第13話 『寂しくなって、言葉を縫って。』
ワタルの部屋の最寄り駅前には百貨店がある。ちょうど夕暮れ時ということもあり、買い物をする婦人層や、学校帰りの中高生が激しく行き交っていた。
「新しい下着は買ったし、今日の夕食、明日の朝食は買った。あとは……」
買うものはない。心の整理はプライスレスだった。つまり陽奈自身でどうにかしなければならない、ということ。
……どうしようもなかったので、建物の屋上に向かった。
†
最近では珍しく屋上遊園地が残っている百貨店だったが、閉園時間が近いのか、『蛍の光』のメロディーが聞こえてきた。あまり長居はできそうになかった。
アトラクションの合間を縫うように設けられたプラスチックのベンチに腰掛ける。荷物を置くとグイ、と勢いよく背伸びをした。肩の凝りを解しながら遊園地の様子を眺める。
バブル時代の遺産のような屋上遊園地は今じゃ、ほとんどお目にかかれないものになっているらしい。ワタルの部屋に居候していた時の陽奈は、少なくとも週に一度ここに通っていた。もちろん、一人で。
「そういえば、まだ純恵とデート、行ったことないかも」
毎日がお家デートという解釈でいいなら、ずっとデートしていることにはなるけど、さすがに1ヶ月以上同居をしていると特別感は薄れてくるものだ。
(今までろくにデートしたことないんだよな、私)
振り返ってもろくな思い出がない。恋人ができた試しがないのに男性との経験はある。ワタルが他のセフレをエスコートする際の下見に連れてってもらうことはあったが、デートに含めたくない。パパに欲しいものを買ってもらったこともあったが、あれはデートではなくて、接待に近かった。
屋上の小さな観覧車がぐるり、と一周回っていく。まばらな子連れが観覧席に乗っていて、その中でははしゃいでる子供がいて、親と思われる大人が観覧車の前で手を振っている。
普通の親子がそこかしこに見られる。陽奈は買い物袋を持っていない方の手を胸の前できゅっと握り締めた。
羨ましい。私はあんな風にはなれなかったのに。
「って、子供相手に妬んじゃったりして、さ」
安心感のバーゲンセール。
いつだって、その輪っかの中に小林陽奈は入れなかった。
優等生を演じて、努力して、常に『できる子』であることを続けた。
でも、両親は褒めてくれなかった。
――私の努力はさも当たり前のものだ、と言い張るのだ。
子供の頃からずっと、勘当されるまで。
みんな笑っているのに、陽奈は張り付いた無表情を壊すことができないまま、立ち上がって、背の方から差し込む夕景へと振り返った。百貨店から見下ろせる街は、たった1ヶ月しか見ていなかったのに随分と新鮮なものとして彼女の目には映った。既に、セピア色を帯びた、過去の思い出として陽奈のメモリーに収納されつつある。
「会いたいな、純恵に」
目の奥が熱くなった果てに出てきたのは、毒のような恋人のことで、もうとっくに、彼女は恋に最も近似した、甘い痺れに犯されきっていた。
†
陽奈が夕食を作り終えた頃に、都合よくワタルは目を覚ました。
ポテトサラダと生姜焼きの皿がちゃぶ台に並ぶ。
寝ぼけ眼を擦りながら、1ヶ月前と同じようにワタルは「美味しいね」と陽奈の料理を褒めた。陽奈は「そうだね」と空っぽの応酬をして、生姜焼きを摘んだ。心なしか、純恵と一緒に食べているものよりも味が薄いと陽奈は感じた。
「最近は友達のうちに泊まってるんだっけ」
「うん。その友達が金持ちでさ、会いてた部屋一つ分貸してくれたんだよ」
「よっぽど気前のいい人なんだね」
「それに! 最初の頃は居候の私に全然家事させなかったの。全部自分でやる子だったんだ」
陽奈の口から純恵の話が溢れる。溢れれば溢れるほど、ワタルとの行為で疲れ切った精神が和らいでいく、そんな気さえした。
だから、だろうか。
「へえ。居候なんだし、それくらいやってもらえばいいのにね」
「……そう、かもね」
――ちり、と。言葉の針が、陽奈の胸を掠めて、彼女は今までの当たり前が、当たり前ではなくなっていることに気づく。
気のせいと決めつけてしまえばそうなってしまうくらいの痛みだったけれど。
(居候が家事やるのは、当たり前……だし。だって、住まわせてもらってるんだから。これまでも、泊めてもらった時は、そうしてた、のに)
「――何にもさせてくれないと、どう? ヒナ的には」
「私、的には?」
クスクスと笑うワタルは、目を輝かせている。次の瞬間、彼が口にしたのは、
「これは僕の勝手な推測だけど……辛くなったんじゃない?」
「そんなことはっ……! そんな、ことは……」
図星だった。何にもできなくて、辛くなって、しょうもない勝負を仕掛けて、温情で居場所を得た。間違っていない。今までの家出生活と変わったことはあっただろうか。
「ヒナ。キミは分かりやすすぎる。嘘をつけない人種だよ」
そういう、脆いところも魅力的なんだけれど。ポテトサラダを頬張りながら甘い笑みを浮かべるワタルが、陽奈にはまるで写し鏡のように見えた。
「変わってないね。いや、変わってなくていい。だって、魅力であり強みなんだから。嘘をつけないってことはわざわざ取り繕う必要がないってことだ。真っ直ぐに本当をぶつけられる」
「私、どちらかというとあんまり本音を出さないタイプなんだけどなあ」
「知ってるよ、同じ学び舎で過ごしたくらいだから。
