第17話 『薄汚れた色眼鏡でしか、貴方を映せないならば。』

 午後6時を過ぎる。

 水族館に蛍の光が流れ出す。お土産コーナーで純恵は悩んでいた。


「陽奈さんに何あげましょう。筆記用具……は、ちゃんとしたものを買ってあげたいですし。お菓子は……食べればなくなりますね……。やっぱり無難にキーホルダーでしょうか」


 目の前にはリュウグウノツカイを模したキーホルダーがある。

 ステンドガラスを嵌め込んだそれは青色、黄色の2種類がある。


「これにしましょう」


 純恵は2つのキーホルダーを胸に抱えて、レジに向かう。ふと、掛けていたバッグの中でスマホが振動した。学科が同じ友人グループ。陽奈が『キラキラ女子集団』と総称するメンバー。


 陽奈がお泊り会を開いているときに届いた、友人からの下世話な速報で陽奈の胸中には暗雲が立ち込める。


 ……せっかくのデートなのに水を差されるのは御免です、が。


 会計を済ませて、お土産コーナーの出口へ。陽奈はスマホを弄っていたが、純恵に気づくとすぐに顔を上げる。


 ……純恵の心の針がチクリと痛んだ。


「待たせちゃいましたね」

「ううん、全然待ってない」

「それはそれで悲しいですが……」

「面倒くさいなあ」


 陽奈とこうして軽口を叩き合う瞬間が、純恵には何よりも愛おしく思えた。

 だから壊さないように。本質を突かないように完璧のいい子で振る舞う。


「じゃあ……、ずっと待ってた。来てくれてありがとう。愛してる……とか?」

「いの一番にそれを言ってくれれば、今頃ホテル直行でしたね」

「大っぴらに下世話な話はしないの」


 純恵には、そしらぬ顔で話を合わせる陽奈の顔が心なしか赤く映っているように見えた。今日、何度も見た彼女の照れ顔だ。


 果たして。その純真そうな表情は作り物なのか。純恵は気になって気になって仕方がなかった。


 ――純恵は、陽奈が知らない男とホテルから出てきたその日も、長年培ってきた上辺だけの振る舞い方でやり過ごした。陽奈が何も指摘してこない、ということはいつも通り、やり過ごせている、ことなのだろう。あくまで、推測でしかないが。


 急すぎたお泊り会も彼女の心持ちを火事場にした。一度疑ってしまうと、様々な憶測が脳裏で飛び交う。少なくとも純恵には、ただのお泊り会ではないように思えていた。


 怒りは沸かなかった。それは陽奈のことが依然好きだから、というのもある。そして、そもそもこの恋人関係の始まりが純恵の身勝手な要望に始まったことだったから、でもあった。


 親元から勘当されて、遠い地でしかも、家も持たず大学に通う――漫画みたいに突飛な話だ。純恵と出会ったときの陽奈は『今は友達の家で寝泊まりしてるけど』と断りを入れていた。


 だが、果たして。友達とは、どういう意味での友達なんだろうか。


 フィクションかぶれの邪推に過ぎないが、ホテルの一件を目撃してしまってからは、ありえない妄想ではなくなってきていた。

 ……これから、どう振る舞うのが一番か、純恵の経験則で既に解は出ている。

 だが。このまま彼女の秘密を抱えながら、知らないふりをしなければならないなら。

 純恵は手に持った2つのキーホルダーをぎゅっと握りしめた。

 ――貴方にとっての『いい子』を取り繕うのが、途端に苦しくなってきました。


  †


 2人が水族館を出ると、夕日は既に水平線の真下に退場していた。


「陽奈さん、プレゼントあるんですけど、今渡してもいいですか?」


 濃紺の海と夕陽の面影が残る西の空を背にして、陽奈は潮風を受けながら、「え、いいけど」という。

 純恵は買い物袋の中からラッピングされた品を取り出して、陽奈に渡した。


「リュウグウノツカイのキーホルダーじゃん」

「黄色が陽奈さんで、青色がわたしのです。……お揃いですね?」


 陽奈は自分のキーホルダーを掲げて笑う。お揃いというワードが純恵の鼓動を早くする。陽奈もまた、動揺を隠しきれないのか口元を隠した。


「陽奈さんって、照れるとすぐ口隠すんですよね〜」

「……はっ、え、嘘っ? ……い、いや、これは、これはその、て、照れてないしっ?」


 茹で蛸のように顔が真っ赤な陽奈。

 純恵は、その光景を純粋に可愛いと思えた。どんな背景を目の当たりにしたって、恋をした相手には敵わなかった。


 テニスコートでの一件から、陽奈の反応は日に日に柔和になっていると純恵は感じていた。理知的で理性的な優等生としての小林陽奈像は、純恵の前だとやや薄れる。


 自分だけに見せてくれる一面。

 彼女の一部を独占している事実が、純恵を満たしていく。


「可愛いですね、陽奈さん」

「……ば、馬鹿にすんなし」

「馬鹿にしてませんよ」


 純恵は、いつも通り、余裕げのある表情を浮かべる。講義室にいるときも、テニスコートにいるときも、純恵と過ごしているときも、絶やすことのない完全無欠な武装を自身に施す。


「わたしはどんな陽奈さんも大好きなので、だからもっとたくさんの声を聞かせてください、――たくさんの顔を見せてくださいね?」


 今まで見えてきた像も、見えてこなかった像も。表立って見せることができた小林陽奈も。後ろ暗いところに隠してきた小林陽奈も。


 純恵は、陽奈の胸元に近づき、細い腕で彼女の腰を抱き寄せた。そして、


「陽奈さん、大好きですよ」


 唇の皮一枚、すれすれのところで触れ合わせた。キスするつもりはなかったのに。

 昨晩から一睡もできていないからだろう、純恵の頭は寝ぼけたままだ。


 ――恋人から、まだ微かに他人の匂いがする。


 純恵はその匂いを汚らわしいと思わなかった。

 独占欲は加速する。


(わたしは、わたしと似ていて、似ていない――そんな矛盾に満ちたものが好きです。そして、陽奈さんはわたしと似ているようで、わたしと全然違う世界を生きている)


 箱に閉じ込められない自由奔放さ、奇想天外さが梅小路純恵には眩しく見えた。

 だから、縋ってしまう。


 小林陽奈を自分のものにした。小林陽奈と心を通わせた。小林陽奈を知ってしまった。知らなかったことも、知らなくてもよかったことも。


 その上で、やっぱり梅小路純恵は、小林陽奈に縋る。


 ――貴方にとっての『いい子』でいるから、代わりに貴方の全部をわたしにください。貴方の全部を、貴方の口から教えてくれる日をわたしは、待望しています。


 箱入り娘は箱の外から垂らされる蜘蛛の糸を掴んだ。


「……愛してる」


 純恵の囁きは潮風に吹き付けられて、たちまち錆びついた。

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