パパ活よりもセフレよりも、わたしとキスがしたいんですね?

音無 蓮 Ren Otonashi

本編

第1話 『都会の女はイカれてる。』

 どこか遠くで、桜の匂いがした気がして小林陽奈は夢から覚める。重い瞼を持ち上げたときには、その香りはどこかに霧散していた。


 シーツが地肌を擦る。薄い毛布の中で彼女は下着だけを纏っていた。


 どうして脱いでいるのだろう。分からない。少なくとも、下着は昨日履いていたものだったし、手櫛で解こうとした明るい茶色のショートヘアは油で重たくなっていた。


 シャワーせずに眠ってしまったらしい。

 頭が回ってきて、陽奈はようやく毛布の裾から見知らぬ天井を眺めることとなる。


 ――そもそも、ここ、どこだ?


 日常の異変に気づくと、急速に脳がセットアップを開始する。

 見知らぬ天井。シングルベッド。木目調のフローリング。ホコリ一つない部屋。

 服が脱ぎ散らかされた形跡もない。

 頭がガンガン痛いのは、脳が過剰な情報のせいでパンクしたからか、それとも単に昨日の飲み会の酔いが覚めていないからか。


「え、マジでどこ」


 陽奈は半ば使い物にならない記憶を総動員して、断片的な記憶を呼び起こす。


「昨日はサークルの新入生歓迎会で、ブラックルシアンを5杯飲んでいい感じに酔っていた私は、確か――、」


 同じく新入生の女の子が先輩にナンパされて戸惑っているところに首を突っ込んだ。

 で、その後どうしたんだっけ。


「――恋人になったんですよ、わたしの」

「うひゃぁっ!?」


 唐突に耳元で囁かれた陽奈は素っ頓狂な声をあげて、後ずさる。忍び寄られた気配すら感じなかった。完全な不意打ちに、背筋のゾクゾクが止まらない。

 振り返れば、ベッドの縁から黒い下着を纏った女が顔を出している。

 やたら顔がいい女が薄雪の積もる肌を晒していた。肢体の輪郭は、同性の陽奈でさえ魅了してしまうような美を備えている。

 何より蠱惑的なのは、まつげの長い二重の瞳だ。

 深海の色を映したそれは、陽奈のくすんだ目を捉えては離さない。言葉で表せないような、呪いを帯びた瞳だった。駄目だ、あんまり見つめ続けたら心すらも囚われてしまいそう。すかさず目線を反らす。

 そして、思い出す。この女に昨晩絆されて、犯された現実を。


「――梅小路純恵」


 学科同期の女。不真面目寄りの人間。周りには常に同性の友達が3~4人いて、俗に言うキラキラ女子大生に属する部類の人種。普段、学科の講義で、陽奈の後ろの列を占領しては小言でしゃべくっている喧しい奴ら。人気者。

 茶髪とはいえ地味な陽奈とは、正反対のグループの中心に近い人物だ。


「……あんたがどうして私の恋人になるの? そもそも私、女だけど」

「恋愛に性別は関係ない……というのは置いといて。

 陽奈さんは昨日の契約、憶えていますか?」


 意識はあやふやだったけど、なんとなく憶えていた。

 しかし、あんな突飛な口約束、契約として成立するのだろうか。


、ってやつ?」

「はいっ! その通りです!」


 話の展開が光の速さを凌駕してる。額を抑えながら、陽奈はフローリングに力なくへたり込む。太ももにひんやりを冷たい感触が侵食する。


「部屋を貸す代わりに、陽奈さんにはわたしの恋人になってもらう。誰も損しない契約でしょう?」

「……梅小路さんにメリットなくない?」


 陽奈と純恵は、今まで学科の授業で面識があるくらいの関わりしかない。そんな相手とひとつ屋根の下で暮らしたいなんて、マトモな精神をしていたら思わないはずだ。

 ただ、問題は面識の薄さだけではない。


「私の素性を知ってて、言ってる?」

「ええ。――自分の住まいを持たない、住所不定学生なんですよね」

「……?」

「ん? はい、それだけですが……?」


 どうやら、昨晩の私は口が軽かったらしい。未成年のくせして酒の飲みすぎで自制が効かなくなっていたのだろうか。ならば、大失態だ。大学生活開始早々に致命的な弱みを握られてしまった。


 小林陽奈は家を持たない。

 厳密には実家からキャリーバック1つ分の荷物を提げて逃げてきた。

 どこからどう見ても、怪しい人物。


「分かってるのに匿うなんて、イカれてるよ」

「仕方ないじゃないですか――」


 床に座った陽奈の背中に純恵が覆いかぶさる。僅かな布地と大多数の地肌が触れ合う。しっとりとした肌触りが心地よくて、ムカつく。


「好きになっちゃったんですから、あなたのこと」


 陽奈の首筋に、純恵の発情した吐息が吹きかかる。

 都会の女は、こうもイカれてるものなのか。

 こわばる身体を解かれ、撫でるようなキスを唇に受けながら、陽奈は意識しないように明後日の方向に視線をそらした。


 、女と行為に及ぶのは初めてだった。

 悪くはない、と心のどこかで満足している自分が憎たらしい。


 ――まったく、どうしてこうなった。

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