第8話 『我儘の全部、貴方と並びたいから。』

 6月になった。決戦の日は快晴だった。

 純恵と陽奈はサークルの活動開始1時間前にコートに到着して準備運動を済ませていた。


「みんながきてからでもよかったんじゃないですか?」

「私たちの関係を勘ぐられたくないじゃん」

「えー、わたしは別に無問題なんですけど」

「私が嫌なの。……いや、あんたと付き合ってるのが嫌ってわけじゃないよ。だから泣きそうな顔になんないの」


 若草色のテニスウェアを纏った純恵が対岸のコートで、ラケットを抱えながら泣きそうになっていた。陽奈は即座になだめる。


「私たちの関係って、一応恋人だけどさ、同棲の対価として生じたものじゃん? つまり不純な関係。もしも、あんたのような世間知らずの女子がそんな不純な関係に手を染めているって話が広まったらさ、周りからの印象が悪くなると思うんだよ」


 ――自分は不純な関係に漬かりきっているくせに。


 陽奈は内心で自身を咎めた。一体どの口が言えたものなのだろうか。最近だって、純恵にバイトだと偽って、パパから金をもらって私腹を肥やしているというのに。

 爛れた中毒から逃れることはいまだ叶っていない。


(梅小路さんと住み続けたら、ちょっとは変わるのだろうか……)


 冗談半分で縋ってみるけど、期待はしていなかった。

 自分が爛れた関係に溺れる一方で、陽奈には、他人を巻き込む気がさらさらなかった。自分の顔に塗る泥は有り余ってもいい。でも他人に泥を塗るのは、陽奈のポリシーに反している。

 ……なんて裏事情は口が裂けても言うまい。純恵は陽奈の業と毒を知らない。無垢な瞳で見つめてくれる。だからこそ、少しだけ、


(怖いなあ、なんて)


 自身の偶像を壊してしまうのを恐れるようになったのは、1人じゃなくなったからだろうか。陽奈は自分の弱さを言い訳にして、頭をふった。



「始める前に、1つだけ、いい?」

「なんですか、陽奈さん」


 テニスボールを鞠のようにバウンドさせながら、純恵は首をひねった。


「あんた、本当は誤魔化すの苦手だよね」

「……何のことですか?」

「私に家事をさせない理由、あるんで――」

「ええ。わたしが恋人らしく振る舞いたいから、そうしているんです」

「そういうとこ。今のも、ダウト」


 回答を用意していたかのような即答。早押しクイズじゃあるまいし。事前予約していた台詞をレコードに載せて再生しているだけ。


「何でもいいじゃないですか。わたしが、そうしたいんですもん」

「私が嫌だって言ってるんだから、考慮してほしいんだけどな」


 このままじゃ、議論は平行線だ。陽奈はラケットを構えて、テニスシューズで人工芝のコートを踏みしめた。純恵が構え直したところで、最後、


「――あんたが、わたしに喜んでほしいなら。


 他人に合わせて顔色を変えるのは、あんたの得意技でしょう? 

 動揺したように大きく目を開いた純恵を確認して、堪えきれない擽ったい感覚を漏らすように陽奈の口元が緩んだ。


  †


 試合は。秒で片がついた。


「はぁ〜、負けちゃいましたね、陽奈さん」


 ワンサイドゲームだった。最後の点数を取られた陽奈がその場で崩れ落ちる。肩で息をする。純恵の左右に振り回すようなプレイについていくのがやっとだった。


 かたや、地方大会でのトップ近辺。

 かたや、関東大会常連。

 戦う場が違えば戦力差も歴然だ。


「……自分から切り出しておいて、負けちゃってやんの。だっせえ」


 陽奈の身体からぶわっと力が抜けていく。彼女はそのまま仰向けに倒れた。はげかけた人工芝のコートのせいで背中や首筋がこそばゆい。まぶたが湧き出る汗でしみる。


 涙が出てくる。瞳から溢れ出る流れは徐々に勢いを増していき、いつしか激しさを身に纏って頬を滑っていく。陽奈の喉の奥でじんわりと疼痛が広がっていくような感触があった。


