【3章 - 1】丸くしたり、菱形にしたり



 土曜日の昼下がりと言えば、紅茶店『松竹梅しょうちくばい』にとっては一番の書き入れ時である。

 故に、客席から追い出された一人息子は、住居一階の自室にこもるしかない。

 佐藤竹寿はベッドに寝転がり、ネットマンガをさらっていた。〈峰ちか子〉という作者による少女マンガタッチの青春日常譚は、東に紹介されてから何と無しに追っかけている。ユーモアとリアルの混じり具合が絶妙で、笑わせられもするし身につまされることもある。

 特に今朝方アップされた新作はかなりシビアだ。主人公のツインテール少女は、仲良しの友人グループに与するか、そのグループからつまはじきにされた親友につくべきかで右往左往している。その最中に知ってしまった親友の秘密、ついに主人公は決断を迫られて――

 と、そこでインターホンが鳴った。いっそ無視しようかと思ったが、両親は出るに出られないだろう。仕方ない、佐藤はスマホを置いて部屋を出た。

 廊下の端末の液晶画面に、カメラ付きインターホンが撮った来客の姿が映っている。それを目にした瞬間、思わず喉の奥からうなり声が出た。――見覚えのあるあばた面。

 深呼吸を一つしてからドアを開け、アプローチの石を踏んでいく。

「お、お久しぶりです、湯島ゆじま先輩」

「久しいな、佐藤」

 剣道部新主将の湯島宏大こうだいが、背筋をぴんとさせて立っている。丸刈り頭で背も高い偉丈夫ではあるが、垂れ目なので威圧感というのはない。黒いTシャツに柄はなかった。

 佐藤は門扉を開け、あくまで丁寧な対応を心がける。

「突然ですね、どうかされましたか?」

「……ちょっとな、お前に言いたいことがあってきただけだ」

 言いたいこと、と言われて、いい話であろうはずがない。まさか、あの写真のことだろうか。

 存外温かな日和なのに、背中がどうにも冷たい。寝汗の気化熱か、それとも冷や汗か。佐藤は息を細く吸い、身構える。

 が、湯島は膝に手をつき深々と頭を下げた。

「すまん、佐藤。俺が軽率だった」

「……は?」佐藤の口から気の抜けた声が漏れた。「な、なんの話ですか?」

「夏くらいから、お前のことを髪フェチの変態だとかってバカにしてきたことだ。それが部で広まってお前を傷つけ、あまつさえ退部に追い込んだ。その責任は俺にある」

 すまなかった、と陳謝を重ねる湯島。佐藤はとりあえず面を上げるよう乞うた。

 だが湯島は姿勢を変えない。「……これは言い訳に過ぎない」と徐に口にする。

「あの頃は、突然母が倒れたこともあって、何かを失うことに敏感だった。妹に近寄るお前を見て、妹まで俺から奪うのかと怒りが湧いてきて、意図せず軽はずみな行動に出てしまった」

 湯島が膝の上の手を握りこみ、やがてゆっくりと解く。

「正直すぐにでも謝りたかった。だがお前を前にしてみると、俺は俺をコントロールできなかった。ひどいことも言ってしまったし痛い思いもさせちまった。それに、周りが俺を真似するのを見て、ほくそ笑んでいたのも本当だ。お前が退部して、初めて自分を省みた。我ながらとんだ卑劣漢ひれつかんだ、主将なんてうるわじゃない」

 最近になって余計にそう思う、と湯島は頭を上げようともせずに続ける。

「お前が知ってるかは知らないが、俺についても噂や悪口が立っているんだ。まるで屈辱的な話だし、妙な証拠まで出てくる」

 湯島の言いに、佐藤は内心穏やかならぬものを覚える。

「けれど、お前と同じ立場になったことで、自分の愚かさと責任の重さを改めて痛感した。……赦せなどと言うことは出来ない、ただ謝らせて欲しい。佐藤、本当にすまなかった」

 さらに頭を低くする湯島。板張りの道場なら土下座しているレベルだ。

 佐藤は丸刈りの後頭部を見つめる。肌の白色が目につくほど髪を剃っている。頭を丸めてでも謝りたいという意思の表れなのだろうか、と佐藤はふと思った。

 さすがに、こうまでされて謝罪を断る理由もない。佐藤も心持ち頭を下げる。

「先輩、俺のことはもう良いっすよ、気にしないでください。剣道を辞めたのは、単にそれを続けていけるほどモチベーションが無かったってだけで、まったく俺の問題ですから」

