五
呼び板の音にこま子が誰何をして、開けた扉の向こう、まず視界に飛び込んできた牛にどうしてと思った。
そして、その牛の横に立つ牛飼童とは別の短髪に狩衣の男に、更に。
随行者としてやってきたのは、小野光誠様。
ちょっと考えればわかったはず。私の状況を知っていて、それに対応できる上に陰陽寮に出入り出来る人物といえば、確かに光誠様しかいない。
とはいえ、絵本の件の遺恨が残るのに、すぐに頼る気にはなれない人物でもある。
「ご足労いただきありがとうございます。小野様が随行者ということで間違いないのでしょうか」
なるべく感情が出ないよう、丁寧に尋ねる。けれど、
「先ほども陰陽寮からの使いと名乗った通りです。琳子様には諸々の思いがごさいますことと推察いたしますが、お受け入れいただけますようお願いいたします」
謙った物言いと下げられた頭に慌てる。
「小野様、それはやりすぎです! 私より小野様の方が官位は上のはずでは!」
正式な役職はないけれど、光誠様の権限は陰陽頭と同等と聞いた覚えがある。ただの陰陽寮の陰陽師に過ぎない私に頭を下げるなんてあってはいけない。
「いいえ、これで間違いございません。琳子様は《姫陰陽師》であらせられますので」
《姫陰陽師》の一言でわかってしまう。何かと面倒な私を、《姫》として扱うことで特別な立場を無理やり収めようとしたのだろう。
「…誰の差し金かお聞きしてもよろしいでしょうか?」
こんなことをやれてしまう人物の心当たりは一つしかない。
けれど、なんであの方が私なんかをそんなに気にするのかがわからない。
自ら後見になってくださったのも、なのに私を混乱させるのも、どうしてなのかわからない。このことだけは、お祖父様も、父様も教えてはくれなかった。
だから余計あの方への嫌悪が深くなってしまうのかもしれないけれど。
「まずは牛車にお乗りください。お話は道々」
確かに、このままここで問答を続けても意味はない。
光誠様の申し出に従って牛車に乗る。
簡素なものとはいえ、一人乗りの牛車に乗っての出仕なんて高位の方でしかありえない。
エードラムはまだこま子と遊びたいのか、牛車にはついて来なかった。まあ、後で勝手に現れるかもしれないと心積もりしておく。
光誠様を歩かせて、私が牛車に乗っているという思ってもいなかった特別待遇に辟易としていると、
『乗り心地はいかがですか?』
光誠様の声で、蝶の式が話しかけてくる。陰陽寮のことを往来で話すことはご法度だ。なので、式を使ったのだろう。異国の術師となっても式を使う準備を怠らないところに、昔と変わらず生真面目な光誠様が見える。まだ信頼出来るのかわからない人だけれど、こういうところは見習うべきだと思う。
懐紙に挟んだ式札の中から、光誠様が使った式と同じものを取り出し、急急如律令を唱える。ふわりと浮いた式札が蝶に変化しながら蔀を抜け、耳に聞こえない音が聞こえるようになる。
言送りの式は、一方だけでは密談は成り立たない。双方で使ってこそ意味をなす。
『大丈夫です。それで、こちらの牛車はどなたの手配してくださったものでしょうか』
唇を動かすだけの音にならない声を読んで、式が光誠様の耳へ音を送る。
『斎院様でございます』
思った通りの名に、そうですか、としか言えない。
『琳子様は、斎院様の姫君という立場でいらっしゃいます。私は斎院様にお仕えする身。琳子様へも同様にお仕えするよう申しつかっております』
婚姻をしないことが前提の斎院様の姫君だなんて、ずいぶん無理のある設定だ。
姫陰陽師の姫が斎院様の姫君の姫ということなのだろうけれど、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。あるの、だけれど。
『必要ありません、と言ったら?』
茶番に付き合うつもりはなくて、とりあえず否定を口にしたものの。
『主命です』
きっぱりと跳ね返される。
わかってはいる。陰陽師にとって、賀茂斎院の命は絶対だ。特に、古くからの陰陽師の家系では、賀茂斎院という存在は天子様に次いでお守りするべき対象であったこともあり、今でもその威光は軽視してはいけないものだ。
ただ、最近は新興の陰陽師――
橋元は、古くから陰陽師を排出する家系だ。それは一門の名誉であり、誇りだ。ということは、賀茂斎院が絡む限り、どんな茶番でも受け入れるしかない。
とはいえ、この状況は居心地が悪すぎる。
『…では、その謙った物言いだけでもやめてください』
『慣れていただきますようお願いいたします』
『慣れられないのでお願いしています』
『主に叱責されます』
受け流される。堅物。
こんなこと言いたくはなかったけれど、仕方ない。
『ならば、斎院様の姫として命じます。やめてください』
音だけだったやり取りに、初めて光誠様の感情が透ける。小さく息を詰める気配。これは、戸惑い?
