昼の晴天をそのままに、風も雲もない満月の夜。

 できすぎな光景に、私は花椿を抱えて庭と部屋が見渡せるよう縁側に近い場所に座り、ぼんやりと庭の椿の葉や、池に映る月の光を見ていた。

 月が天頂に至るまでは、まだ半刻あるだろうか。

 不意に、庭の松の影に気配を感じた。虫のような妖怪が身動きできずに蠢いている。お祖父様が庭の隅に作った結界の隙間には、たまにこうして怪異がかかる。鍛錬だと言われて、これを滅するのが私の日課になっている。

「急急如律令」

 胸元にいつも入れている式札に命じる。

 瞬間、風の刃が怪異に向かい、消滅させた。後には何も残るものなどない。そして、札も銀の光に消える。

『凄いね。それが君の魔法?』

 誰もいないはずなのに、すぐ横で聞こえた声。

 とっさに抜いた花椿の切先にいたのは、小さな羽で飛ぶ、件の童子。

 文机を確かめれば、今朝書いた札の上で光の珠がふわふわと浮いている。家に着いてすぐこの珠になったあの童子は、さて、なんだったのか。

『ちょっと、これって、危ないんじゃないの?』

 ぷくり小さな頬を膨らませる。

「ごめんなさい。私、恐がりなんだ」

 すいっと、切先を童子の顔の真っ正面に向けた。

 つまり、式にはできなかったのだろう。もしくは、完全じゃなかった。だとしたら、これは野放しの怪異だ。異国の、まるで知らない怪異。

 柄を握る手に、力が入る。効くかはわからないけれど、もう片手で小さく九字を切る。もともと刃はない太刀だけど、切先を向けられれば普通はひるむ。ましてやこれは過去に大鬼を払ったいわれのある退魔の太刀。そこに術が乗れば、この怪異にも少しは効いてくれる、と思いたい。

 でも、童子はにやりと笑ってみせた。

『ふーん、これが、本当の君なんだ。悪くないね』

 くすくす笑いながら、空中をくるりと飛んだ。

『僕はエードラム。君のご希望通りのイギリスのフェアリー――っていうか精霊で、使い魔だよ』

 さらりと名も、正体も、立場もさらしてみせた童子――エードラムに、呆然とする。

 さらりと、なんてことを言う。

「それって、簡単に言っていいことなの?」

 それでも、異国には別の理があるのかもと問いかける。

『だめだよね、本当なら』

 だめなことを、なぜするのか。

 にこにこと笑って、茶化してみせる。こういう調子は苦手だ。

「名前、聞いちゃったけど? そういう縛りって、あなたには関係ないの?」

『あるよ。でも、君にはもう捕まってるし』

 エードラムが、文机を指さす。

「……十分、自由そうだけど?」

『僕は個でも複でもあるからね。あれも僕、これも、僕』

 エードラムが人差し指をくるりと回す。光る珠の内側で、無数の光が蠢く。

『正確には、僕らの一部が取り込まれたんだけど、まあ、そこはね。面倒だから、いいや』

 にこにこと。この笑顔が曲者なんだって、ちょっとわかってきた。

「自由なあなたは、今まで何を?」

『探検! 初めての国だから、楽しかった!』

 ひらひらと目に前まで飛んできて、あとね、と小首をかしげる。

『言葉を勉強してきた。君、さっきの僕の話、わかってなかったでしょ』

 言われて初めて、会話できている事に気がつく。

「……害意はないって、思っていいの?」

『ないよ。君、十分強いし。そこは納得してる。むしろ、感謝しなきゃいけないかも。だからさ』

 柄を握る手に、そっと触れてくる。

 身構えたのは、一瞬。ほんわりと温かい感触に、肩の力が少し抜けた。

『この物騒なの、しまってよ。怖いんだよ、これ』

 唇がちょっと突き出る。

「怖くなってくれたのなら良かった」

 そっと、鞘に収めて、座り直す。

『意地悪だな。でも、これが君か。琳子って呼んでいい?』

 ひらひらと飛んでいた小さな体が、真っ直ぐ向かい合う高さで止まった。

「いいよ。私も、エードラムでいい? それと、聞きたいことが沢山あるんだけれど……」

 ずっと不安定で、自分でさえわかってなかった事が、見えてきた気がする。なら、当事者の一人に聞いてみたい。

 何が起こっているのかを。

『そうだね。なんでも聞いていいよ。僕も知りたいことがあるしね』

 エードラムもうなずく。

 庭の月明かりが、また一段と強くなってゆく。

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