「ぅ、う、ううぅぅ……っ」


 泣いている。泣きじゃくっている。おもむろに溢れ出る涙の源がわからなくて、余計に訳が分からなくなって、涙は一向に止まることを知らない。


「ちょっ、え、どうして泣いてるんですか陽奈さん!? そんなに負けたくなかったんですか……!?」


 負けたくなかった。勝ちたかった。

 でも、勝つことはあくまで手段でしかない。

 手段を遂行できなかったから、目的もまた潰えてしまった。

 でも、涙の本質はそこ、ではない気がする。


「ぁー、なんで私、泣いてんだろ……テニスに負けて泣いたこと、今までなかったのにな……」

「どうどう、どうどう。よしよし陽奈さん、大丈夫ですからね……ゆっくりでいいから落ち着きましょう……?」


 宥めようとしている純恵も涙目だった。さながら泣き喚き赤子に手を焼く新米の母親のように。そんな純恵の姿がちょっとだけおかしくて、でも涙が止まらなかった陽奈は吹き出しながら、泣いていた。


「陽奈さんったら、変な顔。……狐の嫁入りみたいですね」

「……やめてよ、恥ずかしいから」


 2人はコートを抜け出して、近くの自動販売機でスポーツドリンクを買った。その頃には陽奈も泣き止んでいた。近くの木陰に座って、密かに「乾杯」と唱える。

 すっきりとした甘さが泣きすぎてしゃがれてしまった陽奈の喉に沁みいる。

 無言でドリンクを飲み干すと、純恵が先に切り出した。


「勝ったので、一つだけ言うこと聞いてもらいますね」

「……そういう話だったね」


 陽奈は空になったペットボトルを両腕と両膝で強く抱きかかえて、俯きながら「いいよ」と小さく呟く。

 馬鹿な賭け事だったのではないか、と今更になって陽奈は気づいた。心のどこかでは信じていたのかもしれない――純恵に勝つ自分を。


 あるいは。


『――あんたが、わたしに喜んでほしいなら。喜んでもらえる行動をしてみてよ』という牽制通り、純恵が私に勝ち星を与えてくれる、そんな小賢しい幻想を抱いていた。


 純恵は陽奈のためならどんなことでも尽くしてくれる。隅々の家事から性欲の処理まで。

 思い通りに動いてくれるという盲信さえ、抱いてしまうほどに。

 たった2週間の日常は既に、陽奈の心を散弾で崩し、弾痕を埋めるように浸透した。


 だからこそ、私は今、純恵のもとに居続けていいのか、分からない。


「じゃあ、お願い……言いますね?」


 木々の梢が、そよ風とともに揺らいだ。

 隣で柔和な笑みを浮かべる純恵は、陽奈と同じ匂いだった。


 きゅっと目を閉じた陽奈はしばらくして、瞼の向こう側でほっそりとした影が大きくなるのを感じる。吐息。ミントの香り。額の髪がかきあげられる。薄くてしっとりとした皮膚の先端が押し付けられ、弾ける。


 ぱっ、と陽奈が目を開くと、すぐ真上に純恵の顔が見えた。細くて白い首筋から顎にかけての流麗な曲線が眦を焦がす。視界のあちらこちらが仄白い奇跡の色彩だった。行き場をなくした陽奈の目線は純恵の鎖骨を見やった。白の中に薄く陰った灰色が垣間見える。無駄な肉を一切削ぎ落として浮き彫りとなった繊細な彫刻に目を奪われる。


「目、開けてくれましたね?」

「……キス、唇じゃないんだ」

「目、開けてほしかったので。意表をついただけです。

 ――今からお願いすることははっきりと、あなたの目を見てお願いしたいから」

「私の、目を見て……?」


 陽奈は遅れて、純恵に肩を掴まれていることに気づいた。


 紡ぐ言葉を失った。陽奈の力が緩んだところで、抱き留められていたペットボトルがころ、と地面を転がっていく。しかし、小道具の微々たる移動を気にするよりも前に、陽奈は、自分と顔の高さを落とした純恵と目を合わせた。

 深海の青は出会った時と同じ、魔性を帯びていて、捕らえた獲物を放さない。


「どうしてそこまで、私の手伝いに執着するのか、教えてください。……だって、あんなに泣いちゃうなんておかしいですもん。いつも教室で見る大人っぽい陽奈さんからはありえないくらい、壊れたような悲しい顔をするから。気になって仕方なくて」