 だから頭を上げてください、ともはや懇願めいた口調で諭す。湯島も、ここに来てようやく頭を上げた。瞳は未だに伏せ気味のままだが。

「そう、せっかくです」佐藤は手を打つ。「お茶でもどうです、おごりますよ」

「……いや、気持ちだけで充分だ」と湯島は首を横にした。「あいにくこの後バイトがあって、すぐに戻らなきゃいけない」

 用があるなら仕方ない、と佐藤も強いて押しはしなかった。それにしても、土曜の今日までバイトとは、主将との両立どころか部活と勉学との両立も面倒そうだ。

「……あれ、じゃぁ先輩。今日部活はどうしたんですか? 休みですか?」

 佐藤は今になって疑問に感じた。週休二日の一方が休みになったとは東から聞いたが、てっきり日曜のほうだと思っていた。東が金子とデートするのも明日だと聞いている。

「いや」と宏大は首を横に振った「今ごろは皆、午後の稽古に励んでいるはずだ」

「え、じゃぁ、どうして?」

 戸惑う佐藤の前で、先輩は少し言いよどんだ。目元が震え、わざとらしい瞬きを数度。

 それから幾分も小声になって、答えた。

「……俺も、今朝をもって部を退いた。家計を助けるためにはやむを得まい」



 週が明けて月曜日。

 朝からの時雨模様も、幸いに放課後には止み間が見られた。みな蜘蛛の子を散らすようにバタバタと帰路につき、あるいは雨と関係なく部活へとおもむく。

 最後まで教室に残った佐藤竹寿と糀谷萌美も、荷造りと施錠を済まして廊下に出る。佐藤は鍵の返却、糀谷は書類を生徒会室に提出するとかで、ともに一階へと向かう。

「佐藤くん、今日は妙にぼんやりしてたけど、どうしたの?」

 先を行く糀谷が尋ねてきた。階段を一つ下りるたびに、ツーサイドアップの毛先が揺れる。今日も今日とて均整の取れた髪型だ。

「ちょっと寝不足なだけだよ」

 佐藤は教室の鍵に手の温度を奪われながら、嘘と誠が相半ばした返答をした。

 我ながらふてぶてしいほどが、この二日とも時間通りに就寝したし、入眠もスムーズだった。

 だが、日中も少し頭が重たく感じられるのは本当だった。

 寝不足、かも知れない。けれど、それだけとは思われない。

 土曜日の湯島先輩の訪問、そして最後の告白。

 その時、先輩の目元によぎった感情――あきらめと後悔、そしてわずかの憤懣ふんまん

 その三つを佐藤も知っている。というか、一月半前に自らも味わった感情だ。

 つまり、部長もまた身も蓋もない噂に翻弄され、居づらさを覚えて、結果部を退くことにした。かつて、佐藤がそうしたように。

 そしてそのきっかけ作ったのは――

 いや、しかし、元を正せば自業自得なのだ。これで本当の意味でフェアになったのだ。

 そう自分に言い聞かせるのも、三日目となるとそろそろ飽きが来た。だから別の話を振る。

「糀谷は、清花さんや家族とは、あの後どうなった?」

 ちょうど三階に下りてきたところで、糀谷が振り向きざまにこちらに顔を向ける。窺い知れる限り、彼女の表情に暗いところは見受けられなかった。脚を止めずに階下へと踏み出す。

「いちおう昨日の真っ昼間から家族会議をやったわ」と糀谷、「以前の塾には通うことになったけど、それ以外のことではほとんど放任してもらえそうよ」

「かなりの収穫だな。こういうのもなんだが、うまく行ったみたいで何よりだ」

「まぁ、キャミソール着て、左手にカッター握りしめてたからね」

「それは会議じゃないだろ。あれか、剣はペンよりも強しって言う」

「言葉としては間違ってるけど、状況的には正しいから皮肉ね」

 糀谷は肩をすくめ、佐藤は首を振った。ちょうど二階に下り立つ。

 途端に糀谷が身を翻す。

 自然体な黒茶色の髪が、円舞するようにふわりと広がる。フルーティな香りが刹那に広がる。

 そして、やや前屈みになって見上げてくるその顔には――ニマニマした笑みがある。

「ほんま先週は助かったわー。ありがとーなぁ、さとーくん」

「……金子のものまねか?」

「そやで、似てるやろ」

「似てる」

 糀谷の声芸はついにものまねを習得したのか。芸人でも目指すつもりだろうか、こいつは。

「そういえば」糀谷が先に階下へと踏みだす。「今日のみっちゃんは大人しかったね」

「あ、あぁそうだな」佐藤も後を追う。確かに、関西弁を耳にしたのは糀谷のが今日初だ。

「東くんも落ち込んでたみたいだけど、佐藤くんは何があったか知ってる?」

「知ってる。秘密がバレたせいで気まずくなったとか、そういう下らん話だ」

「ふーん?」と糀谷が少しだけ振り向く。「じゃぁ、佐藤くんの秘密もバラしちゃおっか?」

「あっ悪い、撤回する! 秘密がバレたって、なかなかこじれそうな話なんだよ」

 慌てて言いなおしたおかげで、糀谷は再び前を向いてくれた。佐藤は深々と溜息。

 上の階をだれかがバタバタと通り過ぎていった。



 二人、一階にやってきたところで一度左右に分かれた。佐藤は鍵を職員室に返して、改めて北校舎の方向へ脚を向ける。

 ちょうど生徒玄関前を抜けたところで、糀谷が生徒会室から出てきた。失礼しました、と室内へ丁寧に辞去の礼をして両手でドアを閉める。ツーサイドアップの髪が同時に垂れ下がったり、同時に揺れたりした。

