第二十二話 最後の別れ


「足元にお気をつけてお降りください」


観覧車が一周回ってドアが開くと、俺は一番乗りで屋上のアスファルトを踏んだ。


だってそうでもしなければ、


「なんか一周ってあっという間ですね。もう一周くらい乗りたかったなぁ」


約束を破って、二周目を乗りそうな勢いでいたから。


「一回だけって約束だっただろ」

「そうなんですけど、なんか人間って願いが叶っちゃうと欲が出ちゃいますよね」


文句を並べながら俺のあとをついて来る。


「……人間は欲深いらしいからな」

「それって三上くんもですか?」

「さぁな」


肩をすくめて話を逸らすと、


「三上くんって秘密主義の人なんですね」


頬を膨らませてすねたように取り繕う。


「それより」言って俺の前でバッと両手を広げて静止した。


「このあと少しだけ外、歩きませんか?」

「……願いは一つじゃなかったっけ」

「お願いします」


頭を下げて、


「これで最後にしますので」


言われて固まっていると、周りの視線が気になって取るべき行動は一つに縛られる。


「……分かったから頭上げて」


恐る恐る顔を上げると、ぶつかった視線。


「ほんとに最後だからな」

「…はい」


俺は自分をつくづく甘いやつだと呆れた。



* * *



エレベーターで一階まで降りると、視界にある場所が映り込んだ。


「ちょっとここで待ってて」


俺より数歩先で立ち止まると、くるりと振り向いて、


「え? どうしたんですか? やっぱり一緒には行けませんか?」


困惑した表情を浮かべる。


「そうじゃないって」

「それならどうしたんですか?」

「ちょっと用ができた。でも、すぐ戻るから」


「……分かりました」


渋々納得する様子を確認したあと、足早にその場を離れた。


しばらく歩いて彼女のそばから離れて、建物へ入る前、柱の死角から魅音ちゃんの様子を伺った。

両手を口元に寄せてハーっと息を吹きかけて寒さを紛らわせているようだった。


それが、一年前の咲良の姿と重なった。


寒空の下、両手を口元に寄せて息を吹きかけながら、空を見上げるあの姿を──。


見た目や雰囲気は全然違うけれど、遠くで見つめていると、咲良と一緒にいるような錯覚を起こしてしまいそうになる。


性格やしゃべり方なんて全然違う。


まるで対照的な二人なのに。


どこか、重なって見えるような──。


頭を振ると、その錯覚は消えて、向こうで俺を待っているのは魅音ちゃんだった。



「いらっしゃいませ」


それから店内に入って、俺は二つ飲み物を注文した。



* * *



「待たせて悪い」


俺の声に気がつくと振り向いて、


「大丈夫ですよ」


笑って答えた魅音ちゃんの鼻は、真っ赤に染まっていた。


「なんか彼氏と待ち合わせしてるみたいで楽しかったですし」

「……ポジティブすぎるだろ」

「だって人生楽しまなきゃ損ですよ!」


それに、と続けると、


「限りある人生だからこそ、一生懸命全力で何事にも楽しむべきです!」


寒いのを堪えながら、満面の笑みを浮かべた。


言葉に押され気味になって呆気に取られていたせいで、買った物を忘れていたことを思い出す。


「それよりこれ」


そう言って、彼女の前へ手を伸ばす。


「さっきチケットのお金払ってなかっただろ。だから、そのお返しにと思って」

「え…それは私が勝手に買っておいた物なので、お金なんてほんとに……」

「うん。でも外、寒いだろ」


けれど、なかなかそれを受け取らない。


だから、俺は見かねて。


「これ、期間限定のストロベリーラテなんだって。女子にめちゃくちゃ人気らしくて、なんでもすげえうまいんだってさ」


女の子は、わりと“期間限定”という言葉に弱い。


「えっ! 期間限定?! しかもストロベリー! ……お、おいしそう」


甘い罠に捕まりかけて、それがおかしくてフッと笑いながら、


「飲んでみたらそのうまさ分かるんじゃねえの」


ズイッと目の前に差し出すと、誘惑に負けた彼女は渋々それを受け取った。


「……ありがとうございます」


そう小さく声を落としたあと、一口飲んだ。


そして、おいしい、と口元を緩めた。


温かい飲み物を片手にしばらく外を歩いていると、広い公園が見えた。


