第2話 『礼儀正しくて顔がいい女。』
小林陽奈は、片田舎の古風で厳格な家庭で育ったにもかかわらず、その家風に逆らうように生きてきた。20年も過ぎない人生の4分の3は反抗期だと言わんばかりに。
このままでは、親に歯向かったまま倍以上の余生を過ごすことになるだろうと見切りをつけた彼女は自ら実家と縁を切り、大学の近辺に移り住んだ。
ただし、住む家は持たない。キャリーバック1つ分の荷物とはした金とスマホを持って、場所を転々とする。文明の利器のおかげで、彼女は衣食住を簡単に寄せ集めることができた。
――マッチングアプリは、お金がない陽奈にとって唯一無二にして特大の稼ぎ口だった。
やることはシンプル。会社勤めの『パパ』を相手して大金をせびる。そして、夜はアプリで作ったセフレの家に寝泊まりをする。
高校を卒業してすぐ、異郷の地に降り立った陽奈だったが、大学に入学するまでの2週間は難なくやり過ごすことができた。男に身体を売るだけの簡単なお仕事で、入ってくるのは最低諭吉1枚から。多いときは諭吉が10枚以上。
女子高生に擬態すれば得られる金額は跳ね上がった。JKのブランドが貴重だ、というのは高校時代――男に身体を売りはじめた頃は分からなかったが、いざ大学生になってみると、若さは強さであることが実感できた。
女子高生時代に男慣れしておいた縁もあって、寝泊まりするセフレも簡単に見つかった。それも、高校時代の先輩で、陽奈の処女を奪った張本人だった。世間は狭い。
「ねえ、おじさん。今日は何がしたいの?」
ホテルの一室に連れ込まれて、短時間のまぐわいをする。大人の男は皆、忙しい顔を演じていながら、目の前で制服をはだけさせた少女を汚すのに夢中になる。
男の人って単純だ。目の前に人参をぶら下げたら簡単に突っ走ってくれるから。
ちょっとでも気があるような素振りをすれば簡単に金をかけてくれる。
お金という人参をぶら下げて、少女たちを走らせているように思っているのだろう。
あとは、優越感や支配欲を満たすように演じていればいい。勝手に満足してくれる。
赤子の手を捻るような腰振りで、情けない声を漏らしてくれる。快楽に魅入られれば、もっと欲しがってくれる。
必要としてくれる、わたしを。だから、耳元でこう囁いてやるのだ。
「――もっと、頂戴。私をたくさん、欲しがって」
堪らなく弱そうな、頼りなさそうな目線を一心に浴びながら、男の肌に肌を重ねて強く抱きしめるのが気持ちよかった。そのとき、陽奈は自分が必要とされている、ということを強く自覚できた。
――春を売る側も、春を買う側もどうしようもなく底辺なのだ。
†
だから、小林陽奈はそんな裏面を見せないように取り繕う。
努力家な優等生というポジティブなラベリングをしてもらう。されるような人を演じる。
西に宿題を忘れた友達がいたら、自身の完璧に仕上がったノートを貸してあげ。
東に急な用事がある人がいれば、その人の代わりに日直の雑務をやってあげる。
小学生の頃に染み付いた習慣は大学生になっても健在だった。
「小林さん、申し訳ないんだけどさ! 今日の課題忘れちゃって!」
講義で常に、彼女の後ろの席を陣取るキラキラ女子集団は5月の連休が明けるとすぐに講義の課題を忘れるようになった。お願いをする低姿勢に輝くような笑顔。どうせ、連休中は休むまもなく遊び尽くしたのだろう。
「いいよ、見せてあげる」
他人は他人、自分は自分。それに、他人から必要とされるのは、陽奈にとって何よりも喜ばしいことだった。後ろから「ありがとう!」と元気に返されたので、笑顔を返す。
課題は出された日に終えるし、カンペ作りも欠かせない。予備カンペを数枚用意する周到さも兼ね備えている。
誰からも必要とされるための努力を陽奈は惜しまなかった。
裏を返せば、特定の誰かを必要とする気持ちを抱いたことはなかった。
ましてや、恋なんて考えたこともない。
誰かのものになることで、誰ものものになれなくなるのだったらお断りだった。
「さっきはありがとうございました、小林さん」
連休明け初日の講義が終わったあと、講義室で課題を解いていたら背後から声をかけられた。おしとやかな声の正体はキラキラ女子集団の1人、梅小路純恵だった。
「いえいえ。ってか、梅小路さんも課題、やるの忘れてたの?」
「いや、わたしは連休前に終わらせてました。なので、明美の分の感謝というか……」
明美っていうのは、先程陽奈に声をかけてきた女子だ。常葉明美。集団のリーダ―的な存在。
「はは、変なの。本人じゃないのに」
「友達を助けてもらったので。でも、いいんですか? 何も見返り求めないで」
「んー、別に。喜んでくれたならそれでいいし。それに人に見せることを考えながらノートをとると理解も深まるし?
ってか、梅小路さん課題終わってたなら見せてあげればよかったじゃん」
「答えに自信がなかったので……。だから、入学したときから優等生然していた小林さんに見てもらった方が確実だよって」
「梅小路さん直々の推薦か。なら、お礼を言う筋も通っているかもね」
「だから、なにかお礼させてもらえませんか?」
後ろの席から乗り上げて、ずいと迫ってくる梅小路さん。おしとやかで控えめな子なイメージとは裏腹に結構積極的な子なのかもしれない。
なんにせよ、礼儀正しい人に嫌悪感は抱かなかった。
「見返りは求めてないんだけど……、納得いかないんだったら、貸し1つでどう?」
「貸し1つ?」
「そう。私が何か困ったときに、助けてもらうとか。もちろん、無理難題は頼まないつもりだけどね。それくらいでいいよ」
「分かりましたっ。その時が来たら、手なり足なり貸しますから!」
艷やかな黒髪を翻して、純恵が陽奈に背を向ける。ダークネイビーに染められたティアードワンピースの裾が陽気に揺れている。背中から溢れ出る過積載なキラキラ空気に陽奈の胸が詰まる。
講義室から去る直前、純恵は陽奈の方へと振り返って、愛くるしい笑顔を浮かべながら、
「約束ですからね」
と遺した。
一般的な男子大学生ならその仕草でコロッと落ちてしまうんだろうな、と恋すらしたことのない人の身勝手な感想だけが陽奈の脳裏に浮かんで消えた。
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