第20話 『天秤を、貴方だけに傾けよう。』

 梅小路純恵は傘を差すことを忘れて、寝間着のまま、あてもなく街を彷徨っていた。街は雨がふりしきっている。人探しは難航していた。歩行者でごった返す街路を掻き分けるように進む。奇異の視線が秒刻みに彼女を突き刺す。

 たとえ恋人が失踪しようとも、日常はは純恵に構うことなく巡っていく。


 気がつけば、純恵は見覚えのある居酒屋の前に立っていた。

 同級生の恋人をお持ち帰りするきっかけになった場所。思い出の地にも当然、彼女は――小林陽奈は存在しない。純恵は


「……陽奈さん、どこにいるんですか」


 ポケットからスマホを取り出す。メッセージ欄の一番上にピン留めされた陽奈とのやりとり。その最後は、こう締め括られている。


『純恵のスマホの通知、見ちゃった。ずっと黙っててごめん』

『ごめん』

『もう、顔、見せたくない』

『ごめんね、さよなら』


 言葉足らずな文面の後で、純恵の不在着信履歴が数件。応答はない。

 しかし、陽奈が消え去った理由は明瞭だった。純恵のスマホの通知に並ぶのは、いつも大学で行動を共にしている友人たちとのグループメッセージ。遡る必要もなく、陽奈の話題が断続的に語られている。


