第9話 『貴方のおかげで空気は、変わる。』
2人が木陰から去ろうとした頃には、とっくにサークルの開始時刻になっていた。わざわざ戻る気にもなれなかったので帰路についた。
途中でスーパーに寄って、夕食の食材を探す。既にルーティンワークの一部だ。
「これからは私も家事、していい?」
陽奈は、ショッピングカートを手配しながら改めて確認する。
純恵は大きく頷いた。
「帰ったら役割分担しないといけませんね。毎日やってもらうのは気が引けるので」
「毎日やってもらって気が引けてたんだよ、私は」
「う、ごめんなさい……」
「謝るのは私の方だよ。意見を擦り合わせるために遠回しなことしちゃって、挙句負けちゃうんだもん」
「ふふん、わたしこう見えてテニスの腕は確かなんですよ?」
「関東大会でいい成績とったんでしょ?」
「なんでそれを!?」
「先輩から教えてもらっただけ。新入生歓迎会の時、あんたをナンパしてた」
「あ〜、あの先輩ですか」
純恵はさも興味なさそうに薄く笑って誤魔化した。
コート外でもA太先輩に勝てたので一層気分がいい。今日の夕食は豪勢にしてみてもいいかもしれない、なんて考えが陽奈の脳裏によぎる。
「じゃあ、最初から勝てないことがわかっていながら戦ってたんですか?」
「まさか。勝てないとは思ってなかったよ。私だって一応、地方の大会でいい成績はとってるし、互角かなって強気な気持ちはあった。でもね、本当は、」
そのまま言いかけて、陽奈は口をつぐむ。
純恵を手招きし、その耳元で残り半分の真実を告げた。
陽奈は、心臓のざわめきが不思議と強くなっていくのを感じる。そのざわめきの正体が一抹の罪悪感であることも陽奈は知っていた。
「……そう、ですか。ふふ、陽奈さんったら、わたしのこと信用しすぎじゃありませんか?」
陽奈の予想とは外れ、純恵はなんら差し支えない様子でニコニコしていた。その表情は偽りがない。それどころかいつにもまして嬉々としているような雰囲気さえ感じられる。ちょっとした違和感が陽奈の胸に刺さった。
「2週間も一緒に住んでいれば、ちょっとは気持ちも変わるんだよ、きっと」
「そういうもの、なんですか」
目当ての品物をセルフレジで精算する。じゃがいも、生クリーム、牛乳、などなど。今日の主菜は純恵のリクエストで、シチューの予定だ。好物らしい。陽奈はルーを使わず一から作ってみることにしていた。
店から出れば、まだ日は高い位置だ。
スーパーを出るとすぐそこには踏切がかかっている。その向こう側を真っ直ぐ進むと二人の住むマンションがあった。
踏切が、カランコロン、と軽快な警戒音を響かせる。二人は駆け足で向こう岸にわたった。
お互いに久々の本気ラリーをしたせいで、ちょっと走っただけでも膝が笑ってしまう。それに気づいて、お互いの情けなさに吹き出した。
純恵は陽奈の数歩先に行って振り向く。そして、細い腕を陽奈へと差し出した。手を握ってほしいらしい。陽奈は考えなしにその手を握る。
踏切の両側から電車が迫ってくる音がする。車輪の唸りが線路越しに攪拌される。けれど、純恵の声は陽奈の耳に静かに、そして力強く響いていた。
「陽奈さん。テニスのラリー、『わたしが空気を読んで負けてくれるって思ってた』んですよね」
彼女は、依然微笑を浮かべたままだった。
その目はいやに嬉々としていて、陽奈はようやく先ほどの違和感の正体に気づいた。が、その時には既に純恵は動き出していた。
空いていた方の手を陽奈の顎に添えて、そのまま持ち上げる。そして、真上から勢いよく、陽奈の口許を純恵の唇が塞いだ。
遠くで、車輪が唸っている。
電車が通り過ぎていく音は二人の狭間を埋めるにはチープすぎた。
最後の一両が過ぎゆくとともに、唇が離される。
陽奈は驚いたまま、夕食の具材が入ったレジ袋をその場に落とした。
踏切の音が途切れて、街路がしんと、静まり返る。
時間が、再開する。虚ろな視線は深海に飲み込まれる。
「みくびらないでくださいね、わたしを。どんな相手にだって手加減しませんから」
――こう見えて、わたし、結構負けず嫌いなところ、ありますので。
強気な目が、陽奈を射抜く。
「不意打ちは……なんか、その」
ずるい、とか。
ずるい発想で純恵を出し抜こうとした陽奈が抱く感想ではないのだけれど。
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