第九話 ストーカー


放課後、俺は病院へ向かった。


けれど、おばさんの言葉が頭をよぎって一歩を踏み出すことができなかった。足がすくんだんだ。


病室へ行って彼女が息をしていなかったらどうしよう。

彼女の容態が悪くなってたらどうしよう。


そんな不安ばかりが俺を襲って、しばらく病院の前から動けなかった。


俺は弱くて無力で、情けなくて。彼女一人さえ救ってあげることができない。



時折吹く風が冷たくて、俺にまとわりついて離れない。


手も足も鼻も、かじかんで痛くなる。


まるで全身が心臓になったみたいに、あちこちから鼓動の音が響いているようで。


「……咲良」


思わず名前を呼んだ。


けれど、吹いた風によってサア〜っと流されてゆく。

身体の温もりと一緒に消えてゆく。


瞬間、ジャリッ──と小石を踏む音がわずかに聞こえた。

振り向くと、そこにいたのは。


「……あっ」


ぶつかった視線に驚いて声をあげたのは、魅音ちゃんだった。


木の影に隠れるようにしてこちらを見ていたけれど、身体なんかばっちり見えている。身を乗り出しすぎだろう。


「…何してんの」


少しムッとして尋ねると、


「あのー、その……」言葉を流しながら、木の影から現れると、


「三上くんが心配だったので、つい…」


俺から目線を逸らしながら答える彼女は、言葉を濁す。


「ついストーカーしたってことか」


投げつけるように言葉を向けると、


「ちっ、違います!」

「じゃあ何なの」

「ですからそれは、三上くんが心配であとをつけたと言いますか…」

「それがストーカーじゃん」

「確かに三上くんのこと好きだし、つけたことは認めます。だけどストーカーではありません!」


話が堂々巡りになり、先に進みそうにない。


呆れた俺はハアとため息をつくと、踵を返して病院の前から離れる。


「あの、どこ行くんですか?」


そう尋ねられたけれど、今はなんだか答える気になれなくて、彼女のすぐ隣を通った。


するとジャリッとまた砂を踏む音が聞こえた。



病院の隣にある公園に入った俺は、ベンチにへたり込むように座った。


「あの、三上くん」


俺の隣に座ると、心配そうに声を落とす。


「…なんでついて来るんだよ」

「三上くんが心配だったので」


真っ直ぐな瞳でそう告げた彼女に、あっそ、と冷たく返事をすると、


「どうしてこんな寒い中、公園に来たんですか?」

「は?」

「だってこんな寒いのに公園に寄るなんて、何か理由があるとしか思えないじゃないですか」


淡々と告げられた言葉に、詰まって返事をできずにいる。


「私じゃ力になれませんか…?」


少しだけ下がった眉尻と揺れる瞳が、まるで俺を心配しているようで。

俺は、逃げるように視線を逸らす。


「三上くん…」


寒さに耐えながら震える声で俺の名を呼んだ彼女。

俺は、一度息を吐いてからゆっくりと見上げる。


「ここから見える六階の窓際が、彼女が入院してる病室」


目の前に見える病室の窓を指差して言った。

すると、彼女は、え、と困惑しながらも視線をそちらへと向ける。


「カーテンが開いてるところがあるだろ?」

「は、はい」

「そこが彼女の病室」


地上と六階は距離が離れていて、彼女の姿を確認することは不可能。

それにもう少ししたら、カーテンを閉めるはずだ。


「彼女の病室からちょうどこの公園が見えるんだ。だから、この前病室に行かなかった代わりにここにいた」

「え、でもこの前は行かなかったって」

「うん」


公園に寄ったなんて、わざわざ言う必要もないと思ったから。


「だから病室には行けなかった」


そう言うと、そうだったんですね、と声を落とす。


病室から見える公園は、こんな寒いから人気はほとんどない。

けれどその代わり午前中は、小さな子どもが親と一緒にいたりする。

きっと、病院にお見舞いに来たあとに遊んでるんだろう。


「あの…」


声がしてチラッと彼女へ視線を向ければ、俺に気を遣っているのか言いにくそうに言葉を詰まらせていた。


「なに」


だから俺はあえて尋ねた。


すると、ゴクリと唾を飲んだ彼女は。


「その、私が言えることではありませんが、ここまで来たのにお見舞い行かなくてよかったんですか?」


そう尋ねられて、一瞬言葉に詰まった。


けれど、俺は瞬きをしたあと、


「うん」


ただ静かに頷いた。


でも、俺は行かないんじゃない。


「怖くて行けないんだ」


その言葉を聞いて、え、と困惑した声をもらす彼女から視線を逸らし病室の方へ向ける。


「彼女を失うのが怖いんだ」


ぎゅっと拳を握りしめて、俯いた。


「でも、そうと決まったわけじゃないですよね? だって目を覚ます可能性だってゼロではないはずですし。それに何年も経ったあとに、目を覚ます人だって稀にいるじゃないですか」