「それは……本当にあんたが望んでいるお願いなの?」

「悲しい顔してる陽奈さんに、ふざけたちょっかいは出したくないです」


 時が、止まる。

 純恵の目は真実を映している。

 誰にも言われずとも理解していた。だから、陽奈の口は淀みなく動く。


「――必要とされたかったんだよ、私」

「何もしなくても、わたしが陽奈さんを求めます、それでもですか?」

「純恵、いい? 何にもしないで済むのって確かに楽なのかもしれない。けど、その楽は私にとって酷なんだ。ただそこにいるだけでいいなんて、置物と変わらないじゃない。わたしは見せ物じゃない。人形のように単純明快な作りをしてないんだよ。

 必要とされなきゃ、生きるのが辛いだけなんだ」


 2週間の回顧、その総括を濃縮還元して、吐き出していく。

 陽奈の内側では、曖昧な感情が確固とした形を帯びていった。

 必要とされたかった。

 けれど、ただそこにいるだけでいいって言われたら陽奈は自身の証明をできない。


「恋人としての契約。たとえ、その契約が仮初で一時的な気の迷いによるものだったとしても、……私はあんたのパートナーでいたいんだよ。そうじゃなきゃ、あんたの元にいる意味がない」


 どんなに部屋が広くったって、出てくる料理がおいしくったって。

 陽奈が陽奈として存在できない空間ならば、そこにいたって心が窒息するだけだ。

 だったら、仮初の愛を囁きながら騙し騙しセフレと居を構えた方がいい。

 彼らは何も言わずとも、陽奈を必要としてくれるから。


「これは私のわがまま。だからさ、手伝わせて。全部じゃなくていいから、半分くらいさ」


 陽奈の胸にずっしりとのしかかっていた無力感が、たちまち晴れわたる。


「1人じゃないんだから。2人でいるためにあんたの肩を背負っていい?」


 純恵は、無言のまま陽奈に覆いかぶさった。きゅうっと優しく包み込む。ラリーが終わり染み付いた汗にも、お互い構うことなく。


「ごめんなさい、陽奈さん」


 純恵の声は掠れている。


「わたし、勘違いしていました。……漫画ばっかり読んで、理想の恋人像を自分にトレースして、完璧な恋人を演じて気持ち良くなっていた、だけでした」

「この、漫画脳め。でも、梅小路さんのそれも、恋人関係を続けるためのものでしょ? 私と方向性が違うとはいえ」

「あ、当たり前じゃないですか!」


 がばっ、と陽奈を胸から引き剥がして、血眼になって純恵は主張する。勢いで陽奈は思わず身を引いた。


「あんたって、本当に私のこと、好きだよね」

「当然じゃないですかっ。何度も言ってるでしょう、――陽奈さんのことが好きなのでって」

「そっか。……だったら、もっと言ってくれない?

 私を、誰よりも安心させてくれないかな」


 もっと必要だと言ってほしい。小林陽奈が必要不可欠だ、愛してると囁いてほしい。何度言われたって足りない。喉の奥から果てしなき欲求が渇きを訴える。

 純恵が陽奈のテニスウェアの襟を掴む。その上から陽奈は手を重ねる。じっとりと湿っているのは運動したからか、それとも、恋の余熱か。


「好きです、好き、大好き、可愛い、綺麗、好き、ずっと好き、離れませんから、愛していますから、…………ぁ、え、う、えーと、うう」

「恋って、語彙力を消し飛ばすんだね」

「そうじゃなくて、いや、それもありますが。改めて面と向かって、好きだって伝えると、その……、うぅ」


 ほてった顔を手うちわで煽っている純恵は、恋する乙女ってやつなんだろう。

 潤んだ深海の瞳に瞬く、星星のような輝きが、陽奈には少しだけ眩しすぎて。


 ――ずるい。あんただけ、恋してて。

 だから、腹いせ代わりに、



「可愛いね、梅小路さん――いや、

「かわ……っ!? というか、初めて、名前でっ!?」



 見つめ返して、褒め言葉を重ねると、せっかく仰いで冷めてきた顔が再び熱で熟れていく。その様は、きっと陽奈ジャナイ誰かが見ても可愛らしいと思われる光景だったけれど。


(この照れ顔が他の人の目に写るのは、なんだか癪だな)


 なんて戯言を脳裏で浮かべては、こそばゆい気持ちを自覚した陽奈もまた、にやける口元をさり気なく隠すのに必死になった。

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