 一体、どこから陽奈の情報が広まったのだろう。世間知らずな箱入り娘には絵空事な世界が数ミリ先にあった。


 依然、メッセージアプリの通知は陽奈の話題で持ちきりだった。どうして、そこまでして彼女の悪い噂を話の種にしたがるのだろう。

 純恵は震える手でスマホに文字を打つ。しとしとと重くのしかかるような雨だけが、指の動きを鈍らせているわけではない。

『いい加減この話題やめませんか?』まで書いたものの、送信ボタンは押せなかった。ぞわぞわと迫りくる、純粋な恐怖が純恵の行動を阻害する。

 代わりに、陽奈とのメッセージを開いて。


『どこなんですか陽奈さん』『帰ってきてくれませんか』『陽奈さんのこと、全然知らなくてごめんなさい』――送信。


 気分が悪くなって、純恵はメッセージアプリの通知を切った。最初から通知なんか消してしまえばよかったのに。

 スマホの待受には水族館デートで撮ったツーショットがある。純恵のスマホにはもう、陽奈と知らない男がホテル前でやり取りしている写真はない。

 ただし、データはなくとも、事実は裏返らない。付き合い始めてから、陽奈がいなくなる直前まで知らなかった事実。恋人の裏の顔。

 裏の顔を知ってしまったことによる、決別。


 ぼうっと、待受を眺めて、暫くして純恵のスマホの電源は切れた。結局、通知欄に陽奈が現れることはなかった。

 純恵は雨で濡れた髪をぐしゃぐしゃに掻き乱した。


  †


 ――きっと、帰ったら。もしかして。全てドッキリでしたって、部屋から陽奈さんが飛び出してくるんじゃないか。なんて。

 淡い期待をして玄関を開けて純恵は無駄だと知る。痛くなるほどの静寂に耳をふさいで、しゃがみこんだ。濡れて鉛のようになった寝間着が体温と冷静さを削ぎ落としていく。

 水分を含んだ足取りでリビングルームへ。壁掛け時計は午前8時を指す。

 ――学校、行かなきゃ、ですね。

 恋人がいなくなっても、純恵は世間体から逃れることができなかった。今日も京都て誰かのための人気者として、笑顔の仮面をかぶるのだ。

 ――いやらしい。

 込み上がる胃液をお手洗いにぶち撒けたあとで、彼女は首を何度も振った。負の感情の泥沼を振り払うように。

 ――きっと、大学に。いるかもしれない。から。

 精一杯の言い訳。頭痛がする。

 何も食べる気が湧かなかったので、最低限の身嗜みを整えて部屋を出る。

「いってきます」声は返ってこない。


  †


 講義では不真面目な友人たちが、気怠げそうに授業を受けてる。純恵はぼうっとする意識を保つことが精一杯だった。授業なんて聞いている暇なんてないのに。

 スマホに通知。私語はオンライン上。



『優等生でクールぶってたのに、ヤリマンっていいギャップじゃんw』『男に媚び売ってキショい』『もしかして教授とエッチして単位取ったとかw』『まさか爆笑』



 メッセージが流れていくたび純恵の胸が痛くなる。頭が沸騰しそうになる。

 気を紛らわすためにスマホの電源を落とそうとする直前、純恵宛の通知が来る。『純恵もそう思うよね?』


 唇を噛み締める。そう思う、訳ないのに。結局、流れに逆らうのが怖くて。『そうかも?』と当たり障りのないことを言って誤魔化す。『なんだよそれw』と返ってくるだけで特に気にされることもなかった。


 ――ただの事なかれ主義、預かり知らない問題だと切り捨てているだけ。


 胸が痛くなる。

 他人から嫌われたくない、という思いに唆されてしまう自分が憎い。


(このままじゃ、陽奈さんのこと、好きっていう資格、なくなって……)


 危惧するだけならタダだ。人に好かれることで今まで生き抜いてきた梅小路純恵には、曲げられない信念というものがなかった。

 当たり障りなく、誰からも好かれるような自分が崩れるのが怖い。


(私は陽奈さんのように、何かに逆らえない。

 人に好かれ続けてきたから、逆らわない方が安全だから)


 安全だから。嫌われたくないから。他者が向ける悪口も当たり障りなく返す。イエス、ノーはっきりさせずに、誰のことも悪く言わない。自分の意見を持たない。


 しつこくない程度の愛嬌を振る舞って。

 誰に対しても親身になって寄り添っている風を装う。


 ゆえに。

 梅小路純恵は汚い言葉を吐き出さない。綺麗な殻に閉じこもったまま出荷される。


 純恵が陽奈の秘密を隠していたのは、彼女を傷つけてしまうのが怖かったからだ。

 人には人の数だけ秘密がある。隠したい一面だって当然ある。


 ――たとえ、恋人関係でも。


 わざわざ隠したいと思っていることを暴いて、相手が悲しむ姿を見るくらいだったら、いつも通りに取り繕った笑顔でいればいい。いつか、秘密と呼ばれていたものを自ずと打ち明けてくれる日を待てばいい。

 そうして、『いい子』の梅小路純恵は完成したのに。


 ――わたしは、もっと知ろうとするべき、だったんでしょうか。


 回答をくれる彼女はもう、いない。

 純恵の虚ろな感情などいざしらず、メッセージ欄には合コンの話題が並んでいた。


 ――そういえば、今夜は合コン、でしたね。明美主催の。


 それは、陽奈が『友達』の家に泊まっている間に誘われたイベントだった。当然、純恵は行けるような精神状態ではない。が、彼女自身、断れないことを確信していた。

 その骨身に染み渡った人気者の血のせいで。

 なんて、都合のいい言い訳でしかないけれど。


 純恵は陽奈とのメッセージ欄を、合コンの話題まで遡る。


 ――『合コン、行きたい?』

 ――『興味はない……、ですが、人が足りないなら』

 ――『お持ち帰りされちゃうんじゃない?』

 ――『でも、そのときは陽奈さんが助けてくれますから』

 ――『他力本願かい』

 ――『……まあ、どうしてもっていうなら、テキトーな理由つけて迎えに行くけど』


 迎えに来てくれるはずだった、守ってくれるはずだった恋人はいない。

 しかし、世間体ばかりを気にする純恵はきっと、恋人が戻ってこなくとも、何事もなかったかのように振る舞う。振る舞うしかないのだと逃げ腰になっている。


  †


 陽奈が戻ってくることを期待して、純恵はテニスサークルに赴いた。不在だった。

 雨は午前中のうちに静まったものの、低い空には重い曇天が塗りたくられていた。 


 噂はサークルの中にも浸透し始めているようだった。所々で、先輩や後輩を交えてひそひそと噂話をしている。純恵はその話題を持ち前の中立姿勢で躱して、いつものベンチに腰掛けた。


