第10話 『変わっていくこと、変えられない自分。』
「ひなちゃん……っ、出すよッ」
「うん……っ、きてっ」
薄暗いホテルの一室で、ワイシャツ1枚のまま腰を振っていた中年が果てた。陽奈はアフターサービスのピロートークを済ませて、シャワーに入った。
——全然、気持ちよくない。している行為自体は変わらないのに、日に日に摂取できる快楽の量が減退している。長らく身体を売ってきた陽奈からしたら、前代未聞の事態だった。
欲求不満、というわけではない。陽奈の身体の反応は、純恵と行為を重ねたせいか鋭さを増している。お陰で男性からのウケはいい。しかし、男が気持ちよくなっていても、陽奈の反応は鈍いままだった。身体だけが先行して痙攣しているのに、心はぽっかり穴が空いていて、燃料漏れを起こしているような感覚だった。
マッチングした『パパ』は陽奈を求めて腰を振った。必要とされている、はずだ。しかし、感覚神経を擦り合わせるだけで反応してしまう身体とは違って、性欲は高まらない。
むしろ、突かれるたびに胸がきしむように痛む。呼吸は浅くなって、早く逃げ出したいとさえ願うようになった。
――身体を重ねて得られるものは、いつしかお金だけになっていた。その代わりに、日に日に喪失を味わうこととなる。脂まみれの口にキスをすることができなくなった。コーヒー臭も。それに、男性器を口で咥えられなくなった。次第に行為中はマスクをするようになる。自分からボディタッチをしなくなった――、男性を悦ばせる行為を切り捨てていった。
最後には、ただゴムをあてがって、性欲を処理するだけの道具になった。
すなわち、今日の『パパ活』だ。何度か相手している常連の男だ。
「ひなちゃん、これ、3万円で」
「……いつもより、2万円少ないけど?」
「最近、君とセックスしてても、楽しくないんだよね。だから減額。もっと、楽しませてくれたら、昇給してあげる」
「……善処します」
ホテルの前で報酬を受け取り、陽奈が去ろうとした。が、そのとき――、
――パシャ、とシャッター音がどこかで鳴ったような音を耳にして、陽奈の身体はこわばった。周囲を見回したが、誰もいない。昼のホテル街は人通りもまばらだ。盗撮しようとしても物陰は限られている。
結局、シャッター音の主は見つからなかった。空耳だったのかもしれない。
大学の知り合いに『パパ活』の現場を抑えられるのは陽奈も避けたいところだった。今まで築き上げてきた『優等生』のラベリングを保つためにも。
陽奈は、そのような現場に行くとき常に変装をしていたし、盗撮には細心の注意を配っていた。それゆえに、聞こえないものまで聞こえたと勘違いしたのかもしれない。
そうであってほしい。陽奈はあたりを素早く見回して、逃げるように去っていった。
†
――もうやめようかな。気持ちよくないし、男の人を気持ちよくする気持ちも、もう起きないし。
いつの間に、変わってしまったのだろうか。
テニスで勝負をした日から、1ヶ月が経つ。あの日から、陽奈がキスをする相手は純恵だけになっていた。
帰りの電車を待ちながら、メッセージアプリを開く。そして、『パパ』の連絡先とメッセージを次々と削除していく。1つ1つに思い入れがあるわけじゃなかった。彼らのそれぞれの名前を思い出すことすら難しい。なぜなら彼らは一括して、『陽奈の承認欲求を満たす人たち』でしかなかったのだから。
そして、満たせなくなった瞬間、彼らは陽奈と身体を重ねただけの他人に成り下がった。
残ったのは、少なすぎる連絡先。純恵とあと、もう1人。高校時代からの付き合いがあるセフレだ。陽奈は大学近辺に来た直後、彼の家で寝泊まりをしていた。純恵の家に移動してからも、時折メッセージを交わしている。
陽奈は、何の前触れもなく、セフレにメッセージを送る。
彼女は探らずにはいられなかった。
――彼女自身の五感によって、純恵に感じる安心感が、決定的に揺るぎないものであるかどうかを。
『今週末、持って行き忘れた荷物の回収がてら、あんたの家泊まっていい?』
帰りの電車の到着とともに返事がくる。
『構わないよ。でも、せっかくだから、面白いネタも頂戴ね?』
軽薄でどこか掴みどころに掛けるような返答には、都合のいい友達ゆえの居心地の良い、ぬるま湯の温度感がこめられていた。
†
――咄嗟にシャッターを切ってしまった。
電柱の裏にできた闇に隠れた彼女は、力なく膝を崩す。嫌でも目に焼き付いてしまう。シャッターが捉えたのは、自分の女が、スーツを纏った中年から紙幣を受け取って会釈をする姿。
「……今日は、バイトって言ってたはず、なのに?」
講義を終えた彼女は放課後を弄んでいた。
だから、普段一緒に行動している友人らとともに大学の最寄りから数駅離れたところに位置するショッピングセンターに行って買い物をした。
その帰り道に、彼女は予想外な出来事に遭遇してしまった。
深呼吸をして、落ち着こうとする。
けれど、浅い呼吸しかできなくて、今にも窒息してしまいそうだった。
――そういえば、彼女のバイトは、不定期のもので。週4日あるときもあれば、最近は週1日程度で。1日フルで働く日もあれば、昼間の2時間程度で済む日もあって。学科の友人や知り合いと比較すれば、えらく不規則なシフトの組み方だとは思っていた。
違和感のピースが1つずつ、嵌められていく。
――なにより、あの子は実家に勘当されていながら、お金に困っていない。少なくとも、困っているような素振りを見せない。大学からの奨学金が得られるとはいえ、貧乏であることは変わりないはず。こちらから受け取りを拒んでも、居候している分の家賃月5万+光熱費まで納めてくるくらいだ。
――彼女にバイトの話を振ろうとしても、なんとなく、でごまかされ続けてきた。
極めつけに、彼女はスマホに収めた写真を見つめる。
パーツは全て揃い、小林陽奈の新たな輪郭が垣間見えた。
「『バイト』の意味って、――」
理解した上で、言葉を失ったまま、彼女はその場からふらふらと、千鳥足で立ち去る。陽奈の画像が映るスマホを胸に抱えながら。
心がどこかに飛んでしまったようだ。
でも、このままじゃ、陽奈に怪しまれてしまう。
平静を取り繕わなくては。
今まで、周りに合わせた立ち振舞を貫いてきた彼女――――梅小路純恵は初めて、誰かに対する振る舞い方に迷っていた。
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