第7話 『何もしないでいいのは、酷く窮屈だ』

 陽奈と純恵が所属するテニスサークルの活動日は火曜日と金曜日で、雨天の場合は活動中止だ。5月下旬は跡切れ跡切れの長雨続きだったが、最終週の週末にかけて晴れ間が増えてきた。5月最後の金曜日にはようやく新入生を交えた最初の活動を始めることができた。


 新入生には経験者がいればもちろん初心者もいる。飲み会メイン、テニスは二の次なサークルだからこそ間口は広い。


 初心者の面々が先輩方とキャッキャウフフ楽しいレクチャーを受けている一方で、経験者だった陽奈と純恵は早速空いたコートでラリーを始めた。


 ……あまりにも自然にラリーを始めてしまったものだから、近くで見ていた先輩も唖然としたらしい。ウォーミングアップが済んだところで、陽奈のところに寄ってきたのは先日、純恵を口説き落とそうとしていた先輩だった。名前は覚えていないので仮にA太先輩とする。


 陽奈がコートの端に並んだベンチに腰掛けるとA太先輩は馴れ馴れしく近寄ってきた。心なしか、陽奈の肩は縮こまり、目線も険しくなる。


「そんな警戒しなくても良くない……?」

「先輩ったら、すぐ年下の女の子に手を出すので」

「可愛い後輩だし。放っておくほうが可哀想じゃない、かな」

「言っておきますが、私は落ちませんので」

「大丈夫。小林さんのことは狙ってないから。タイプじゃないし」

「デリカシーない男は嫌われますよ?」

「安い挑発に乗る女は面白くて好きだよ」


 コートでは純恵が引き続き女の先輩とラリーをしている。彼女のサーブは回転が激しく陽奈でも押し返すのが難しいくらいだった。


「梅小路さんって高校時代に関東大会出場したらしいよ」

「なるほど……、道理で上手いわけですね」


 飲み主体のサークルよりもガチ勢に混じってプレイした方がいいんじゃなかろうか。


「俺もラリーしてもらおうかな〜、梅小路さんに」

「後輩女子に滅多うちにされるのがご趣味ですか。もしかして、マゾ?」

「口が悪い後輩もそれはそれで悪くないね」


 割と本気で引いた。陽奈は勢いよく先輩から後ずさり、ゴミを見るような目を向けた。先輩は特に傷つく様子もなく、「冗談冗談」と呵々大笑。陽奈は眉をひそめて腕を組んだ。


「あと俺、これでも2年生以上では3番目くらいに上手いんだよね、俺。

 ――それに男だし、力は負けないでしょ」

「女の子相手に手加減なし宣言って」

「でもその前に……」


 ベンチの前にあるコートが空いた。A太先輩はそこを指差して。


「陽奈ちゃんに勝って験担ぎとかどうよ?」

「――野郎絶対泣かしますよクソ」


 その試合は、怒りに身を任せた陽奈が鬼神のごとくスマッシュを撃ちまくって完勝した。

 一応、陽奈とて地方大会で優勝争いに参加できるくらいの力量はあった。ガチ勢とプレイしない理由はただ一つ。そんな余裕なんてなかったからだ。


  †


「練習楽しかったですね」

「私はもうヘトヘトだよ。あの先輩結局、私に負けたのが悔しくて連戦仕掛けてきたし」

「陽奈さん、テニス上手かったんですね」

「純恵ほどじゃないよ。うちは人が少ない田舎でちょっと上手かっただけ」


 練習を終えてくたくたになりながら、帰路につく。

 途中、スーパーに寄って夕食の食材を調達する。


「陽奈さん、夜は何がいい?」

「なんでもいいよ」

「じゃあ陽奈さんのこと食べますよ」

「毎日食べてるくせに」


 下世話な軽口を叩きながら、純恵がスマホに映るレシピ通りに食材を選んでいく。どうやら鮭のムニエルのようだ。


「……私も家事、やりたいんだけど――」

「わたしが全部やりますので」

「そこをどうにか」

「なりません」


 さり気なくアピールしてみても、すぐに拒絶されてしまう。手堅い盾だ。どうしてそこまでして、私に家事をさせない。


「もしかして、私の家事に不安要素でも?」

「そういうわけじゃありません。そもそも、陽奈さんに家事させたことないので不安も何も測定不能です」

「だったらいいじゃん。これじゃ居候じゃなくてヒモになっちゃうよ」 