諭すように告げられるその言葉に、


「確かにそうかもしれない」


思わず声がもれた。

彼女の言葉に嘘はない。確かに稀に目を覚ます人だっている。

けれど、それはほんとに稀で。


「彼女の場合、頭を強く打ってる。それで脳に強い衝撃を受けてる。目を覚さなくなってもう一ヶ月過ぎた。だから、不安にもなるだろ……っ」


やり場のない感情が牙を剥く。


「三上くん……」


息を吸うたびに肺が、凍りつきそうになる。

ズキズキと痛んで、そこから血でも滲んでいるんじゃないかと。

息が上がるとのどの奥まで痛くなる。


「一ヶ月前まではふつうに過ごせてた彼女。俺の隣で笑ってた咲良が、突然事故に遭って目を覚さなくなった」


揺れる地面を見つめながら、告げる。


大切な人が目を覚さない苦しみ。

俺は、それを受け入れられなくなってきた。

そして、それから逃げてしまったのかもしれない。


「苦しかっただろうし、痛かっただろう。それなのに俺は、彼女に何もしてあげられない。何も力になってあげられない」

「三上くん……」

「彼女は悪いことなんか何一つしてないのに、どうして彼女なんだよ……っ」


地面にポタッと雫がこぼれ落ちる。


彼女に気づかれないように、左手でそれを拭った。


「三上くん、あの…」


躊躇いがちに声がする。


「ごめん、今は一人にして」


そう告げると、


「いやです」


真っ直ぐに、否定される。


「三上くんを一人にできません」

「なに、言って…」

「今、一人にしてしまったら何かとんでもないことをしでかすんじゃないかと思って」


怯えるように震えた声が、聞こえたあと、


「彼女のあとを追いかけるとか……」

「は?」

「だから、その、自分を責めて死を選ぶんじゃないかと思って」


言葉を慎重に選びながら話す彼女の言葉を聞いて、


「……そんなこと、しねえよ」


口からもれた言葉はあまりにも力なかった。


まるで今にも消えてしまいそうな、灯火のようで。


「それは分からないじゃないですか。人って悲しみが伝染するんです。だから私、三上くんをこのまま一人にすることはできません」


彼女は、頑なにここを離れようとはしない。


それは、俺のことを心配しているのだとすぐに理解できる。


けれど、俺は──。


「頼む。今は一人にしてくれ」

「でも…!」

「今は一人になりたい」


瞬間、ヒューっと冷たい風が俺たちを通り抜ける。


「…分かりました」


静かに声を落としたあと、立ち上がった彼女は、俺の目の前で立ち止まる。


「寒いので、これ持っててください」


そう言って差し出されたのは、カイロ。


「いらない」


冷たく突き放すけれど、彼女は「ダメです」と声を上げた。


「これ、持っててください」


無理やり俺の手を掴むと、手のひらに置いた。


「それと」言いながら、首元のそれを外すと、


「これも貸してあげます。今日はとくに寒いので」


そう言って、俺の首元にマフラーを巻いた。


優しいクリーム色でふわふわした生地。それはまるで雪のようで。


おもむろに彼女のマフラーを解こうとしていると、


「三上くん。外しちゃダメです!」


マフラーごと俺の手を、ぎゅっと握った。


「絶対それ外さないでください」


そう言うと、再度俺の首に巻きつける。


自分のと彼女のマフラーと二つが巻かれているせいで、見た目はかなり不恰好。


「それじゃあ私は帰ります」


軽く頭を下げると、彼女は走った。


そして俺の前から姿を消し、公園の入り口を通り抜けた。


彼女は一度も後ろを振り向かずに、ただ前だけを見て走っていた。


俺は、その姿を追いかけることができずに、ベンチにへたり込んで座って、この瞳(め)で彼女を追いかけるだけで。


ヒュー。また、風が吹く。


前髪が風に攫われて立ち上がる。


ふいに、俺は目の前の病室を見上げると、いつの間にかカーテンは締め切られていた。


「咲良……」


俺は、どうすることもできすにこの場にうずくまることしかできなくて。

今日もまた、無力な俺はベンチから一歩も動かなかった。


「俺どうすればいい……?」


問いかけても返事など返ってくることはなくて、悲しみの涙が一筋溢れた。

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