十
男の名前は、
浪人みたいな風貌だが、長崎の出島で役人をしている方だそうだ。
江戸に向かう途中、用があって京に寄ったついでに、厚明兄様の文を届けに来てくれたのだという。それと…
「いやー、厚明殿が妹自慢するのがわかるよ。背も高くて、色白で、美人さんだね、琳子ちゃん」
「…ありがとうございます」
暑い外ではなんだからと上がってもらった客間に落ち着くやいなや。またか、と思いながら、にこにこと悪気のなさそうな様子に、とりあえずお礼を言っておく。
厚明兄様の知り合いだとうちを訪ねてくる人の半数が、私目当てだ。
父様似の厚明兄様はまあまあの男前で、愛想がいい。嫌味のない人柄がいいと、それなりに好かれるらしい。けれど、言い寄られても断ってしまう。その理由が、勉学に励みたい、だけならいいのに、美人は妹で間に合ってるから、と妹自慢に続くという。じゃあその妹は本当に器量良しなのかと好奇心で見に来るのだ。母様似の私と厚明兄様は似てないので、疑われてもしょうがないとは思うけれど。
まあ、たいていはこうして厚明兄様からの文や荷物も運んできてくれるついでなので、来訪自体はありがたい。
「村垣さん、今のは琳子殿に対して失礼ですよ」
一緒に上がってもらった光誠様が、村垣様の隣で睨みをきかせる。
「相変わらず硬いな、光誠は。そんなんだから、粋な色男だっていうのに誰も言い寄ってこないんだぞ」
笑いながら光誠様の背中をばんばんと叩く村垣様に、更に鋭く。
「…わ、わかったから、もう睨むな!」
無言の圧に負けて、村垣様が申し訳ないと私に頭を下げる。
「いえ、そんな。気にしていませんから」
「だめですよ、琳子殿。出島で働いているのに、フェミニズムもわかってないこの人が悪いんです」
フェミニズム?
「おお、さすが光誠。ジェントルマンは違うな」
ジェントルマン?
「あの、お二人はどちらで知り合われたんですか?」
わからない言葉を普通に使う二人に、思わず聞いてしまった。
「琳子ちゃ――琳子殿は、光誠が江戸にいた事は知ってるか?」
ちゃん付けで呼ぼうとしたところを、また光誠様が睨みつける。確かに、見た目がいいだけに、睨む光誠様は怖い。
「はい。九年ほど前から数年、京を離れていたと」
「そうそう。その時に
村垣様が、ちらりと光誠様を見る。私もつられて様子を見ると、この話題は問題ないようで、光誠様は静かにお茶を飲んでいた。
「蕃書調所は蘭学もだが、英学も盛んで、これから必要になるってんで二カ国語の習得が必須でね。みんな四苦八苦する中、こいつだけ涼しい顔ですらすら話せるようになりやがって。六つ年下なのに凄いやつだと、俺はこいつを尊敬したってわけだ」
真面目な光誠様ならありそうなことだ。
けれど、光誠様はまた村垣様を睨みつけた。それに対して、村垣様は屈託なく笑って見せる。
「からかうのは止めていただきたい。他にも優秀な方はいらっしゃいましたよ。有馬様など、四カ国の言葉を習得されていた」
「そうだったか? 俺はあいつ苦手だったからな。まあ、それはいいや。ってことで、琳子殿、光誠と俺は御学友だったってわけさ」
ぽんと膝を叩いて、にかっと笑う。
「だから、異国の言葉に堪能なんですね」
「堪能か。俺のはわからんが、光誠は優秀だったからな。洋行後は江戸にいるかと思っていたが、ここで偶然会えるとはね」
「江戸は苦手なんですよ」
「なんだ、それなら俺が案内してやるって。旨いものも、楽しいとこも教えてやるよ」
「結構です」
その後も村垣様との話は弾み、厚明兄様のこと、長崎出島のこと、異国のこと、いろんなことを聞いて過ごした。
村垣様が帰ったのは、昼食をご一緒したので申の刻になろうという頃。
旧交を温めると言って、嫌がる光誠様と一緒に行ってしまった。
楽しい時間は過ごせたけれど、光誠様に聞きたかった事は聞けずじまい。
明日も陰陽寮に行く事になっている。
それまでにこの気持ちを少しでも整理したいと思っていたのだけれど…。
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【蕃書調所(ばんしょしらべしょ)】1856年(安政3年)に発足した江戸幕府直轄の洋学研究教育機関。蘭学と英学の洋学教育が行われていた。光誠は16〜17歳まで在学。
※2024.10.18 実名表記を修正しました。
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