第6話 『必要とされたくて、疼く。』

 純恵との同棲が始まって、1週間が過ぎた。

 網戸越しに部屋に舞い込む沈丁花の香りでぼんやりとした意識が冴え渡る。

 午前10時。午前中に講義がない日の朝は遅い。

 陽奈は起き上がろうとして、細い腕と柔らかい質感に阻まれる。

 下着姿の純恵が陽奈を抱き枕にしていた。


「結局、付き合い始めてからずっと、一緒のベッドで寝てるじゃん……」


 同棲生活が始まるや否や、純恵はすぐに陽奈から離れなくなった。

 ベッドインしたら、舌を絡めたキスから情事が始まる。優しく表面を吸って、薄い皮膜を剥がしてから熱い舌の先端で焦らしてくるのだ。キスだけで頭がぼうっとしてしまう――。

 昨晩の絡まりが思い浮かび、すかさず陽奈は思考を振り払う。

 純恵のキスは手慣れている。女には慣れているらしく、高校時代も上級生同級生下級生、様々な女とまぐわった、らしい。

 ――私も、あんたも大概汚れてる。外面からは想像つかないくらいに。

 陽奈は隣の純恵を見下ろす。


「まつげ、長いな……」


 幸せそうに寝息を立てる純恵の顔を指先でなぞる。その度に、くすぐったそうに、そして幸せそうにくしゃっと笑うのだ。ペットみたいだ。飼い犬みたい。抱きしめられたまま陽奈は仕方なく、再び布団をかぶった。もう目は冴えてしまったけど。

 薄暗い毛布の中で、キラキラしたものと遭遇する。ぱっちりと開いた純恵の瞳だった。


「おはよう。起きてたんだ」

「起こされちゃいました。おはようございます」

「……ごめん」

「指でなぞられたの、とても、気持ち良くて……」

「朝はしないからね」

「でも、」

「昨日の夜だってたっぷりしたんだか、――」


 拒否は聞き入れられなかった。陽奈は口を塞がれて、言葉を失った。

 ――純恵のキスは私のなかに潜む理性をドロドロにとかしてしまう。

 ただ触れるだけのキスで、胸がぞわぞわして、あったかくなる。鼓動が明瞭になっていく。彼女の細い身体を引き寄せて、温もりが欲しくなる。

 誰かに、求められたい。私の全部。

 シャツ一枚越しに触れ合った身体。熱量は加速していく。


  †


 ……またやってしまった。

 寝起きの情事の後、意識は1時間飛んでいた。ベッドにはもう純恵の姿はなく、代わりに部屋の外から小麦が焼ける香ばしい匂いが漂ってきていた。

 ベッドの背もたれに身を預けて、陽奈は天を仰ぐ。

 朝と晩、絶えることのない情事。純恵の押しに負けて、気を失うまで何度も交わることとなる。起きた時にはすでに純恵が家事を全て終わらせていて、やることがない陽奈はただご飯を食べて、部屋でダラダラするしかなくなっている。


「ヒモじゃん、ダメ人間じゃん……」


 セフレの家に泊まっていた時期は、対価として陽奈が家事を代行していた。それがせめてもの礼儀だと思っていたし、何より、彼女は誰かに必要とされたがったから、そのためだったら何でもしてしまう性分だった。


 ひんやりとしたフローリングに爪先を落とす。そのとき、


「陽奈さん、ご飯できましたよ?」


 扉の縁からひょこっと、純恵が顔を出した。


「今日はパン?」

「トーストと、目玉焼きとベーコンです!」

「……ありがとね。毎朝毎晩」

「これくらい彼女の役目ですから!」

「私も彼女なんだけれども」

「陽奈さんはどちらかというと彼氏ですよね」

「最近は彼氏も率先して家事、すると思うんだけどなあ」

「じゃあわたしが彼氏で彼女ですねっ」

「恋愛は一人芝居じゃないでしょ?」

「こ、細かいことは気にしないでっ。陽奈さんはどーんと構えていればいいんですよ」


 純恵はわざとらしく早口だった。無意識かどうか、長い髪の先端を指先でくるくると弄っている。キラキラ女子集団に溶け込んでいるときの純恵だったらこんな、あからさまな動揺を見せない。隠し事をするにしても、余裕げのある微笑をたたえて声を潜めて、蠱惑的に「……内緒です」と囁く。梅小路純恵の外面に対する共通認識だった。


 何を隠しているかは知らないが、わざわざ隠したがっていることに首を突っ込むつもりはなかった。空気が悪くなれば、居候生活も長くは続くまい。大事なのは適度な不干渉だ。


「……いい加減、私も家事手伝いたいんだけど」

「いいんですよ陽奈さん。わたしがやりたくてやってるだけなので!」


 善意で押し切った挙げ句、純恵は颯爽と退散した。

 残された陽奈は一人、ため息をつく。閉塞感が寝室を満たしていた。


 ――必要とされたい。何にもしていないと、自分の存在を疑ってしまう。


 強迫観念が喉元を熱く焦がす。


 フラッシュバックする実家での日常。認められたくて欠かさなかった努力と気配り。反応してくれない両親。日に日に溜まるストレス。承認されたい、という欲求が獣になって、下腹部を燃やす。煮えてドロドロに凝った感情をほぐすように身体を使役する。誰に対しても人当たりのよい優等生。みんな、ありがとうと感謝してくれる。それだけが救いで――。


『陽奈。お前は、本当に優しい人間になりなさい』


 家を出る直前、父親が遺した最後の叱咤がちりちりと頭の中にこびりついている。

 言われなくても、私は誰かにとって必要とされる、優しい人間になっている、はずだ。

 はずなのに。依然、引きずっているのは何故だ。


「……ともかく、今はヒモを脱却することを考えなきゃ。どうすれば、純恵が家事をさせてくれるのか」


 陽奈の作った朝食兼昼食は、文句なしの美味しさだった。

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