「三上くん、ここ少し入りませんか?」


入り口で立ち止まっていると、公園の真ん中には噴水が見えた。


「わ〜、鳩もたくさんいますね!」


俺が答える前におおはしゃぎで公園に入って行ったから、仕方なくあとを追うしかなくて。


「三上くん、こっち座りましょう!」


噴水の段になった一段目に座っている彼女を見ながら、


「なんで。そこ水飛んでくるじゃん」

「いえ、大丈夫ですよ! だから座りましょう!」


俺の意見など即時棄却されたから、少し距離を置いて渋々そこへ座った。


「なんか鳩が寄って来てますね」

「食べ物持ってると勘違いしてんだろ」

「私たち飲み物しか持ってませんもんね。パンでもあれば、あげれたんですけど」


鳩を見ながら、ストロベリーラテを飲むと、


「ん〜、これすごくおいしいです! ストロベリーが少し甘酸っぱくて、なんか恋の味がします!」

「恋の味ってどんな味だよ」

「だから、このストロベリーラテみたいな味ってことです!」

「はあ……」


とりあえず期間限定のストロベリーラテが相当おいしいということだけは理解できた。


「それにしても三上くんと過ごした一ヶ月はあっという間でしたね」


すぐに切り替わる話題に追いつけずにいると、


「告白をした日から今日まで、まるで昨日のことのように思います」


淡々と告げられる。


「……それは言い過ぎだろ」


さすがにおかしくてツッコミを入れる。


「いえ、私にとっては昨日も同然です! だってそれくらい過ごした時間が早すぎるんですもん」

「だからってその体感はおかしいだろ」

「好きな人と過ごす時間はそれくらい、あっという間に過ぎるってことですよ」


まるで得意げに言葉を並べて笑った。


好きな人か……。


確かに咲良と過ごしていた時間は、あっという間だったかもな。


それともう一つ、と続けると、


「この一ヶ月、三上くんと一緒に過ごせてすごく幸せでした。私のわがままに付き合ってくれてほんとに、ありがとうございました」


俺に向かって、頭を下げた。


「ちょ、やめろって……」


周りに人がいないからって、何度も頭を下げられるのは落ち着かない。


つーか、そんなことより、


「頭を下げなきゃいけないのは、俺の方だろ」


そう言うと、え、と困惑した声をもらしながら顔を上げる彼女。


「今までいろいろ手伝ってもらってほんとにありがとう。すごく、魅音ちゃんには助けられた」


小さく頭を下げた。


「や、やめてください!」


すると、数秒前の俺みたいに慌てた彼女は、突然立ち上がると、


「私は、ただ三上くんのお力になればと思っていただけで……だからお礼言われるためにやったわけではないですから…!」

「うん。でも、俺の彼女のためにっていろいろ手伝ってくれたじゃん」


ふつーなら告白が失敗した時点で、関わりを無くそうとするはずなのに。


「俺が、落ち込んでるときも支えてくれたよな」

「だってそれは、三上くんが彼女さんのあとを追ってしまうんじゃないかと不安だったので…」


そう告げられて、公園で一人落ち込んでた記憶が手繰り寄せられる。


──ああ、なんか、恥ずかしい。


あんな場面を女の子に見られてしまったなんて、弱みを握られた気分だ。


けれど、


「俺は、彼女を残して自分だけ楽になろうなんて考えてない。目が覚めるそのときまで、俺は彼女のそばにいる」


それが、今俺にできることだから。


「だから、安心して」

「三上くん……」

「俺は、彼女を残して死んだりしない」


俺は彼女の瞳を真っ直ぐ見つめた。


信じてもらえるように。


「……それを聞いてホッとしました」


安堵したように息をつくと、


「これで、安心してお別れできます」

「なに言ってんの。どうせたまに学校ですれ違ったりするだろ」

「ええ、今はまだそうなりますね」


話が噛み合っていないような気がして、「は?」と声を落とす。


「……でも、残念ながらそれは叶いそうにありません」

「なに言って……」


真っ直ぐ見据えていた瞳が揺れて、すう、と息を吸い込んだあと──


「だって私は、佐倉魅音じゃないから」


なんの脈絡もなく落とされた言葉を、俺は受け入れることができなかった。


──は? 佐倉魅音じゃない……?


