皆まで聞きたい?」

 糀谷の目が細くなる。そして、声のトーンを一気に変えた。

「だってぇ♪ 佐藤くんてちょっとぉ、なんていうかぁ」

 頭にキンキン響くようなアニメ声。糀谷の声芸に、佐藤は頬を引きつらせる。

「わ、分かった分かった。今日にも行くよ」

「それが殊勝ね」と元の声音に戻った糀谷。「あと、私からも一個」

 糀谷が半歩踏み出す。髪からわずかにフルーティな香りが漂ってきた。

「女装とかそういう話は、あんまり人に触れまわらない方がいいわよ。知られたくない、恥ずかしいって人もいるだろうし」

 佐藤はグッと詰まる。の絶叫が、耳の奥によみがえってきた。

 まったく、自分の不注意さには呆れるほどだ。自嘲ぎみに肩をすくめる。

「……そうだな、気をつけるよ」

「うん、これから気をつけた方がいいわ」

 糀谷が小さく笑った。



 図書室の匂いには、どれだけ居ても慣れそうにない。

 書架に整然と並ぶ本の匂い、あるいは空間に漂うほこりやカビの匂い。

 それらのい交ぜはあまりに静謐せいひつで、佐藤竹寿という人間とはどうにも相容れないらしい。

 消臭剤でも取り去れないほど防具に染み付いた汗の臭いが、ふと懐かしく思えた。伸びかかった丸刈り頭を掻く。剣道部は退いたとはいえ、どうにも性分まで捨てきれるものではないらしい。ジッとしているよりかは、動き回るほうが自分らしい。

 無論、それで失敗したことならごまんとある。

 上背のある面に打ちかかっていき、ひょいとかわされるなんてのは、定番の負け方だった。

 あの夕べの告白もそうだし、先のように口が滑ってしまうのもそうだ。

 いつだって、とにかく動いて、そして失敗する。後悔や反省は、いつも後からやってくる。

 だから今、背表紙のタイトルだけ見てそれっぽいのを選ぶのは、佐藤竹寿的に何ら間違ったことではないのだ。いちいち手にとって中を見て有用かを検討して、なんてのは自分のすることじゃない。とにかく借りてみて、後で失敗だったと肩をすくめればいいのだ。

 適当な本を取り出し、カウンターへと足を向ける。壁掛けの時計は四時を回ったところで、閲覧席には十弱の男女。そして、返却箱に本を入れている女子生徒の半身。

 佐藤の手から本が滑り落ち、足の甲に激突した。

 だが、それに彼自身は気づかない。

 注目は、今まさに返却箱の前で反転した女子生徒だ。

 黒長髪がゆっくりと翻り、電球色の反射光がきらりと踊る。

 ちらりと見えたその側頭部に、飾り付けはない。

 当然だろう、数日前の彼女がつけていたヘアピンは今、佐藤のポケットにあるのだ。

 まがうことはない。あの学園祭の日、夕暮れを背景に佇んでいた彼女だ。

 いや正しくは、、だ。

 佐藤の頭に、驚きと疑念がひらめく。

 ――なぜ、今ここにいるんだ?

 先週末で文化祭は終わり、それなのに変わりない姿で学校に居るのは、なぜだ?

 彼女が図書室を退出し、姿が見えなくなる。無意識に足が前に出る。

 途端、足の鈍痛を佐藤は自覚した。骨の染みるような痛みが駆け上がってくる。

 だがそれも脳に達する頃には関係なくなっていた。落とした本ももはやどうでも良い。

 今は、彼女か、もしやが気になる。ただそれだけだ。

 次の瞬間には、佐藤もまた図書室を出て、彼女の後を追っていた。



 の長髪を流す背中を追って、佐藤は北校舎六階に足を踏み入れた。

 音楽室では成績優秀な吹奏楽部が、すでにその成績に見合った猛練習を開始しているらしい。乱れを知らないロングトーンが廊下にまで響いている。対する書道室のほうは沈黙だ。

