十
「待たせました、姫陰陽師」
肉声になりきれない声が、来訪を告げた。
月は天頂。銀色の月光が辺りをくっきりと照らし出す。白い玉砂利の上、やがて形を顕わにしたのは白髪の姫君。
意外だった人物に、礼をとる。これは、《対応を間違えてはいけない相手》だ。
「わざわざのご来訪、ありがとうございます。――朔子様」
「うむ。少し話をしたいのです。それと、そなたと」
檜扇で、エードラムと私を指される。
『僕って、それ?』
エードラム、ぷんとむくれた顔しているんだろうな。でも、かまってあげられる余裕がない。
「はい。では……」
どうしよう、こんな時の礼儀なんてわからない。と、ころころと軽やかな笑い声がして、
「かなわぬ。そこに座らせてもらいます」
音もなく、歩く動作もなく、朔子様はゆっくりと近づいてきた。
『琳子、あれ、なに?』
エードラムが肩に寄る気配。そこに指を一本寄せる。
わかっているから、今は黙って欲しい。
沓脱石の側に座り直し、手のひらでこちらにと勧める。
笑みで応えて朔子様が
「お待ちください、朔子様。これはまだ得体が知れぬもの。お近づきになられてはいけません」
背を向けていても、誰かはすぐにわかる。
短い髪に、いつもの黒い洋装――ローブと言うらしい――の、小野光誠様。
エードラムと話をするうち、この事態を仕掛けたと疑った人物の登場は、正直愉快なものではない。
しかも、
『琳子、あの男、魔術師だ。絵本の仕掛け、あいつだよ』
怒りを堪えて小声で、でもたまらずにエードラムが叫ぶ。
疑惑が真実に変わる。
そして、疑問。なぜ彼はこんな事をしたの?
「正体ならご存じでしょう。異国のリボンに取り憑いた付喪神とおっしゃったのは、小野様ではありませんか」
ここまで堪えてきた不快感に、言葉が荒くなる。
そんな私を、光誠様は苛立たしげに振り返った、
「そうでも言わなければ、今頃君も、この家の者達も、皆獄中だったぞ!」
放たれた言葉に、身が凍る。
「獄、中?」
「あの場にそれの正体を正しく見られる者がいなかったからなんとか誤魔化せたが、そうでなければ、今頃どうなっていたかわからないんだぞ! 君が呼び出したそれは、フェアリーなんて生易しいものじゃない。精霊だ。この国で言う神だ。十二神将の過ちを、また繰り返す気か!」
過去が重くて、黙るしかなくなる。
九歳を迎える年の春。私は禁忌を犯した。
あの日見上げた空の東、黒い雲のように広がった怪異の群れは瞬く間に京を覆った。その頃には何とか一体二体の怪異でも泣かずに我慢できるようになっていたけど、雨雲のように広がった怪異の群れと、そこから降り注ぐ妖気に、私は耐えられなかった。
本殿のご神体の裏に秘されていた、決して持ち出してはいけないいわれのある守り札。幼い頃にそのことを知った時から、遠い祖先の陰陽師が残したというその守り札のありかを私は知っていた。だからそれを懐に抱いて祭壇の奥に隠れ、お祖父様の呪文を唱えながら小さくなっていた。
本殿がざわめき出したのは、それからすぐだった。
怒鳴り声と悲鳴、呪文を唱える声。そして、甲高い怪異の叫び。
争う足音、物がぶつかり、壊れる音。衝撃。
目の前が破裂したのは、突然だった。
壊れた蔀戸から立ち上がったのは、赤い体に大きな赤い翼を持つ人影。それは大きな金色の目で私を見つけて、耳まで裂けた口で笑った。その頭には、黒く捻れた角が二本。
急急如律令と、叫んでいた。
応えて顕れたのは、十二神将。
消えてしまえと思ったその通りに、あっという間に怪異の群れは消された。
そして、十二神将も私への侍従の意志を示して、消えた。
本当に、あっという間の出来事だった。
後で聞いたのは、このとき襲われたのは神社や寺。中でも一番の被害があったのは御所。
私は希代の陰陽師かと騒がれた。
けれど、その期待に私は応えられなかった。十二神将が呼べたのはあの一回だけ。それでも、呼べる者のいない十二神将を一度でも呼べたこと、十二神将に主と認められたことは事実。その事実が、私の生き方を縛った。
姫陰陽師なんて、何にもできないお飾りの陰陽師って言われているようなもの。それが悔しくても、陰陽師をやるしかなかった。これが禁忌を犯した私の務めだと、そう思って生きてきた。そして、それにすがるしか、私は私を知る術はないと思っていた。
なのに、いたずらを仕掛けたこの男は、また同じ事をと私を諫めようというのか。私の思いなど、考えもせずに!
「ごめんなさい」
まだ肩の辺りにいるエードラムに、囁く。
「私、本当は強くないんだ。使える式神はさっきのだけ。真言も使えないものばっかり。でも、私はあの男が許せない」
腰の花椿に手をかける。陰陽師としては不出来だけれど、剣術なら負けない。
「だから、危なくなったら、自力で逃げて」
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