第16話 『水底まで、貴方に導かれたい。』

「純恵はどんな魚が好き?」

「わたしは……これですっ」


 経路を歩きながら、純恵は横の髪を掻き上げて、耳を露わにした。耳たぶでは、とある魚類をモチーフにしたらしい赤と白の細長い飾り物がゆらゆらと揺れている。


「今日のイヤリングはリュウグウノツカイをイメージしたものなんですよ。綺麗ですよね?」


 リュウグウノツカイ。深海に住む長細くて、赤い鶏冠のようなヒレがついた魚。日本における人魚伝説のモデルとなった魚。陽奈は水族館通いで身に付けた知識を振り返る。


「純恵にぴったりな魚だね。綺麗なところとか」


 それは、陽奈にとってはありきたりな、なんでもない褒め言葉だったけれど。


「陽奈さんっていつから、こんなにストレートに褒めてくれるようなったんですかね……?」


 顔を赤くしている純恵にとっては、予想外の一撃だったらしい。

 恋人のデレが微笑ましくなって、陽奈は思わず、その真っ黒な髪に手櫛を入れた。

 指と指の間を抜けていく髪の一本一本はシルクのようで、擦り合わせればいい香りがする。いつしか、陽奈の匂いにもなってしまった、純恵の匂いが鼻腔を撫でた。


 陽奈は、純恵が人魚に化けたところを想像して、一人勝手に熱い息を吐き出す。


「この水族館、最近リュウグウノツカイの標本が展示されるようになったらしくて。実物、まだ見たことなかったんですよね」


 深海魚のコーナーは照明が少なく、まるで本物の水底を彷彿とさせた。


「どうしてリュウグウノツカイが好きなの?」

「陽奈さんがクラゲを好きな理由と半分同じで、半分違います」


 矛盾しているように聞こえますが。

 純恵は目前に広がるタカアシガニの水槽を眺めながら答える。


「リュウグウノツカイって深海魚の一種なんですよね。

 深海って光は入ってこないし、水圧も大きいじゃないですか。そんな環境に適応するにはそれなりの進化が必要なんです」


 目前の水槽を指差しながら純恵が陽奈の方へと振り返る。


「ある種は硬い殻で身を覆い、ある種は浮き袋を油で満たして水圧の影響を受けにくくしています。光がないせいで視力は退化するけど、その代わりに別の感覚を鋭敏にして獲物を捕らえます。

 ……環境に合わせて形を変えるところにシンパシーを感じました。

 その一方で、深海魚は独自の進化を遂げている。浅い海の魚とは違って独特なんですよね。

 とりわけ、リュウグウノツカイは過酷な環境の中で、美しい形をしていて、その姿に強さを感じて……その唯一無二なところが好きなんです」

「陽奈は充分オンリーワンだと思うけどな……」


 じゃなきゃ、素性の知れぬ女を居候にしないだろう。一目惚れだったとしても、どこかで恐怖感を覚えていいはずなのに。


 部屋にいるのは学科とサークルが一緒なだけの経歴の分からない女。それもキラキラ女子集団に所属する純恵とは対称的に、円の外周スレスレを渡ったり渡らなかったりしている女。

 接点や関わりあいが少ないのに、よく同棲できたな、と陽奈は振り返ってつくづく思った。


「環境に適応して、いい子を装ってるだけです。だからわたしはただの浅瀬の魚」


 純恵の語気の強さや目つきは真剣そのものだった。

 彼女もまた、陽奈とは違う問題に悩み続けているのだろう。


「わたしはリュウグウノツカイに憧れているんです。深い水底に耐えながら、あんなにも綺麗な進化を遂げたんですから――」


 と、そこで純恵の声が途切れる。直後、背後からどっと人の波が押し寄せた。

 2人の間に距離ができる。

 人気観光スポットであるがゆえに平日でも人の波は絶えなかった。足下がおぼつかなくて、陽奈の歩みは遅くなる。純恵が遠くなっていく。


「純恵、……どこ?」


 とうとう人の波によって、2人は別れてしまう。陽奈はひとりになった。


(……1人で勝手に行っちゃってさ)


 ふらりと陽奈は経路から外れて、近くにあった巨大水槽の横に背を預けた。


 ――人混みは嫌いだ。独りであることをひしひしと実感させられるから。


 水族館は見渡せば、人だらけだけど、ほとんどが誰かを連れて、見て回っている。

 人の繋がりを見れば見るほど、陽奈の胸が早鐘を打つ。

 楽しみを分かち合える、大切な人との時間と空間がそこかしこで共有されている。

 陽奈の胸が詰まる。子供時代の憧憬が彼女の焦燥を掻き立てる。


(純恵……、早く、迎えに来てよ)


 呼吸が荒くなる。目線があちこちに飛び回って一定しない。陽奈の視界の端で、巨大水槽で周遊する鰯の群れが見えた。足並みを揃えて、銀の風になった彼らと正反対に進む、異端児。野生だったとしたら、群れの逸れ物は肉食の魚の餌食となる。


 逆行が見つかれば、居場所から追い出される。

 前で組んだ両手を強く、強く、軋みそうなくらいに握りしめる。


「――陽奈さんっ!」


 明るみから声が聞こえた。水槽に差し込む光が乱反射して、展示室に差し込む。たくさんの人がごった返す中、陽奈を呼んだ張本人は誰よりも光り輝いていた。


「良かったです……心配しましたよ」

「ご、ごめん」

「いえ……、わたしが先に進みすぎちゃったのがいけません。ごめんなさい」


 純恵が深々と頭を下げる。どうしてそんなにかしこまるのだろうか、と陽奈は訝しみ、はっとする。もしかして、表情が隠しきれていない? 口元は強張っていないか、目を伏せていないか。あとは、それから……。


「――だから、大丈夫だって」


 陽奈は、なるだけ、自然になるように口角を上げた。

 今まで培ってきた、誰からも必要とされる優等生を装うように。


「わ、分かりました。ですが、今度はもうはぐれたくないので……」


 純恵は強く組まれた陽奈の両手を先端から解いていく。

 そして、組む手を彼女の繊細な白い手と置き換えた。


「手、繋ぎましょう?」

「……わ、私は子供かっ!?」


 今度こそ、陽奈は感情を隠しきれなくなる。

 解かれた手をすかさず、だらしなく緩んだ口元に寄せた。


「子供じゃなくて、恋人ですけど」

「――ほんっと! そういうとこ、そういうとこが!」


 目が潤みそうになって、手が足りなくなった陽奈は思いっきり顔をそらす。


「……ほんっとずるい」


 唇を尖らせた陽奈の顔には、狼狽と羞恥がこびりついて離れそうにない。だから、顔をそらしたまま、純恵を先導する。


「ほら、リュウグウノツカイ観にいくよ。今度は2人で」

「……! はいっ!」


 陽奈が手を引っ張ると、無防備な笑顔を浮かべた純恵が後ろをついていく。陽奈の歩む速度は速くなったり、遅くなったりおぼつかない。


 速くなるのは、恥ずかしい顔を薄暗い闇に隠したかったから。

 そして。

 遅くなるのは、純恵と足並みを揃えたいと願ったからだ。

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