 佐藤は一人首を傾げた。――見渡す限りに人の姿がない。

 ここは、一直線に並ぶ南・中・北の三校舎のうち唯一六階建てと背の高い北校舎であり、その最上階である。つまり、行き止まりの袋小路。

 それなのに、の姿が目につかないのだ。

 いや、行く先は限られている。音楽室か書道室、及び付随する準備室、でなければトイレだ。

 取り急ぎ、書道室と各準備室が施錠されていることを確認。その人が吹奏楽部員である可能性もひらめいたが、それにしては足取りに焦りはなかったので確率は低かろう。女子トイレを調査する気はないが、校内の最果てにまでわざわざ足を運ぶとは思えない。機材運搬用のエレベーターも設えられているが、現在動いている様子は無い。

 は、ここに来て忽然こつぜんと姿を消してしまった、ようだ。

 スラックスのポケットに左手を入れる。ヘアピンの感触は嘘じゃない。だと言うのに――

「……もう、良いじゃねぇか」

 佐藤は自らに言い聞かすように呟いた。何を執着する必要があるだろう。確かにヘアピンの件もあるし、あの夕べの非礼を詫びたい気持ちはある。それでも、ここまで来てはさながらストーカーだ。ここはもう諦める方が吉かもしれない。

 肩をすくめつつ、佐藤は振り返る。

 だが、その目にまだ確認していないドアの存在が映った。

 それは、さっき上がってきた階段のすぐ隣。後付けの壁で仕切られた一角の一辺に、引き違いのドアを設えられているのだ。

 ガラス窓を覗いてみれば、物置のような上り階段がある。確か北校舎の屋上には天文観測のドームがあったな、と思い出した。剣道部員だった頃は体育館裏の部室からよく見上げていた。

 ここまで来たならせっかくだ、佐藤はドアを引いてみる。

 するすると、抵抗なく開いた。

 間違いない、この先には進んでいったのだ。

 荷物類を持ち直し、ほこりっぽい臭いが漂う内部に足を踏み入れる。

 段ボールが左右に並んでいるが、リノリウムの床には臭いほどもほこりは積もっていない。人の出入りがあった、がここを通ったという証拠だろう。

 直後、ダンッという大きな音に、佐藤は肩を震わせ振り向いた。

 引き違いのドアが閉まっている。慌てて手をかける。

「な、なんで? 開かない……」

 ガチャガチャと錠の当たる音がするばかりで、いっこう開く気配がない。よりにもよって、内から開けるにも鍵が必要で、手動では開けられない。

 なんか、こういうお話があったような……

 例えば――後戻りのできないステージで、配管工は大王との闘いを強いられる。その末にお姫様を助け出す。

 頭に浮かんだ内容に、思わず苦笑が漏れた。鉄板だ、鉄板過ぎる。

 だが、悪くない。助け出すなり求めるなりする存在はある。ジャンプ力はないが、剣なら使える。

 佐藤は意を決し、ドアに背を向けた。とりあえず階上を目指してみる。

 中身の知れない段ボールの間を抜け、スチールデスクと教室机が放置されている踊り場で折り返すと、屋上階に位置する教室が見えた。ドアや窓には暗幕が引かれ、中は窺い知れない。

 だが、その暗幕は静かに揺れている。室内に人が、彼女か、もしやがいるに違いない。

 佐藤ははやる気持ちを宥めながら、より慎重に足を進める。

 足音を立てぬようにして、屋上階の床面を踏む。左右に続く短い廊下、右は行き止まりで、左は屋上にも出られるらしいドア。部屋は正面の一室のみだ。

 その部屋のドアに手をかけた。ゆっくりと隙間を開けていく。

 そして、一センチほどの所から、中を覗き込み――

 紅色の瞳と、目が合った。

「ぎょえっ!」

 悲鳴を上げ飛びずさる。弾みで足がドアを蹴った、ガンッと鈍い音。

 直後、ドアがガラリと開いた。

「……見たな」

 高さと重たさと湿っぽさとが、妙に混じりあった声音。

 顔を上げた佐藤は、今度は悲鳴すら出てこなかった。心臓が警鐘を打つように轟く。

「ゾ、ゾンビ……」

 目に映ったそいつを、簡潔に言い表した呟きのみが漏れだす。

 紅の瞳は爛れた顔の中にあり、首は一度切断されたのをぞんざいに縫い合わせられている。まさしく【ゾンビ】だ。ほつれ破れの目立つゴスロリ風衣装の左袖は中途で切り落とされ、むき出しの腕には切り傷やひきつれが目立つ。