 サークルに来たものの、ウォーミングアップをする気にもなれない。

 テニスボールを手のひらで転がしながら重い溜息をついていると、


「梅小路さん、隣いい?」

「いい、ですけど……、」


 新入生歓迎会の時に純恵をナンパしてきた先輩が隣に腰を下ろした。名前は……忘れた。純恵は彼をA太先輩と仮定した。

 とはいえ、特に話題もなく、無言のまま時間は過ぎゆく。人工芝のコートで、テニスボールの快音が木霊するようになる。

 先に、少々困ったような愛想笑いを浮かべて口火を切ったのはA太先輩だった。


「えっと、……ラリーしない?」

「すいません今はそういう気分じゃないです」


 純恵は思わず、繕っていない低い声で返してしまった。はっとして両手で口を塞ぎ、恐る恐る先輩の顔を見上げた。彼は「あはは……」と切なげに眉尻を下げていた。あまりの空気の読めなさに、純恵の頭は痛くなる。


「…………すいません」

「い、いや別に。ちょっとびっくりしただけ」

「普段のわたしってもっと明るいですもんね」

「まあ確かに? でも、普段見せない意外な一面ってポイント高くない?」

「は?」

「すいません……」


 A太先輩の、場を和らげようとする茶化しも純恵には響かない。

 鉄柵がガシャンと揺れて、2人はピンと背筋を伸ばし、居直る。

 居づらい沈黙は2人の間に打ち込まれたテニスボールが解決した。


「何もしないなら休めばよくない?」

「……家にいても、休まらないんですよ。色々考えちゃって」

「あー、分かる。1年生の頃って一人暮らし慣れていないからホームシックになりがちだよね」


 どこまでも人の気持ちを察するのが苦手な男だ、と純恵は呆れて首を振った。

 付き合うだけ労力を消費すると考えた純恵は、上辺だけの笑みを作った。


「ところで先輩はラリーしないんですか? わたしに気にせずどうぞどうぞ」

「なんだよその、できたてホヤホヤの愛想笑いは」

「察してくださいよ。独りにしてください」

「つっても、いつもラリーしてる相手がいないからなあ……あ、小林さんのことね」


 陽奈は初練習以来、A太先輩からラリーの勝負を仕掛けられているようだった。毎回、活動終了後は夕食を食べながら、先輩の愚痴を吐いていたのを純恵は思い出す。

 ――少しだけ、目の前の先輩に妬けたので純恵は態度に表した。


「ひょっとして友達少ないんですか?」

「意外とズケズケくるんだね、梅小路さん。友達はちゃんといるよ。……じゃなくて。ラリー相手がいないのもだけど。小林さんの話題、回ってきたからさ」

「もしかして先輩、陽奈に色目を――」

「あ、タイプじゃないんで」

「殺しますよ」

「なんでっ!? ってかラケットで殴らないでっ!?」


 思わず、純恵はラケットで先輩の頬をぶっ叩いていた。

 理不尽だ……、といじけているA太先輩の頭をお情け程度に純恵は撫でた。それだけで彼は居直ってニコニコする。現金な先輩である。


「じゃあ、……先輩はどう思うんですか、陽奈のこと」

「生意気な後輩――、あ、ちょっと梅小路さん、ラケットしまって……?」


 手を出す前に宥められた。

 純恵は深く溜息をついてラケットを下ろして、


「本当に、それだけなんですか?」


 グリップを両手で握って、足の間に通す。人工芝のコートに視線を落とす。視界に人の顔が映ってほしくなかったから、できるだけ深く俯いた。

 A太先輩は、純恵のしょぼくれた様子には突っ込まず、


「ああ、クソ生意気な後輩だっ。初対面からこいつ生意気だな、って思ったけど、ラリーに勝ったときのドヤ顔で確信したよな。憎いやつだ。今日こそは勝つつもりだったんだけどなぁ!」

「本当にそれだけなんですかっ」


 純恵は顔を上げる。涙がこぼれそうなのを隠すように、なるだけ首を上に傾けて。


「あの噂のことを聞いても、ですか?」


 見上げられたA太先輩は、さも当然のように、


「それだけだけど? 別に小林さんは何をしていたって小林さんでしょ。害があるならともかくさ、無害なわけだし。あいつがわざわざ秘密にしてたってことは知られたくなかった趣味なはずだろ? だったらそっと蓋しておけばよくない? 