「……じゃあ誰だっつーんだよ」


ふざけた冗談に、さすがの俺も笑えなくて声色を落とす。


私、と口を開いてそこから溢れた言葉は──


「咲良なの。洸太と付き合っている咲良なの」


時は止まらずに動き続ける。


だから俺の脳はそれを理解できずに、


「なに、ほんと。全然、意味分かんねえんだけど……」


まるで言葉を忘れた子どものように片言になる。


「うん、そうだよね。さっきまで魅音として話してたのに、いきなり咲良だよって言われてもわけ分からないよね」


淡々と告げられるから、


「この場の雰囲気だけで冗談言ってるんならマジで笑えないやつだけど」


声色を落として、立ち尽くす彼女を見つめる。


「……冗談なら、私もどんなによかったことか」


乾いた笑みを浮かべたあと、


「でも、これが現実なの。信じられないかもしれないけど、ほんとに私が咲良なの」


悲しそうに瞳を揺らして、泣きそうに笑った。


「……信じられるわけ、ないだろ」


そんな表情浮かべたって、俺は信じねえぞ。


姿形も声だって、魅音ちゃんのままだ。


咲良は今でも病院のベッドで意識を取り戻していない。


だから、


「そんな嘘の芝居に騙されてたまるかよ…!」


声を荒げた瞬間、手がドリンクにぶつかって、そのまま宙を舞い、バシャっと音を立てて溢れた。


アスファルトには、黒いシミができてゆく。


「ごめんね、洸太。ほんとは、混乱させるつもりはなかったの」


……俺は、信じねえ。絶対に、なにを言われても。


「少しだけ私の話を聞いてほしいの」

「…」

「それを聞いてどう思うかは、洸太が決めてくれていいよ」


そう告げると、俺から少し距離を置いて、鳩が集まっているところで足を止めた。


「私が事故で意識を無くす直前にね、私、願ったの。“死にたくない、洸太のそばを離れたくない”って。そしたら、生と死の狭間ってところで神様と名乗る人が現れたの」


彼女の口から溢れる言葉は小説の物語のようで、まるで信憑性がない。


「そして『生きたいか?』って尋ねられた。私は、迷わず頷いたの。そしたら、その神様が私をまだ死なせずに意識不明として、この世界に留めてくれた」


それでね、と続けると、


「神様が私と同じ名前がついている“佐倉魅音”って女の子の身体を一ヶ月だけ貸してくれたの。私が咲良としてじゃなく“佐倉魅音”として洸太と恋人同士にはなれない運命のまま生きたいと願うのか、それとも死を選ぶのか」


そう言うと、言葉を切った。


神様とか死なせずにしてくれたとか、ほんと全部小説の話だろ。

やけくそになって、話を右から左へと流していると、


「今日がタイムリミットだった」


おもむろに足元に集まる鳩を見つめて、悲しそうに笑った。


「そして私は、選んだの。……ちゃんと自分の人生を全うしようって」


「……俺は、そんなの信じねえぞ」

「うん。それも仕方ないと思う。だってこんなの信じてもらえる方が稀だもんね」


悲しそうに笑ったあと、


「だから洸太と会えるのは、ほんとに今日が最後。もちろん咲良として」


そんなもの全部、想像の産物にしかすぎないはずなのに、身体が無意識に震えだす。


「病院のベッドで眠っている私は、もうすぐで死ぬの」

「…は、なに言って…」


勝手に死ぬとか、決めんな。


「ほんとだよ。私が、神様に選択した答えを言ったから。ちゃんと受け入れてもらえた」

「……その神様だっていねえだろ」

「ほんとにいるんだよ、洸太には見えないかもしれないけど私には見えるの」


言ったあと、かがんで鳩を撫でる。


逃げる素振りを見せない鳩は、まるで神様に仕えている従者のようで。


「私が勝手に決めちゃってごめんね。でも、苦しんでるお母さんも洸太もこれ以上見ていられなかったから」


それと、と続けると、


「この身体をずーっと借りてるのも申し訳ないと思ったの。だって魅音ちゃんには、自分の人生があるはずだから」


立ち上がって、手のひらを空へかざした。


すると、その瞬間、ぱあっと輝きだす。


「?!」


俺は、目を疑った。


寒すぎて頭がバカになったのか、それとも目がおかしくなったのか。何度も目を擦ってみるけれど、その光は収まらなくて。


「……ほんとに、咲良なのか……?」


おずおずと尋ねると、うん、とゆっくりと頷いた。


信じるとか信じないとか、今はもうどうでもいい。


さっきと言っていることが違うこともどうでもいい。


「……なんでだよ。なんで、死ぬなんて一人で勝手に決めるんだよ」


ただ俺は、咲良に生きてほしかった。


生きたいと願ってほしかった。


「私ね、洸太に告白できてよかった。結果はダメだったけど、それでも一緒にいることができて幸せだった。それにね、洸太がどれだけ私のことを思ってくれていたのかとか知れて、それだけでもう満足だった」