「お前は、変わらないな」

 思ったことがそのまま口をついた。糀谷が振り向き、視線を鋭くさせる。

「何よいきなり。変態が他人を評価しだすとか、輪をかけて変態でしかないんだけど」

 佐藤は閉口した。やっぱり変わったのかもしれないとやや考え直す。

「気にしないで。悪い子で物知らずな佐藤くんにしか、こんな口の利き方しないわ」

「余計気にするわ」

「じゃぁ、そんな佐藤くんに一つレクチャーしてあげる」

 佐藤の苦言も無視し、糀谷は指を一本立てた。

「女子にはそれぞれに似合うヘアスタイルってのがあるの。キーワードは菱形よ」

「……菱形?」佐藤は復唱する。

「顔の輪郭とヘアスタイルを合わせたシルエットが菱形っぽくなるのが、キレイに見られる条件なの。ユキみたいな卵形の輪郭ならどんなスタイルでも似合うけど、わたしみたいなどちらかと言えば面長な人間は横方向のベクトルを足さないと菱形にならないわ」

「だから、糀谷はいつもその髪型なのか?」

「そういうことよ」

 糀谷が頷くのと相前後して、傍らの階段を誰かが下りてきた。ふと振り向くと、艶めく黒髪と額を彩るカクレクマノミのヘアピンが目についた。

「お、ユキ」「あっ、ちょうど良かったわ」

 それぞれの挨拶に、最後の一段を下りきった彼女は顔を上げた。今日はバックのほうの長髪をうなじでひとくくりしている。首のあたりへ細く収束するような全体感、それに頬を覆うように内巻きにされたサイドの髪も相まって、いつも以上に顔がほっそりとして見える気がする。

「佐藤くんや部長みたいなベース型寄りの人はね」と糀谷が彼女の側に回り、横髪をく。「頬やえらが張って、顔が大きく見えるの。だから髪で輪郭を隠しつつ、ワイングラスの持ち手のように首元へすぼめさせることで、全体を小さく錯覚させるのが良いのよ。ね、部長?」

「へぇ……え、部長?」

 糀谷の言に、佐藤は改めて彼女を見返す。よくよく観察すれば、アイシャドウで補正されているとは言え、鋭い釣りがちな瞳の形が見て取れた。

「いきなり何の話だ、萌美。佐藤もあんま見てくんな、気持ち悪い」

 彼女がぶっきらぼうに口を利いた。そのアルトボイスは、確かに――

「ぶ、部長!」佐藤が頓狂な声を上げる。「なんで、そんな格好……」

「しっ!」

 二人に一睨みされ、佐藤は慌てて口を塞ぐ。急ぎ周囲を見回す。どこからも人が来ないのを見て、佐藤は溜息を漏らした。

「今日は部長が【柏原】当番だったもんね」と糀谷。「でも、着替えないんですか?」

「あぁ、ちょっとな……」と山田は顔を伏せる。「ユキは用事で先に帰ったし……、今日は、この格好で帰ることにする」

「なんかあったんすか?」

 佐藤が問う。途端、糀谷の拳が飛んできた。当たりこそしなかったが、佐藤は仰け反る。

「な、何しやがる!」

「デリケートな話だって察しなさい、この鈍感」

 先に話振ったのはお前だろ、と文句が出かかったが、糀谷の睨みを受けて口を閉じた。

 山田はそれでもしばらく俯いたままだった。だが、やがて、一つ息をついた。

「まぁ、良い。あたし一人じゃ、煮詰まってたところだ」

 山田が二人の間を抜けて、生徒玄関のほうに脚を出す。どこかうつろな歩き方だった。足音はか細く、長い髪もただ重力に従っている。

 二人も一度顔を見合わせ、山田の後をついていく。山田の独り言のような声が聞こえた。

「……答えの出ない問いに答えを求め、または答えの明白な問いに答えるのを躊躇う。その堂々巡りの中で、思考が行き場を失う。つまり……」

 山田はそこで脚を止め、徐に振り向いた。二人もすぐに立ち止まる。一メートルほどの距離感。蛍光灯の明かりが山田の半身だけを照らしている。

 そして、いつになく不安定な口調で、山田は言った。


「……お前ら、ストーカーに遭ったら、どうする」






【次回更新は、11/9(火)の予定です】

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