主命に背くことになるのは申し訳ないけれども、このままこの状況を黙って受け入れるなんてできない。これは、ささやかな抵抗だ。
『兄弟子で、厚明兄様の友でもある方にそんなことをさせていることが落ち着きません。なので、どうかやめてください』
沈黙が、しばらく。
牛車の中と外では表情はわからない。
『…了解した』
ようやく、普段の物言いになってくれたことに安堵する。その耳に、
『あの夜は、すまなかった』
不意のことに、なんのことかわからなかったが、あの夜とは、初めてエードラムと会った夜のことなのだろう。
『今更詫びても仕方がないが、君を傷つけることを言った。絵本のことも合わせて、君に不愉快な思いをさせてしまった。もしそれが許せないというなら、随行者は別の者に代わってもらう』
謝られて混乱する。
ずいぶん横暴な人になってしまったとがっがりしていたのに、やはり光誠様は変わっていないのかもしれない。でも、ならなんであんなことを?
『たしかに、不愉快でした。でも、エルと出会えました。陰陽寮に出仕することも叶いました。なので、もう忘れることにします。ただ、』
蝶を通した安堵の気配に、続けようとしていた言葉をためらう。
『…ただ、小野様がこんなことをすることには、驚きました』
私の知っている小野光誠という人物は、生真面目で、頭が良くて、努力家で、優しい人だった。
兄弟子として一緒に陰陽道を学んでいたのは私が七歳のころの一年だけ。いたずらばかりしてくる厚明兄様や、父様よりも父親らしかった
最後に会ったのは十三歳の時。渡英の準備の中、厚明兄様に会いにきてくれた時。あの頃は厚明兄様も長崎へ行く準備をしていて、なんだか忙しないお別れをした覚えがある。異国に興味のあった私に、お土産を持ってまた会いに来ると約束してくれた。そして、何かもう一つ約束をしたような…。
過去の記憶に入り込もうとした時、式を介さない声が耳に響いた。
「釈明はしない。謝罪なら何度でもしよう。君の気の済むまで」
ゆっくりと語られた言葉の、その《釈明》という言葉でおおよそが察せられた。
つまり、言えない何かが背後にあるということ。
「…いいえ。もう、大丈夫です」
さっきからのやり取りでわかったこと。
光誠様が斎院――朔子様に仕える立場であること。
光誠様の行動の裏にはおそらく朔子様の思惑があること。
朔子様の思惑が、私に対する何かであること。
だとしたら、本当に恨むべきは朔子様だ。ひょっとしたらあの絵本の件も合わせて、光誠様の行動全てが朔子様の指示だったのかもしれない。それなら光誠様を恨んでみてもお門違いでしかない。
いつまでも謝る光誠様を見ていて気が晴れる訳でもないし。
なら。
「いずれ時が来れば、全ては自ずと収まることでしょう。私は、それを待ちます」
伝わるだろうか?
光誠様が朔子様のことを話すことは今はきっと無理だ。
今が無理なら、いつか許される時に教えて欲しい、と。
『それより、陰陽寮でのことを教えてください。私が姫だとして、どういうことになるんですか?』
話を元に戻すため、式を使う。
小さな声が「すまない」と聞こえたけれど、それはわざと聞かなかったことにした。
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