「陽奈さんのために尽くしたいんですよ、わたしは。だからお客様のようにドーンと構えててくださいって」

「そっちがそのスタンスでも私が納得できないんだってば」


 会計を済ませて店舗をでたら、夜の帳が開く寸前だった。暮れなずんだ夕景が車輪の往来ですり減ったアスファルトに反射して眩しかった。夜は近い。


 ――何もしないでいい日常。それって気楽なはずなのに、私からしてみれば窮屈だ。


 求められたい。そう強く願ってしまうのは、純恵に捨てられたくないから、だろうか。それではまるで自分が恋をしているみたいじゃないか。

 それはない。ないはずだけど、不感症な心は初恋の瑞々しさを自覚ことすらままならない。


 だから、分からない。

 だから、今はただ『必要とされたいから』という理由を掲げて、純恵から家事を奪いたい。


 恋の一文字を欲求のドブ川に捨ててきた陽奈は手探りに、抱いた感情の正体を探る。


  †


 ダイニングテーブルに並んだ料理を口に運び、陽奈は舌鼓を打った。


 純恵の料理の腕前は見事だ。実家でみっちりしごかれたらしい。お嬢様は自分で料理をしないものだと思っていた陽奈は衝撃を受けた。陽奈が料理を褒めると純恵は、「そんなことないですよ」と謙遜する。そして、


「料理は趣味ですし、それに――」


 純恵が陽奈の後ろに回った。

 吐息。首筋。陽奈の肩がびくりと揺れる。

 それは、他愛もないささやきだ。


「好きな人のためだったら、どんなわたしにもなれますから。

 なりたいですから」


 空気を微かに振動させる音が、陽奈の鼓膜を焦らすように叩く。脳味噌が桃色に変色してしまいそうな気分になる。途端、陽奈の身体はのけぞって、拍子に椅子から転落した。

 だらしなく股を開いて床に落下した陽奈だったが、落下の衝撃に構うことはできなかった。見上げた純恵の、無垢な微笑に釘付けにされる。

 美しかったから? 確かにその線はあり得る。

 けど、何より――、胸の奥がざわざわして仕方なかったのだ。

 冷えた汗が首筋に溜まる。


「あんた、趣味が悪いよ」

「悪趣味してる当人は楽しいんですから、それでいいでしょう?」

「純恵って、案外性格破綻してる?」

「どうでしょう? ちょっとだけフィクションに傾倒しているかもしれませんが」


 1周間付き合って分かったことは料理の腕だけじゃない。

 梅小路純恵は無類の読書家だった。

 純恵の部屋は壁一面が本棚で覆われていて、本が敷き詰められている。蔵書は漫画と小説が半々で、ジャンルはほとんどが女性向けの恋愛ものだった。


 ――『好きな人のためだったら、どんなわたしにもなれますから。なりたいですから』というさっきの台詞がちらつく。恋愛漫画を想起させる、浪漫に傾倒したフレーズだ。


「あんたが漫画脳なのは分かったけどさ。それはそれとして、私にも面目があるんだよね。ヒモにはなりたくないんだ。だから、そうだな――」


 ちょうどいい理由が欲しくて手近な記憶を漁る。そして、


「火曜日のサークル、テニスのラリー。勝ったら私にも家事させて?」

「そんなにやりたいならいいですけど……でも、わたしが勝ったら、その時はどうします?」

「してほしいこと、なんでもいいよ」

「なんでもっ!?」

「そう、なんでも」


 ジュル、と純恵がよだれを啜った。

 見た目の高貴さに反してだらしなくて、下品な仕草だった。とてもキラキラ女子集団の一角とは思えない。じとっとした冷ややかな目で見ていると、気づいた純恵が口端のよだれを拭って、咳払いする。


「……わ、わかりました。いいでしょう、受けて立ちましょう。本当になんでも頼んじゃいますから、ねっ?」


 純恵の目はガチだった。え、何するの。ちょっと、目が怖い。

 だが、背に腹は変えられない。

 勝って、純恵から家事の権利をもぎ取らなければ。そうしないと、


 ――私はいつか、押し潰されてしまう気がしてならない。

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