キミは優等生で、誰からも『優しい』って言われるような生徒だったよね。
本当に素晴らしい生徒。けれど、キミが優等生でいられるのは皆が裏の顔を知らないから」
素晴らしい自分という仮面を被ったままでいるには、仮面の内側を観測されなければいい。
「……なんか、いつにもまして達観してるね。小説家さん」
「その呼び方はやめてよ。まだ、趣味の範疇なんだからさ」
苦笑いして頭を掻くワタルに、陽奈は呆れてため息を漏らした。
陽奈がワタルの居候になる際に結んだ約束事はただ1つ。小説の題材になってくれ、ということだけだった。家事は陽奈が自発的に行っていただけである。
「陽奈のおかげで、面白いものが書けそうだよ」
「ふうん。どんな話になりそう?」
「どこまでも私小説的だよ。小説書きと家出娘が出会って、生活していくうちにお互いを掛け替えのないものに昇華していくって」
「事実は小説より奇なり、だね」
2人の関係が昇華されることはなかった。
けれど、相変わらずワタルは飄々としている。
「結ばれない苦さもまた、僕の好きな、爛れた関係の終着点だから。でも、せめて物語の中では幸せでありたいと願うよ」
物語に執着するところはどこか、純恵に似通ったところがあって、その奇妙な共通点に陽奈は思わず、
「ふふ、はは……あははっ」
吹き出して、笑顔をこぼした。
その目尻に、涙が浮かぶくらいの激しく明るい笑い声だった。
「え、そこ笑うとこ? 感動シーンじゃない?」
「大爆笑ギャグだよ。あーあ、面白い、面白くて」
――早く、会いたいな。
目尻に浮かんだ涙を拭って、陽奈は「ごちそうさま」と唱えた。
今までの回路で動かなくなった感情も、たった一人の女の子のせいでめちゃくちゃになってしまうのだ。こんな理屈のない訳の分からなさが面白くないわけがなかった。
陽奈がキッチンで食器を洗っていると、パンプスのポケットに差し込んだスマートフォンが振動した。確認してみると、通知が一件。
『陽奈さん、楽しんでますか?』
会いたいと願ったときに、都合のいい女だ。弾む心を隠しきれないまま、水に濡れて冷たい手で返信をする。
『おかげさまで。陽奈は今日何かあった?』
『明美が主催する合コンの、数合わせ要員として誘われちゃいました』
さすがキラキラ女子集団の一角なだけある。数合わせで連れていくにはいささか目立ちすぎるだろうけど。
『合コン、行きたい?』
わずかに間を開けて、純恵は『興味はない……、けど、人が足りないなら』
周りに合わせるやり方はいかにも純恵らしかった。
『お持ち帰りされちゃうんじゃない?』
『でも、そのときは陽奈さんが助けてくれますから』
『他力本願かい』
『……まあ、どうしてもって言うなら、テキトーな理由つけてお迎え行くけどさ』
男慣れしていない純恵をわざわざ合コンに送り出すのも気が引ける陽奈だったが、周りと歩幅を合わせるような性格の純恵を止められるとも思っていなかった。
同類項なりに、共感した部分が多いからだろうか。でも、だからだろう、胸がざわめいて疼痛を訴えるのだ。だから、
『――ねえ、純恵。今、寂しい?』
感情を探りたくて、意地悪な言葉を返してしまう。
――あんたが寂しいって思ってくれていると、嬉しいから。
『寂しいです。早く帰ってきてください』
『明日の午前中には帰るから』
『ちょっと今のやりとり、新婚さんみたいですね。結婚しますか?』
『100歩譲って、流石に段取り考えようよ』
『初夜の前払いって可能ですか?』
『あんたの頭の中が桃色ってことは分かったから』
――ところでデート、行かない? と打とうとしたところで、キッチン手前のカウンターからニョキ、とワタルが顔を出す。
「ちょっとそこのお姉さん、顔が緩んでるよ?」
「へ? え、嘘……マジ? ってかなんでニヤニヤしてるのっ」
「今、完全にメスの顔だったから」
「い、言い方ぁ……っ!」
陽奈は手近にあったしゃもじでワニワニパニックよろしく、彼の頭をぶっ叩いた。ワタルは痛がりながらも「あー、おもしろ」と悪びれることなく、陽奈を見上げたままだ。
「やっぱり、好きな人、できたんだね」
「ご想像にお任せします。ヒントも根拠もあげないから。勝手にストーリー立てて次回作の糧にすればいいよ」
「是非させてもらいます〜」
「一回本気でぶん殴った方が良さそうだね?」
もう一度、陽奈が杓文字を振り上げたところで、ワタルは叩かれたところをさすりながら逃げ出して、ベッドに腰掛けた。そして、手近にあったパソコンを開くと何やら文字を打ち込みながら、時折、画面と陽奈の顔を交互にみやっている。
「今度は何企んでるのさ」
「ただのスケッチだよ。でも、絵じゃなくて文章でやるやつ」
「私の似顔絵を書かれてもお駄賃は渡さないよ」
「いや、キミの顔が目的じゃなくて。いや、書いているのはキミの顔についてなんだけどさ。え、えーと……」
はっきりせい。陽奈が腕を鳴らして威嚇すると、「絶対に怒らないでよ」という前置きをしたうえで、
「恋をした女の子って、そんな顔をするんだなって思ったから」
陽奈は怒らなかった。その代わり、顔を手で覆いながら飛ぶようにして、洗面所の鏡の前に向かった。そして、恐る恐る自分のだらしない顔を拝見すると、一人「うああああ……」とあられもない呻き声を漏らす。
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