第三話 温かい手のひら
◇
廊下で立ち止まり、名前のプレートを見つめると、ふう、と息を整えたあと、コンコンッ、二度ノックする。
「はーい」
中から返事がしたのを確認すると、ドアを開ける。
「こんにちは」
「あら、洸太(こうた)くん。また今日も来てくれたのね。ありがとう」
にっこり笑ってベッドの傍らにある椅子に腰掛けていた、おばさんは俺の彼女の、お母さんで。
「いえ。俺には、これしかできないので」
無念さを痛感しながら、たくさんの管を繋がれた彼女が横になって目を閉じている姿を見つめた。
酸素マスクをつけて、頭には包帯を巻いている。その他にどこも異常はない。
「洸太くんが毎日お見舞いに来てくれてること、きっとこの子は知ってるわ」
「…だと、いいんですけど」
おばさんの目の下には、クマができていた。きっと、全然眠れていないんだろう。
「この子が眠って、もう一ヶ月になるのに、まだ目を覚さないなんてね」
自分の子どもが突然、事故に遭って目を覚さないことになんてなれば、親はみんな心配する。
「普段から寝坊はよくしていたけれど、まさかこんなときでさえ眠ってしまうなんて。いつまで寝てる気なのかしら」
気丈に振る舞っているけれど、彼女の手を握りながら悲しそうに笑うおばさんの横顔は、今にも泣いてしまいそうで。
「おばさん……」
何か声をかけてあげたかったけれど、無力な俺の口から何も気の利いた言葉が出てこなかった。
おもむろに「あ、そうだわ」手を叩いたおばさんは、椅子から立ち上がると、
「私、ちょっと電話してこなきゃいけないから、洸太くんこの子の付き添いお願いできるかしら?」
「はい。大丈夫です」
「じゃあ、お願いね」
俺の横を通り過ぎて病室をあとにしたおばさん。
多分、俺に気を遣って二人きりで話せるようにしてくれたのかもしれない。
さっきまでおばさんが座っていた椅子に腰を下ろして、ベッドに横たわる彼女を見つめる。
俺たちは、中学の同級生だった。
初めはただのクラスメイトとしか思っていなくて、だけど女の子の中で一番よく話していたのが彼女だ。
いつ、好きになったとか覚えていなくて、ただ、はっきりしているのは、彼女の笑った顔を見るのが好きだった。そして気づいたら好きになっていた。
多分、最初に好きになったのは、俺の方で。
告白も俺からした。
なかば諦める感じで伝えたんだけど、それがまさか両想いだったなんて気づかなくて。
すっごい嬉しかった。
行きたかった高校は別々だったけど、朝と帰りだけは毎日一緒に駅まで行っていたから、それだけで十分で。
まあ、欲を言えばもっと一緒にいたかったってのもあるんだけど。
「なぁ…まだ起きねえの?」
ポツリと声をかけるけれど、反応してはくれず。
俺の弱々しい声だけが、儚く響いた。
彼女の手をそっと掴むと、
「いつまで寝てるつもりだよ。早く、目覚ませよ」
軽く握ると、確かに脈は打っていて、手のひらも温かい。
ちゃんと、生きている。
そのはずなのに、目を覚さないだけで、生きている実感が湧かない。
明日になれば、この小さな脈すらも消えてしまっているんじゃないか、手の温もりが消えているんじゃないかって不安が俺を襲う。
だから早く目を覚まして──
「俺を安心させてくれよ」
思わず、言葉がもれた。
それでも彼女は、目を覚ますことはなく、ただただ、規則正しい呼吸をしていた。
毎日、病室にやって来てはくだらない話をするけれど、俺だけが一方的にしゃべっているだけで、彼女は一向に返事をしない。
今までなら、彼女がたくさん話してくれたのに。
それを聞いているのが俺は好きだった。彼女の声が心地よかったから。
「なぁ、俺、今日同級生のやつに告白されたの。全然、知らない子だった。多分、クラスが離れてるんだと思うんだけど」
ついさっきあった出来事を、思い出したように彼女に話す。
「俺、それ断ったんだけど相手が意外としつこい子でさ。なんか俺、一ヶ月間その子につきまとわれるみたい」
──いやだって言えよ。
「よく分かんなかったんだけど、俺、早くおまえに会いたかったからそれ承諾しちゃったんだ」
──前みたいに、洸太は私の彼氏だもん、て顔を真っ赤にさせて言ってくれよ。
「でも心配すんなよ。俺には、おまえしかいない。そんでおまえも俺だけだろ?」
──そうだよ、って笑ってくれよ。
一ヶ月前までは、当たり前のように笑った顔も見れていたし声だって聞けていた。楽しい毎日が続くんだって思ってた。
それなのに幸せを奪われるのは、あっという間で。
事故に遭った日は、寒波がきていて夕方でも視界は暗く、その日は、普段は降らない大粒の雪が降っていた。
だから普段よりも視界は最悪で、運転手は一瞬わき見をしていたせいで、彼女が歩いていたことに気づくのが遅れたらしい。
そして背後からぶつかった車は、彼女をひいて、倒れるときに頭を強くぶつけたみたい。
そのとき俺は、運悪く家の用事で彼女と一緒に帰ることができなかった。
おばさんから電話をもらったときは、全然頭が理解できなくて、なかば半信半疑で病院へ駆けつけた。
けれど、担架で運ばれた彼女を見た瞬間、全てが真実なのだと悟った。
あのときの俺は、なんで、どうして、と自分自身を責めた。
あのとき俺が一緒に帰って気づいてやれていたら、彼女の命を守ることができたのに。
彼女のおでこにかかっていた前髪を横に流しながら、優しく頭を撫でながら、
「なぁ、いつになったら目覚ましてくれんの?」
今日も最後は同じことを尋ねるんだ。
そのたびに、返事がない彼女を見て、悲しみに打ちひしがれそうになる。
「……俺が他の子と仲良くなってもいいのかよ」
彼女の頬に触れながら、わざとそんなことを言ってみるけれど全く応答はない。
それがまるで、勝手にすれば、なんて言われているようで怖かった。
だから、俺は。
「ごめん、嘘だよ。他の子なんてどうでもいい。俺には、おまえしかいないんだ。おまえだけが必要なんだ」
他には何もいらない。何も望まない。
だから一日でも早く目を覚ましてくれ。
そして俺を安心させてくれ。
今日も、窓の外は寒空が広がっていた。
雪が、しんしんと降り続ける。
時折、吹き付ける風が、なんとも不気味で俺は肩をビクつかせる。
触れられる距離にいるのに、声が聞けないだけで、笑った顔が見れないだけで、こんなに不安なんだ。
だから、自分を安心させるように、彼女の手を優しく握りしめた。
できることなら一ヶ月前に戻りたい。
時間を巻き戻したい。
そうすれば元気な彼女とまた変わらぬ日々を過ごせるのに。
そう願っても魔法使いじゃないから、そんなこと不可能で。
もちろんそんなこと頭では分かっていた。
けれど、願わずにはいられなかった。
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