「……見たよな」

 一歩踏みだしてくる。左右でくくった、薬品に冒されたようなボロボロの髪が揺れる。

「……許さぬ」

 さらに一歩。立ち上がろうとした佐藤だが、落ちていた詰襟に引っかかって再度転ぶ。

「……生きて帰れると」

 ゾンビが手を伸ばしてくる、長く伸びた爪も鮮烈な赤色。

「思うなよ……!」

 そいつの凄みに、佐藤はのどを鳴らし――

「そこまでだ、ゾンビ」

 制止を告げる別の声にさえ、悲鳴を上げかけた。

 が、すぐに正気を取り戻す。

 ゾンビの後ろ、開いたドアのところにもう一人が立っている。シルエットになっているせいで、本校セーラー服とボブカットの髪しか判然としない。

「来いよ、そこの覗き魔。話がある」

 そのシルエットがアルトボイスで告げる。

「は、はなし……?」

「良いから来なさい」とゾンビが言った。声音は甲高めな女子のそれに変わっていた。

 ゾンビの存外温かな手に腕を握られた佐藤。抵抗する暇も意思も持つことなく、ただ部屋へと連れ込まれるしかなかった。



 天文観測ドームの直下に座らされると、なんだか生きた心地がしない。金属の半球が頭上で口を広げているのだ。まるで自分が未確認飛行物体に連れて来られたかのような気分になる。

 さらに言えば、佐藤の前に仁王立ちする二人のせいでもあるのだが。

「まさか、本当に釣れるとは。単純な人間だな」

 黒のボブカットの女子が呆れたように言った。眼鏡すらも隠す前髪がその表情をうかがわせない。別段髪質が悪いわけでもないのに、前髪だけで全体の印象が重たげで不気味だ。

「髪フェチの変態くんは学習しないのかしらね?」

 さらに【ゾンビ】が同調してくる。間近で見直しても、やはり生きた人間とは思えない。ただれれた皮膚ひふも傷がはびこる右腕も本当にそれらしい質感をしている。

「ま、あたしたちにとってはそのほうが助かる」

「それもそうね、話が早く済んでいいわ」

 ともあれ、好き放題言われるばかりではしゃくに障る。佐藤は強がりの笑みを作った。

「お前ら、演劇部だろ?」

「は?」「うん?」

「この部屋を見渡せば分かるさ」と佐藤は両手を左右に広げる。「例えば俺の左後ろにある衣装掛けの衣装。制服や私服やゴスロリにパンク系、なんかいろんなもんがあるな。または、ラックに並ぶウィッグ、長いの短いの色つきの、なんか猫耳のついてるのまであるじゃねぇか。あの文庫は、シェイクスピアの全集か。『ロミオとジュリエット』なら知ってるぜ」

 それに、と佐藤は左から右に目を転じる。屋上側の開いた窓の下には段ボール箱がいくつか。

「そこの箱に『化粧品』とか『布・裁縫道具』とか『血のり』だとかって書いてある。こんなものを使うとしたら、そんなのは演劇部しかない。こんだけ備品があるんだ、一つの部室でまかないきれるはずがないわな。で、ここを倉庫として間借りしてるんだ。そしてお前らは管理する傍らそれらを勝手に拝借して、例えばそこのゾンビを作ったんだ。そうだろ?」