 ――ま、恋人がいたとしたら話は変わってくるのかもしれないけどさ」

「……ちなみに、参考程度に聞くのですが。もし、先輩が陽奈の恋人だったとして、陽奈が裏でやっていたことを偶然知ってしまったら、どうしますか?」


 A太先輩はしばし、顔をしかめてうーんと唸って、「あいつはタイプじゃないけど、」という前置きに続けて、


「詳しく聞いちゃうんじゃないかな」

「陽奈が傷つくとしても?」

「小林さんが傷つくかもしれないけど、何より付き合っている殿方の方が傷つかないかな?」


 それは……、その通りだ。

 けれど純恵は今まで他人の顔色を第一に生きてきたから、咄嗟に自分の保身をすることができなかった。自分の手で相手を傷つける選択をできなかった。

 その結果、純恵も陽奈も大きく傷つく玉突き事故になってしまった。


「それに、傷つかない、傷つけられない関係なんて、虚しいだけだ。喧嘩するほど仲はいいし、俺の周りの長続きするカップルは、喧嘩話も含めて惚気話だからな」


 傷ついてもいい。むしろ、好きあった者同士なら、砕けるくらいに当たっていい。

 ――他人を傷つけないことばかり念頭に置いてきた純恵にとって、A太先輩の経験論は青天の霹靂だった。黒く立ち込めた悩みがたちまち晴れていく。


「……………………へぇ」

「ん? どうしたの梅小路さん。ぼうっとしちゃって」

「先輩って、意外と器が大きいんですね?」

「おっと、その反応はデレっていうことで――」

「ちょっとだけ好感度上がったので……お名前教えてくれませんか?」

「むしろ今まで知らなかったのかよっ! 俺のことは気軽に瑛太先輩って呼んでね!」


 涙目でラケットを地面に叩きつけた先輩の可笑しさに噴き出しながら、純恵はちょっとだけ身体が軽くなったような心地だった。

 それにしても……、なんにせよ、


「A太先輩ですね、覚えました」

「ちょっとイントネーションズレてる気がするけど……まあいいか!」


  †


 合コンが近づく。雨が降りしきるなか、純恵は歩いて会場に向かっていた。

 陽奈からの返答はない。対して、グループチャットは稼働していて通知は溜まる。


『小林さん、学校来てなかったね~』『ヤリマンバレちゃったからじゃね笑』『小林さんのカンペなかったらテスト爆死しそ〜笑』


 振り返ってみれば、傷つけるのを恐れて得られたのは薄っぺらい友人関係だった。誰からも好かれる自分を演出してきたはずなのに、得られるものはこんな下らないもので良かったのか。


 誰からも愛される人になりたいと思った。

 それはきっと、陽奈も同じで。

 だから、陽奈は優等生を演じ、

 だから、純恵は愛想よく振る舞った。


 ――誰かに合わせることで、得られるものってなんなんでしょうね、陽奈さん。


 大多数にとってのナンバーワン。例えば、オリコン上位に食い込むような、ありがちなラブソングのようなもの。誰もが共感できて素晴らしいと評価する存在。


 それは大多数から見た素晴らしい存在で、誰かの心にそれなり以上には刺さるのだろうけど。


「そんなものより、陽奈さんが欲しい。わたしは、あなたの絶対的になりたいんです」


 例えば、メジャーなランキングには載らないけれど、たった1人の人生観すら大きく揺るがしてしまうような、そんな呪いのようなものになりたい。

 梅小路純恵は、小林陽奈の呪いになりたがった。

 あなただけの、オンリーワンとして、一生モノの傷を付けたい、付けられたい。


 A太先輩の思いがけない天啓の甲斐あって、純恵は傷ついても、傷つけてもいいってことを知った。そのうえで、彼女は1つの決意をメッセージとして打ち込む。


 ――下手すると、今まで裏の顔を隠してきた陽奈の気に触れる行動かもしれない。


「……構いません。


 日が沈むとともに、純恵は家を出る。

 最後通牒代わりのメッセージを陽奈に送って。




 愛しています、陽奈さん。

 だから、言葉だけじゃなくて、行動で示してみます――

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