第15話 『本当の貴方は、虚像だらけ。』
翌日。電車に揺られて2人が向かった先は水族館だった。
場所を指定したのは純恵だった。
国内でも指折りの規模を誇る施設には、淡水魚から深海魚までさまざまな水生生物が飼育されている、らしい。
「水族館、高3以来だな~」
「でも本当に良かったんですか、水族館で」
「私は水族館好きだし、それに――純恵がいればどこへだって」
陽奈が何気なく放った一言にしかし、純恵は目をまん丸くして、
「か、駆け落ちしますか?」
「どうしそうなるんだよ。発想が飛躍しすぎ」
――悪くないな、とほんの少しだけ思ってしまったことは純恵に内緒で。
「にしても、やっぱり純恵って綺麗だよなぁ」
改めて、陽奈は純恵を眺めた。水色のストライプ柄ブラウスの上から白のジャンパースカートを纏ったシンプルなコーデ。初夏の爽やかな空気を纏っているような雰囲気さえ感じさせる。
後ろで結んだ長く真っ黒な髪が潮風を孕んで舞い上がる。快晴を浴びて一層艶が増している。
素体からして美しい顔の輪郭は控えめなメイクをするだけでも周りの目を引いた。
「――陽奈さんも可愛いですけどね?」
「ふふ、ありがと」
「さあ、今日は楽しみますよ~! 楽しみすぎて昨晩ほとんど眠れませんでしたっ」
「だから行きの電車で船を漕いでたんだね……」
純恵のメイクも目を凝らしてみれば、コンシーラーで隠してあるものの目元には隈の痕跡が見て取れた。小学生かよ、とツッコみたくなるのを辛うじて陽奈は我慢する。
「だっ、だだだから! 今日はたくさん楽しみたいんですっ! いい夢見させてください!」
「……なんだか、初デートみたいだね」
口にしてみると、改めてこそばゆい響きだ。
陽奈は目を逸らして、口元をもごもごさせた。
その様子に純恵は、破顔一笑。
「初デート、ですから。一緒に楽しみましょうね」
†
受付を済ませて入場すると、早速淡水魚の展示が広がっていた。陽奈が水槽越しにメダカの隊列をなぞっていく。
「……私さ、高校時代ほとんど毎日水族館通ってたんだよね。年パス買ってさ。受付の人や学芸員さんも顔パスってくらい」
「水族館、好きだったんですね」
好きだよ。
だって、私にとって唯一の聖域だったから。
家族と折りが合わなかった陽奈は、実家からバスで片道30分かけて水族館に通っていた。学校の友達と来ることもあったが、数えられるくらい。
小学校の遠足を思い出して、ある時ふと行ってみたのがきっかけだ。
魚を観るのは好きだった。彼らが雄大かつ自由に泳ぐさまは、実家や学校の閉塞感に押しつぶされそうだった陽奈にとっての癒やしであり、憧れだった。
親に反抗的で、そのくせ学校での外面は良い。そんな矛盾まみれの自分をリセットするために陽奈は足繁く水族館に通っては魚を観察した。
人に好かれるために笑顔で振る舞う。そうすれば、必要とされるのだと幼心ながら陽奈は気づいていた。でも厳格な父母は、彼女の嘘を何度も諭すのだ。
――あんたらがもっと私を必要としてくれれば、良かったのに。
「――さん、陽奈さん?」
「あ、えーと……。ごめん、ぼーっとして、た?」
右手に冷たさと微かな痛みを感じたので見下ろすと、純恵の細くて冷え気味な手が陽奈の手を握っていた。
「急に黙りこんで、苦しそうでしたよ。……何か悪いこと、思い出しちゃいました?」
「あ、え……と、そんなところ。両親の話」
「前にも言っていましたが、どうして、親御さんと仲違いしてしまったんですか?」
「ただのスタンスの違いだよ。私が本当に欲しかったものが手に入らなかった、それだけ」
そうですか、と言ったきり純恵が詮索することはなかった。ただ、陽奈には純恵の顔に影が差したように見えた。
せっかくのデートなのに、暗い話をしていたら台無しだ。
「そういえばさ。一昨日のお泊り会、純恵のこと話したんだ」
「えっ!? あんなに他の人に広めない方がいいって言ってた陽奈さんがっ!?」
「別の大学の子だしいいかなって。――可愛い恋人だって紹介しておいた」
ワタルから一方的に問い詰められた分だけ説明したに過ぎないが。
人の恋バナを食って生きる彼は、新しいネタに飢えていた。
「やめ、やめてくださいよ〜! まったく、可愛い恋人だなんて〜!」
純恵はでへへ、と砂糖菓子が溶けたような、だらしない顔をしていた。
チョロいものだ、と陽奈は呆れる。
話題の転換に成功して、内心で胸を撫で下ろしていた。
†
「ところで、陽奈さんはどんな魚が好きですか?」
「魚はピンとこないかな。それよりも――」
陽奈は、進路方向に見えた水槽を指さした。黒い背景の前で水流にたゆたうミステリアスなそれは、
「クラゲが好き」
水族館の一角に設けられたクラゲの展示に陽奈は目を奪われていた。透明感のあるゼリーのような物体は水槽の中でふわふわと浮いている。
「クラゲってさ、海流に流されて生きてるじゃん? 自分の行き先なんて知ったこっちゃないの。自由、に見せかけて流れがないと生きていけない。逆行することなんてない。そんなところが自分に似てるなって思ったの。だから、好き」
理想像の方舟に乗った陽奈は、他人からのイメージという奔流に流されて生きてきた。
学校でもベッドの上でも優等生、という上等なラベリングのもとで。
「陽奈さんとクラゲ、だいぶ違うと思いますけど」
「そりゃ形は似てないかもね。あんなにふわふわしてない」
「そうじゃなくて」
純恵が胸の前で両腕を×にする。
「陽奈さんは、逆行してるじゃないですか。現に、親から勘当されてもたくましく生きてる」
「たくましく生きてるって……誰目線だよ、もう」
「恋人目線ですっ」
――それだけが全てではないんだよ。と否定することが陽奈にはできなかった。純恵の笑顔を崩したくないからだ。
「逆行してるように見えたなら、よかった」
何がよかったんだろう。梅小路純恵から見た小林陽奈の虚像がお眼鏡にかなったからか。
人から必要とされるには必要とされるための挙動をトレースする必要がある。
人からよく見られること、いい人と思われること。
それはすなわち他者から観測した小林陽奈像として各々に共有される。
小林さん、小林、小林ちゃん、陽奈ちゃん、ヒナ、陽奈――陽奈さんはいい人、優等生、頼りがいがある、誰からも必要とされる――陽奈さんが好き。
ある時は優しくて、ある時はカッコ良くて、ある時は凛々しくて、ある時は男勝りで、ある時は知的で、ある時は……ある時は?
一体いくつの顔を持ってきたのだろう。どれほどの不揃いな優しさを生み出してきただろう。そのどれもが、誰かの色眼鏡を通って、小林陽奈をプリズムで彩る。
では、本当の彼女はどこへ。
――本当の優しさってなんだよ。
相手のために自分を取り繕って笑ってみせるのは優しさじゃないのか。
陽奈はその問いにいまだ、答えられていない。誰かのお眼鏡にかなうように今日も、小林陽奈を演じている。誰かに必要とされたいという荒波でどこにもいけず、堂々巡りを繰り広げている。
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