なんだよそれ。


「意味分かんねえよ……」

「うん。ごめんね」

「……ごめんってなんだよ…っ」


咲良の言葉が身勝手すぎて無性に腹が立った。


でも、こんなふうになってしまったのは全部、あの事故のせいだ。


運転手が脇見さえしてなければ……


「私が生きたいと望んだからこんなことになっちゃったの」

「……なんで、だよ…っ」


視界がぼやけて、目の前が滲む。


「生きたいと望めよ……!!」


声を荒げると、


「魅音ちゃんの身体を借りて自分だけが幸せになろうなんて、そんなことどうしても私には思えなかった」


魅音ちゃんの姿形で、そう告げた。


全部が、夢であってほしいと思った。


目が覚めたら、咲良はまだベッドの上でわずかながらに生きている。

そうであって欲しいと願った。


それなのに咲良は、生きることを願わなかった。


「私が消えたら魅音ちゃんは、一ヶ月間の記憶は全てなくなるの。だから洸太のことも覚えていない」

「……なんだよそれ」

「最後がこんな別れで、ごめんね」

「最後とか言うなよ……」


「うん、ごめん」


咲良も泣いているようで、たまらなく胸が苦しくなる。


「でもね、これでよかったと思ってるの。ずっとベッドの上で悲しむお母さんと洸太を見ているのが苦しかったから」


短く息を切ったあと、


「だから二人を、もう解放してあげたいの」

「……意味、分かんねえよ! 解放ってなんだよ」


一人で勝手に決めてんじゃねえよ。


だって、俺は──


「おまえが……咲良が目を覚ますのを、ずっと……今だって待ってるんだ! だから、咲良の力になりたくて御守りとか神社とか千羽鶴とか……!」


神頼みだってなんでもした。


例え、神様が俺の願いを叶えてくれないとしても。


1%でも望みがあるものは、全部やった。


「……うん、ごめんね」


咲良は、それだけしか言わない。


まるで“死”は覆らない決定事項のようで。


「洸太が私のためにたくさんしてくれたこと分かってる。だってずっと一番近くで見てたから、魅音ちゃんとして」

「だったら……」

「それでも、やっぱり魅音ちゃんに身体を返してあげたいの。魅音ちゃんには魅音ちゃんの人生がちゃんとあるから」


俺は、なにも言えなかった。


だってこの一ヶ月の間、俺は咲良ではなく魅音ちゃんとして接していたから。


だからきっと魅音ちゃんの人生があるのは当たり前のことで。


「洸太とこうして一ヶ月過ごすことができて幸せだった。私は、もうなにも思い残すことはない」

「……そんなこと言うなよ」


俺は、まだなにも……


「なにも咲良に言えてないだろ…っ!」

「洸太……」

「まさか咲良なんて思ってないから、めちゃくちゃきついこと言って突き放そうとしたし。それに咲良がいないところで他の女の子と神社に行ったりして……」

「それは全部、知ってるよ」


眉尻を下げて、笑った。


「だったら……俺が咲良に言えてないことを言うまで、ずっとここにいろよ……」


言葉を交わせない一ヶ月間、ずっと俺は咲良に言いたいことがあった。


たくさんたくさん、数えきれないほど。


けれど、時間は止まってはくれないようで。


ぱあっと輝き出す。


「──ごめんね。もう、お迎えみたい」


悲しそうに涙を流しながら、笑った。


「なぁ、咲良行くなよ……」


そばに近づきたくても、まばゆい光によって近づくことを許されない。


まるで神の領域のようで。


「あのね、洸太。最後に、私のお願い聞いてくれる?」

「…ああ、聞いてやる。だから、行くなよ」


何度も何度も頷いて見せた。


それでも、光は収まらなくて。


「これからは洸太は、自由な人生を生きて。私に、囚われないで。そして、ちゃんと幸せになって」


自由な人生? 幸せ?


そんなの、


「咲良がいないと無理に決まってるだろ…!」


手を伸ばすけれど、まばゆい光に弾き返される。


「これから先ずっと一人なんてそんな悲しいことはやめて、ちゃんと人を好きになって」

「無理だろ……」

「ううん、洸太ならきっとできる。それが、私の最後のお願い」


なんでだよ。なんだよ、最後のお願いなんて。


そんなの、無理に決まってるだろ。


「私、ちゃんと見てるから。洸太が幸せになれるように」


言ったあと目を細めて笑顔を浮かべると、頬を伝って流れた涙は地面へと落ちてゆく。


その瞬間、光が少しだけ縮小されて温かな風が包み込む。


おもむろに光を通り抜けて伸びてきた手は、俺に向かってやってくる。

なんの躊躇いもなくその手を掴むと、温かな何かが流れ込んでくる。


「洸太、今まで幸せをありがとう。私、すごく幸せだったよ。──だから今度は、洸太が幸せになる番だからね」


そして、またまばゆい光が強まると共に咲良の身体は透けてきているようで。


「──咲良……っ!」


名前を呼ぶと、最後に笑った。


そして、その光と共にたくさんの鳩も空へと羽ばたいた。


そして、咲良はいなくなったんだ。

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