「違う」

 ボブカット女子が端的に言い捨てた。佐藤は口をへの字に曲げる。

「さすがは、わたしたちのユキを泣かせただけあるね。この考え無し」

 【ゾンビ】も両掌を天に向けて呆れのポーズ。罵倒も続いて、佐藤は一瞬口ごもった。

 だが、かえって見栄みえを張る気力も無くなった。

「……じゃぁ」と問う。「おまえら何もんなんだよ? ユキを泣かせたって何だ?」

「その質問には後で答えるかもしれない」とボブカットが応じた。

「その前に、あなたには会ってもらわなきゃいけない人がいるわ」と【ゾンビ】も続ける。

 佐藤が何かを言い返す前に、ボブカットが佐藤の後方に目を向けた。

「おい、ユキ! 恥ずかしがってないで、出てきたらどうだ?」

「……はい」

 か細い声が返ってきた。佐藤がボブカットの視線を追って振り向くと、暗幕の引かれた外向きの窓の前に、移動黒板や机いすが寄せ集められている。

 そして、移動黒板の陰からおずおずと、見事なまでのスキンヘッドが現れた。ゆで卵のようなつるりとした丸い頭部に、周囲の色味が反射している。

「……こ、こんにちは」

 変声期みたいな、中途半端な高低感のある声だ。顔立ちは整っていて、どこか愛嬌があるよう。少し大きめの男子用紺色ジャージを着ていても、その全身の細さ薄さが――

 ここに来て、ようやく『ユキを泣かせた』の意味が理解できた。

「お、お前、文化祭のときの……」

 それにさっきの、という言葉は喉の奥でつかえた。

「……う、うん。あのときは、驚かせちゃって、ゴメン」

 謝りながら歩み寄ってきたユキなる少年は、「ぼ、ぼくは……」と自称を口にすると同時に、一枚のメモ用紙を佐藤に差し出してきた。

 受け取ると、そこには『海場之也』との漢字。習字の手本のような、見事な楷書体だ。

「……いつも、口で説明するの難しいから、こうやってメモで渡してるんだ。

そう書いて、『カイバユキヤ』って読むのが、ぼくの本名。よろしくね」

「あ、あぁ。よろしくな、海場かいば

 佐藤は半ば呆気にとられて挨拶してしまった。それから思い出して、スラックスのポケットに手を入れる。カクレクマノミのヘアピンを掌に載せて出す。

「あの直後に、落ちてるのを見つけたんだ。それで、返そうと思ってたのもあって……」

「そんな、大丈夫なのに。でも、わざわざありがとう」

 海場之也はそれらを手に取る。一瞬触れた指先がとても冷たく、わずかに震えていた。

「顔見せは終わった?」

 【ゾンビ】が口を挟んできた。佐藤は姿勢を戻す。

「これで、あなたをここまで誘い出した理由も分かったでしょ、一年四組の佐

藤竹寿くん?」

 佐藤は目を瞬かせ、割に大きな胸を反らせている【ゾンビ】を見上げる。

「誘い出した?」

「あなたはユキを傷つけたの。女装してるところを言い寄ってきて、そのくせウィッグだと分かったら変な顔するんだもんね。おまけに、そのことをクラスで言いふらしたわよね?」

「言いふらしては……、ってなぜそんなこと知ってんだ?」

「そりゃ廊下であんな大声出してたら、ね」と【ゾンビ】が肩をすくめる。

「佐藤竹寿」とボブカットが簡潔に言い捨てる。「お前はあたしたちの秘密にも接触し、かつ風潮するかもしれない。危険人物だ。これは看過できない、だからお前をここに誘導した」

「……秘密?」

 あぁそうだ、とボブカットが腰をかがめて目線を合わせにくる。前髪と眼鏡の向こうに、きつい印象の細目が覗く。

「ここは、秘密のクラブだ。それぞれに変装を通じて、それぞれに自分のなりたい姿、やりたいことを模索していく。――あたしたちは、変装部へんそうぶと呼んでいる」

「へ……、変装、部?」

 佐藤は【ゾンビ】の爛れた顔を見上げ、ユキのうつむき加減の赤い顔を見つめ、そして正面の窺い知れぬが故に不気味な表情を見返した。

「ここに集うのは、さながらはたを織る鶴とうじの沸いたイザナミと沐浴もくよくするニンフだ。秘密を覗き見るのは最大のタブー。そして、タブーを破ったものには相応の報いが下される」

「む、報い?」

「老夫婦は娘に発たれ、イザナギは追われ、アクタイオンは鹿に変身させられたように」

 お前には……、と彼女は表情を改めずに、告げた。

 

「女になってもらう」

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